日記・コラム・つぶやき

2009年11月 1日 (日)

無駄は悪いのか?

民主党様が大人気のご様子で、いろいろと「無駄」を削って何か「いいこと」をされているようである。

無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄!!!!

って、Dio@ジョジョの奇妙な冒険か!?って感じになるのだけれど。

我々の業界も例外ではなく、科研費Sってのが急遽削られてしまいました。曰く、「無駄」なんだってさ。

それだけではなくて、昨今の学校に対する補助費その他諸々も「無駄」の一言でどんどんと削られて、理科系の科目の実験をするお金も器具もなくして、さらには実験助手(教師と待遇が同じ)も削減、ないしはクビにしておいて、「科学立国日本」「サイエンス大国」なるものを形成すべく「改革」に着手なされているのだそうで。

へーぇ。

なんだか、この手の出すものは出さないで、スローガンだけで「やれ!」と命ずる精神論って戦前、戦中の頃と変わってませんよね。

竹槍で戦闘機を落とせだとか、重装備の連合軍を打ち破れだとかいう教育が行われたetcの話ってある種の誇張もあるんじゃないかって思っていたのだけれど、どうもこの国の偏屈した精神主義を見ていると、あながち嘘でもなかったんだろうなと想像するのは容易である。

変なの。

そもそも、人間の生活において「無駄」なものってそんなに悪いことなのかしらね?

現在は無駄を省くことがよいことで、推進されるべきであるという風潮が当然のように受け入れられているけれど、単純に人間が繁殖だけすればよい。それ以外の行動は無駄であるってなんだか、文化的ではないというか、野蛮だなって気がするのは気のせいなのだろうか。

住む所と、食べるものがあって、繁殖し合える相手がいればそれでいいってなんだかブロイラーみたいな感じがして非常に気色が悪い。

音楽にしろ、絵画にしろ、建築にしろ、映画やテレビにしろ、文学、それに学問、科学その他諸々の人間の営みなんてみんな「無駄」なことを極めた結果なんじゃないかって私は思うのだけれど。

直接、生物としての生存には関わらないものを徹底して極めた結果が人間の知の集大成みたいなものなんだし、各個人が単に生存という枠にとらわれずにいかに充実して生を過ごすかという問いをたてることが可能になった環境こそ、人間の生存競争というサバイバルを超えた存在価値だと私は思うのだけれど、こういう感覚って間違えているのだろうか?

生きるために生きるということ以外に意味を見いだすことができるのが、人間の長所だと私は思うのだけれど。

いいじゃん、別に無駄に勢力を注いでも。それって、プライドに関わることだと思うんだけどね。

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2009年10月12日 (月)

まぁ、いろいろ

えと、最近何やってたんだっけかな。

とりあえず、久々の休みなので、郵便局に行く。平日は仕事なので、郵便局の営業時間になかなか行けなかったのである。(行かなかったとも言えるのだが)

ゆうゆう窓口で預かり荷物を取って、それからひっさしぶりにキタに行ってみる。

中央郵便局って駅前第1ビルに移転したんですよね。敷地がこんなにちっこくなって大丈夫なんだろか?とちょっと心配になってしまう。配送の車も入り難いだろうし。

必要なのにずっと家になかったのものとして、プリンタがあったのでようやく、購入する。これで、プリントアウトの必要がある度に職場に行く手間が省ける。

無線LANも搭載されてあるし、印刷はきれいだし、白黒だと印刷も早い。それにコピーもできるなんて凄い多機能ですね。さすが日本の電化製品。

それと(これがマックの難点なのだが)DVIコネクタなんかも買う。インターフェイスがWindowsと一致しないことが多いのだけれど、この規格だけは統一してもらいたいものだと思う。基本、アップルは隔離されている感じだし。

もし、マックでネットブックを開発しているのなら、せめてインターフェイスだけはWindowsと一緒にしてもらいたいですね。またまた15ピンのコネクタを買わないといけないとか、なんか手間だし。

あとあとDVDも買っておかないといけない。

やれやれ。

ところで、最近、忙しいながらも合間を縫ってちょこちょこと筋トレをした後で一泳ぎするようにもなりました。

調子に乗って1キロ泳いだ後は、全身が重たくて帰るのが困難でしたが。(運動は基本的に得意なんですけど、水泳だけあきませんねん)

そのジムは藤井寺にあるのだけれど、帰りにダイヤモンドシティ地下のスーパーに立ち寄ってみて(なんとなく行ってみようという気になった)、農家直送の八百屋みたいなのを発見する。

鮮度のいい野菜が安くてたくさん売ってあったので、ついつい大きなトマトとズッキーニ、パプリカをまとめて購入してしまう。

賞味期限がすれすれ(というか、今日で切れた)のモッツァレラチーズがあったので、トマトとモッツァレラチーズのサラダを作り、それをラクリマクリスティ(「天使の涙」という意味のあるイタリア産の赤ワイン)で飲む。

美味である。

日本でも安くておいしいワインは手に入るみたいなので、グッドニュースだったのだけれど。(ワインと豆腐には旅をさせるなとか美味しんぼで言ってたけど)

それとトマトの味がしっかりしているのがいいですね。ずっしりと、果汁が自己主張している感じで「トマト」という雰囲気が出ているのがいい。日本の水っぽいトマトだと、モッツァレラと合わないことも多いのだけれど。

秋はいい季節なのでいろいろと遊び回りたいのはやまやまなのだけれど、やらなきゃいけないことだけは盛りだくさんなんだよな。

やれやれ。

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台風で増水した大和川。河川敷が水の底で、危険水域に達したので、電車が止まってしまいました。まぁ、昔は氾濫しまくってたそうですしね。

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2009年9月27日 (日)

帰国後

えと、日本に帰って来ています。

イギリスから帰国後、まーったく休みの「や」の字もない程の忙しさであたふたでした。なぜか、ギターを弾かなければならない用事までできてしまって、通勤の行き帰りから夜遅くまでフランプールの「花になれ」という曲を必死で覚えて、とあるお祭りで弾いてきたのです。

なんとかなってよかったですが。

あたふた、ふらふらで日々の用事に追われて何をやったのかすらイマイチよく覚えていないですが、そろそろ年末の足音が聞こえて来ましたね。

ちょっと一時期だけでも若い頃の体力が戻ればいいなぁと思うのだけれど。


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ヨークの景色。ヨークとエディンバラってそれほど離れていないと思うのだけれど、気候はイングランドのヨークの方が随分と温暖で穏やかな感じがしますね。


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帰りに見えたヒマラヤ山脈の風景。山があまりにも高いので、飛行機のすぐ下にある感じです。これを昇るのは大変なんだろうな。って、そりゃそうか。

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2009年8月16日 (日)

当たり前のことを当たり前にすること

所謂、世間を渡っていくのに「常識」とされる事柄というか、当たり前の事を当たり前のようにするということは簡単なようでいてけっこう難しい。

また、こういった当たり前のことをこなせる能力を持った人は、最終的に得するように世の中はできているというか、周囲の人間が手を貸してくれるようになるわけですよね。

当然っちゃ当然のことなのだけれど。

例えば、きちんと挨拶をするとか、こまめにお礼を言うとか、責任ある行動を取って、道具を大切にして、後片付けをきちんとするとか、そういうこと。

いい大人になっても、挨拶ができないとか、お礼が言えないとかいう人はけっこういると思うのだけれど、こういうのは習慣づけてできるようにしておくに越したことはないですよね。

仕事の派生で、お盆だろうが何だろうが、ちょこまかと世話を焼かないといけないことってのがけっこうあります。

部活の顧問だとか、文化祭の準備だとか、そういうこと。

この種の雑用は、基本、若い子たちから直接依頼されて、正直に言うと「引き受けたくないな(だって、余分な仕事が増えるだけだし、面倒くさい)」という気持ちがある反面、頼りにしてもらってありがたいことであるという気分も大いにあります。

私は、立派な教育者でも全然なくて、どっちかというと性格も性根もひん曲がったところがあるし、だいたい世の中を斜に見ているところもあるし、「論理的に正しければ、後は別にどうでもいい」とかいうヘンチクリンな信念も持っていて、人として全然尊敬されるタイプの人間ではないと考えています。

だいたい、大人の威厳のようなものが感じられないタイプだし、それにけっこうボケーッとしていてちゃらんぽらんでのんびりしすぎているところがある上に、集団行動も苦手で、人の話を聞くのが嫌いという性質も持ち合わせている。

しかしながら、少ないながらも教育哲学なるものもそれなりに持っているつもりで、それは何かというと。

『なるべく生徒さんたちを放置しておくこと』

という方針があります。

放置すると言えば、何もしないと取られるかもしれないけれど、そうではなくて、彼らが何かをやりたいと言えば、やれるだけの機会と場所を提供し、いざとなれば、「俺が責任取るから好きにしなさい」という態度で、リスクマネジメントの手続きを取っておくことという意味で考えています。

教師と呼ばれる人たちは、別に表舞台に出る必要はないし、しゃしゃり出る必要もないし、そもそもあれやこれやと指図したり説教したりする必要はないと思うんですね。

若い人たちが自主的に何かをやっているのを遠くで見守って、彼らが全力で何かに取り組める舞台を用意すること。

それが教師の役割ってもんなんじゃないかと思います。

それは、高校、大学と段階が上がれば上がる程、そういう傾向が強くなるのではないかと思われる。

そういうわけで、若い子たちが自主的に何かをしたいと申し出てきて、それに応えるということは仕事の一部として必要不可欠な部分なんじゃないかと思う。

実際、私がやることなんて本当にたいしたことでも何でもないのだけれど、それでも遠目で、また、時に近くで彼らのやっていることを見ていると、本当に短期間で成長が見て取れるのがおもしろいですね。

地位が人を作るという言葉がありますが、リーダーの立場の人たちはだんだんと頼もしく見えてくるし、それに技術面というところでも大なり小なりみんな上達していくものだし。

それに加えて、しっかりとお礼が言えるという部分も非常にいい。人に感謝してもらえるっていうことは本当にありがたいことだと思うのだけれど、こうやって感謝してもらって、本当に嬉しそうな笑顔を見せてもらえると、何でもやろうかという気になります。「ありがとう(ございました)」と言える能力って重要なんですよね。他に何も要らない。本当に。

「人の成長を見守る」という仕事ってのは、なかなかやりがいがあって楽しいものだと思います。

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2009年8月15日 (土)

おもしれー

えと、なんだか今日は涼しくて気持ちのいい夜だったのです。

というわけで、なぜだかきついお酒が飲みたくなって、ウィスキーのロックとウォッカマティーニを作って飲む。

ひたすら飲む。

さらに深夜徘徊ということで、近場の大和川の河川敷まで歩き、のんびりと星を眺める。人気のない涼しい夜って気持ちがいいですよね。

ところで、iPhoneって数えられないくらいアプリケーションがあって、私も無料のもののみダウンロードしているのだけれど(ケチなのかもしれにゃい)。

それでも有用なものが多くて、楽しいオモチャがあちこちに転がっているので、けっこう病み付きになってしまいます。

iPhoneってこんなに便利なのに、なんで日本人のほとんどはたっかくてしょーもない携帯を所用しているんだろう?と思わないでもない。まぁ、彼らにしてみれば、「iPhoneなんて不便なんだよ」って感じなのかもしれないけれど。

MITがwebで授業公開を始めたのはこのサイトでも取り上げましたが(何せ、首謀者の人が知り合い。まぁ、言語学会なんて狭い業界だし)、iPhoneのアプリ、と言いますか、iTunesでStanfordの人気講義のiPhone Application Programmingという授業がダウンロードできてしまうのです。

これがけっこう楽しい。

アメリカの名門大学の授業ってけっこう分かりやすくて楽しいのが多い上に、トピック的にもピンポイントって感じのが多いんですよね。ついつい熱中して第1講の1時間をさらっと見てしまいました。

酒を飲みながら。

しっかし、英語とパソコンが分かると、楽しいオモチャがあちこちに転がっているので時間がいくらあっても足りないですね。そのうち、「パソコンが先生でした」と言うような天才児が現れるようになってくるんだろな。

情報メディアがこれだけ手軽に手に入ると、既存の媒体はいろいろと生存方法を考えないといけないのだろうけど。

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2009年8月12日 (水)

結婚したい

と思う時って、いつなんだろうな?と考えてみました。

たぶん、それは似たような食事メニューが続いた時ではあるまいか。

一人で消費できる食材なんてけっこう知れているし、特に夏なんて物が腐りやすいのでさっさと食材を消費してしまわないといけないということは、けっこう難しい課題である。

大根やレタス、キャベツなんかが半分とかいう単位で売ってあるのはけっこう便利なのだけれど、それでもちょっと「多めかな?」と思わないでもない。3分の1とかいう単位で売ってもらえるとありがたいのだが。

それと豚バラだとか、魚(特に鰯)なんかも少量単位で売っていただくと非常にありがたいのであるが。

あと、カレーや炊き込み御飯なんかを作ると3日くらい同じ物が続いてしまうのもつらい。

後は食事メニューが思いつかない時だろうか?その時々で「あ、これが食べたい」と思う物を勝手に作れたり買えたりするのは便利なのだけれど、たまには考えること自体がめんどくさいっていうこともある。リクエストしてほしいという時が、たまにあるのである。

まぁ、基本、一人の自由さの方が便利なんだろなって思うのだけれど。相手の食事の好みを考慮しなくてもいいし。

って、別に最近になってようやく結婚願望が芽生えてきたとかそういう話でもなくて、なんだか最近、携帯電話に「フィリピン人の奥さんいりませんか?」とかいう電話が東京やらフィリピン(国際電話番号で分かる)からかかってくるので否応無しに意識しなきゃいけないことがあるのと、後は若い子たちにあれやこれやと尋問を受けることが多いからなんですけどね。なんで女の子ちゃんたちは、ああも揃いも揃って、恋話が好きなんだろうか?

ま、いいですよね。婚期を逃して、ひっそりと一人で死ぬのも悪くない人生だと思う。ただ、墓は無縁仏じゃなくて、灰にしてどっか海にでもばらまいて欲しいなぁと思うのだけれど。

だって、墓地に埋められるってなんだか窮屈そうな感じがしませんか?墓地ってだいたいがひっそりとしていて、暗くて楽しくなさそうな場所だし、そんな所にいつまでもほっぽっておかれるよりは、生物の端くれとして、ちゃんと食物連鎖のサイクルに戻っておきたいという願望の方が私にはある。自然に還るっていうことは、別にネガティブな発想ではないと思うのだけれど。

というわけで、別に婚活を始めたとかそういう話では全然ないです。

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2009年8月 9日 (日)

お久しぶりね

えと、最近、自宅と職場を往復するだけのことが多くて、たまーに市内に出たとしてもせいぜい阿倍野・天王寺止まりって感じだったのですが。

ちょいと久しぶりに難波に出てみたのです。(帰国して以来、2度目)

難波というと、中学ぐらいから遊びに行っていて、高校の頃がちょうどピーク。ミナミっ子だったのが若い時分だったもので、ついつい「若者の街」って感じがして仕方がない。

雑多で、汚くて、適当で、安価で食べ歩きが出来るって部分は、まさに若者の特権って感じがするので、この手の印象はよく言われることである。

しかしながら。

難波もあちこちが改修されていて、局所的にきれいになってはいますよね。特に南海の近辺が整備されていて、ちょっとおっかなびっくり。ミナミにこんなこぎれいな雰囲気は似合わないのではないかとか、なんとか。

まぁ、それでも昔ながらの店は軒を連ねているし、普通の店の間に突然、風俗店が見えるとか、コホコホ。

てか、風俗街はどっかにまとめておいてほしいですよね。小さい子供とか連れて歩きにくいのではあるまいか、と。

それと(一人ではなかったのに)ポン引きのお姉さんに声をかけられてしまったのだけれど、今時って「耳掻きエステ」とかいう店があるんですね。東京にあるとは聞いていましたが、大阪にも進出していたとは。

しっかし、たかだか耳掻きで20分3000円とかたっかいですよね。そんな金あったら、女の子でも誘ってお茶でもしていた方が楽しいと思うのだけれど。(けっこう高いケーキが注文できるし)

しかし、耳掻き店は果たして風俗にカテゴライズされるのかどうか。(そーいや、どんな格好でするのか調べていなかった)

まぁ、いいや。別に。

お久しぶりと言えば、NGKにも行ってきました。

イギリスに行く数年前に行った時には、場内撮影歓迎だったのだけれど(宣伝になるという理由だった)、今は携帯やデジカメの電源オフで、撮影禁止になっているんですね。世知辛い世の中になったものです。

Mr ボールドさんも亡くなったし、劇場ならではという芸人がいなくなったのは寂しいのだけれど、新喜劇の座長が辻本茂雄さんの時はおもしろいですよね。この人が座長だと、テンポがよくて、伏線なんかもうまくて、とってもおもしろいので安心して笑えます。後は、内場勝則さんの時もそこそこ。

話は変わって。

それとJR難波の駅前の開発も進んでいて、ジュンク堂ができていたのがよかったです。

大手の広ーい本屋さんって、ブラブラしていて(英語ではcrawlといいます)楽しいし、わくわくしますよね。それにジュンク堂は立ち読み歓迎というのもいい。好き勝手にいろいろと本を漁って、こっちとしても楽しませてくれたお礼に確実に売り上げに貢献しようという気になる。

今日はペーパーバックがsaleでなんと7割引だったので、The Red NotebookとIn the Country of Last Thingsを買う。ジョン・アーヴィングとレイモンド・カーヴァーも捨て難かったのだけれど、ま、また今度行った時にsaleをやっていたら買うことにします。

夜は久々に海鮮料理に舌鼓。冷酒は八海山が個人的に好きなのです。

酒の味が分かるようになって、随分と年月が経ったなぁ。

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2009年8月 7日 (金)

女を抱く

えと、フライデーナイトですが、ちょっと女を抱いてきました。

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フッ、色男は疲れるゼ。

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2009年8月 5日 (水)

貧乏ごっこ

基本的にイギリスにいる間は貧乏だったのだけれど、今は特に貧乏というわけでもない。

金持ちというわけでも全然ないのだけれど。

まぁ、年齢を考えれば全然稼いでいない部類に入っているのだろうし、だいたいエリートになる機会を自らの意思で失っているのだから、文句も言えないわけである。

そんなこんなで、基本、貧乏な生活を続けてきたということもあって、金銭感覚は本当に貧しいというか、貧乏人のそれなのだけれど、本当にそこまで切り詰める必要があるというわけでもないので、ある種、貧乏ごっこみたいなことをしているのかなという気がしないでもない。

この種の貧乏ごっこというと、一昔前の、フォークソング世代の人たちの大学生活なんかを想像してしまいます。それこそ、四畳半の部屋で同棲しながら、とか。

私の貧乏さ加減といっても、せいぜい食費くらいなもので、後は特に頑張って節約しているということはない。

まぁ、豪遊も全然してませんけど。

いつも仕事から帰ると、駅前のスーパーに立ち寄っているのだけれど、疲れていて、寿司が半額なんかになっていると、さっさと寿司とサラダとビールを買って帰っています。

サラダの類いはけっこう食べていて、一人ということもあるので皿に一杯てんこ盛りで食べています。

エクストラバージンオリーブオイル、レモン汁、白ワインビネガー、塩、挽いた胡椒、マスタード、(あと、おろした玉葱とか)なんかでドレッシングを作ることもあるし(スモークサーモンや生ハムがあるとこの手のドレッシングを使う)、たいていはごま油とポン酢をぶっかけて間に合わせています。

ビールは全然節約なんて観念がなくて、発泡酒なんか絶対に買わないし、主にエビスビールを買っています。このビールは、味が濃くてよろしい。

イギリスにいるとエールなんかの類いが好きでよく飲んでいたので、この種の苦みのきついビールは口に合います。日本の夏を乗り切るのには、やはりビールは欠かせない。

というわけで、節約の類いは主にメインディッシュだけの話で、だいたい、割引になっているものから逆算して料理を作ることになります。

例えば、今日なんかだと豚しゃぶ用の肉が半額になっていたので(夜に買い物に行く強みである)、豚しゃぶのポン酢おろしなんかにしてみました。大根おろしをたっぷりと作って、茹でた豚とポン酢を乗せるだけなのだけれど、なかなかおいしい。

私の英語のホームページを見たことがある人はご存知かと思いますが、私はポール・オースターという作家が好きで、いろいろな作品を読んでいます。

彼は貧乏を記述するのが巧みで、例えば「ムーン・パレス」なんかでは、主人公の大学生が貧乏道を極めるための記述なんかがあります。

主人公は大学に行く以外には、バイトも人付き合いもしないで、ニューヨークという都会の真ん中で世捨て人のような生活を実践します。収入源は唯一、叔父が残してくれた本だけで、この本は家具(机やベッドなど)の役割をしているのだけれど、古本屋に持って行く度に、その家具の一部が欠けていくことになります。

とはいっても、別に悲壮感が漂う文章なんかじゃなくて、例えば柴田元幸さんの翻訳から抜粋すれば、食事の計画なんかはこんな感じになります。

『粉ミルク、インスタントコーヒー、小さな袋入り食パン、以上が主食となる。それに加えて毎日食べるのが卵ー人類の知る最も廉価かつもっとも栄養豊かな食物。ー一日に二個、二分半で完璧な半熟に。パンは二枚、コーヒー三杯。水は好きなだけ飲んでよい。元気の出るプランとは言いがたいが、少なくともそこにはある種の幾何学的エレガンスがあった。』

まぁ、なぜ主人公がこんな貧乏生活をしなければいけないのか、そもそも明確な答えは本人にもよく分かっていないし、作中でどこか明確な答えが書いてあるわけでもないのです。なんなんでしょうね?若気の至り、独善性、体制に対する理由なき反抗、みたいなところでしょうか?

私自身も未だに貧乏気分が抜けないし、どうしても一人だと安物に目が行ってしまうし、無駄遣いをしようとか、給料日だからパーッとおいしいものを食べようとかいう気分になれないでいます。こういうのって貧乏性ってやつなんだろうか。

でも、できるならお金持ちになりたいですよね。本当に貧乏なのは遠慮したいものです。

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2009年8月 4日 (火)

明後日の方向へ突っ走る教育委員会

最近、「新任者研修」と称して、若い教員に2日に渡って農作業をさせる研修を教育委員会が義務づけているのだそうだ。

はぁあ?????
  _, ._
  ( ゚ Д゚)
  ( つ旦O
  と_)_)

    _, ._
  ( ゚ Д゚)   ガシャ
  ( つ O. __
  と_)_) (__()、;.o:。
          ゚*・:.。

もう、意味わかんね。

第一次産業の中心たる農業の機会に触れることで、額に汗を流して働くことの尊さを学び、幅広い視野を持った人間力溢れる教員を養成し、etc etc

はにゃはにゃ。

端的に言わせてもらうと、たかだか2日間農作業を手伝ったくらいで、農業がどんなことをしているのかが分かるというわけでもないだろうし、先方にも気を使わせるだけの話になるんだろうし、そもそもこの手の経験なるものがどのように役に立つのか皆目検討もつかない。

そりゃ、異業種で役に立ちそうな(病院だとか、教育と同じく人を相手にする現場を見せてもらうとか)分野があるということは否定しませんけどね。それにしてもあんまりだ。

まぁ、こういうことを言うと、「役に立つかどうかは役に立たせられる能力があるかどうかの問題です」とかなんとか言われるんだろな。

建前至上主義、理想万歳。人間力養成。目指せ!個性重視の全人格的教育!!

このスローガンって、ナチスドイツのヒトラーユーゲントのそれと酷似しているのだけれど、そんなこと言ったらまぁた青筋立てられるんだろな。

だいたいが、教育委員会関係者だの、教育学者だのといった人たちの言動って、どうも明後日の方向へまっしぐらに走っているようにしか見えないんだよな。

「人間力養成」とかいう話になったら、星だか、妖怪なんだかよく分からない二等身のばけものが気持ち悪い笑顔を浮かべているパンフレットやら教科書やらが並ぶことになるし、やたらと教条主義的なお説教が延々と続くし。

「いじめをなくそう」というスローガンはよくても、実際問題役に立ちそうな対策や具体例はゼロ、ナッシングだし。「なくそう」でなくなるのなら、いくらでも言ってやるっちゅうねん。

昨今の教育関係者に対するセクハラ研修なんてのも酷いもんで、

「教師という立場の人間が指導と称して若い女生徒と二人きりになり、マッサージと称して身体のあんなところやこんなところを触ったり、キスをしたり、服を脱ぐように強制したりすることについてどう思うか?」

なんて課題が与えられたりするのだけれど、そんなん。

あかんに決まってるやろ。アホか!!!

もうね、意味分からん。

だいたい、こんなくだらん話を授業やら何やらを潰してまで強制的に研修させるということの意味が分からない。もう、全く理解不能。

おいら、大学だろうが、高校だろうが、「人間教育」なんて金輪際やらんもんね。社会のルールとマナー守って生きてくれたらそれでよいです。若い人たちはあんまり「教師」と呼ばれる人たちの意見は真に受けないようにしてほしいもんです。適当に聞いたふりして、流しておけばよろしい。

どうも私は昔から「人間性」という言葉が好きになれないんだな。

そこにはある種の適当さ、問答無用さ、中身のなさ、思考回路の停止、押しつけしか感じられないからなんだと思うのだけれど。

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2009年7月 4日 (土)

教師が仕事をしすぎるということについて

今日はいい天気ですけど、ずっと雨で大変でしたね。

家の近くには大和川という昔は氾濫しまくっていた川があるのだけれど、やっぱり水かさが増えていて大変でした。河川敷なんかも川の底に沈んでいたりするし。

川の氾濫というと、やっぱりヨークのウース川を思い出しますね。有名なウース橋からの風景はこんな感じなんですけど。(york 360から)

Riverousefromousebridge

このサイトでも何度か紹介しましたが、左手に見える建物はパブで、よく川の底に沈みます。治水対策とかやらないのだろうかと疑問に思うのだけれど、マスターはいっつも「この前はここまで沈んじゃった♪」と楽しそうに話をしてくれます。ま、いっか。この種のいい加減さがイギリスのいい所でもあり、悪い所でもある。

ところで、昨日は実に久しぶりに肉を食べながら(恐らく3年ぶりくらいだと思う。焼き肉とかいう料理になると、4年ぐらいのブランクはある)「教師」と呼ばれる人たちと飲んでいたのだけれど、しっかし、教師という人種は(i)よく喋る、(ii)人の話を聞かない、(iii)いい意味でも悪い意味でも子供っぽいという特徴が顕著ですね。まぁ、職業病みたいなもんだと思うので別にそのことは(iiを除いて)悪いことではないと思うのだけれど。

ある程度仕事ができる人たちになると、自分なりの教育論なるものを強く持っているのだけれど、話を聞いていて、「それはなんだかな?」と思う気分になることはけっこうある。

教師は生徒にコミットしてなんぼだ、だとかいう信念は確かに立派だと思うのだけれど、でも1から10まで手取り足取りとかいうのは、なんだか1対1で人間相手に向き合っていないのではないかとかいう感覚があるし、「あれもしてやる、これもしてやる」とかいう態度は、確かに生徒の側からすると「これだけのことをしてくれた」とかいう事実に対して感謝するという気持ちが芽生えることもあるのだろうけど、でも、なんだかある種の押し付けがましさみたいなものが見えて、個人的に好きではない。

私が金八先生があまり好きではないというのもこの理由による。

生徒さんの側から何かの要請があれば、それに応えるということは確かに義務だと思うのだけれど、次から次へと教師の側から手を差し伸べるという態度には、個人的には妙な気持ち悪さを感じてしまう。

一つには、バランス感覚のようなものがあるからだと思う。例えば、教師と言えど、一人間である以上は自分のプライベートを持っているわけだし、友人や大事にするパートナー、ないしは家族がいるわけだから、それはそれでそっちを大事にするという必要が私にはあるように思える。

自分にも周りにも自己犠牲を強いる人たちが教師という人たちには時に見られるのだけれど、そのことが善であると私にはとても思えない。

仕事、特にクラブ活動にコミットしすぎて結婚できない、ないしは離婚してしまうという人たちを指して「クラブ未亡人」、「クラブやもめ」なる言葉もあるみたいなのだけれど、いかなクラブ活動にコミットしている生徒といえど、自分の家庭を破壊してまで尽くして欲しいと考える学生はいないのではないかと思う。

教師が生徒に思いやりを持つということは大事なことだと思うのだけれど、生徒に思いやりを持ってもらうということも大事な事なのではないかと思う。むしろ、生徒を一段落下に見るのではなく、対等な相手として見るのであれば、そういう態度を見せることも大人としての責務なのではあるまいか。

「生徒にこれだけのことをしたのだから、彼らはetc」という言及に、ある種の押し付けがましさが垣間見られるのはこのことによるのではないかと思う。

それと、「無駄な時間」を省き、etcという発想にもちょっと納得がいかない。

10代の後半、ないしは20歳前後という年齢は、モラトリアムな時間が一定数必要で、あれやこれやと考え、悩むことも重要だと思うし、うまくいこうがいくまいがそれなりに恋愛もして、たまにはちょっと背伸びをして街中に遊びに行って、という回り道をすることは、私は成長過程において必要なことなのではないかと思う。

ちょっと一息ついて、何もしない時間を作ること。

それはきっと、ある種の「はしか」みたいなもので、必要なプロセスの一つなのではないかと私は思うのである。

言い方が悪いのは百も承知だが、それこそ動物園の中の動物のように「しつけ」をする必要があり、少しでも社会生物にする義務があるような生徒を相手にするのは別として、ある程度成熟した高校生や大学生になれば、教師の側も相手をリスペクトする気持ちを持ち、1対1の人間として対応することも必要なことなのではないかと思う。

自分の思うように動き、管理することのできる生徒を持つことは確かに楽しいことで、またそういった人たちの成長に役立つことができるという事実が教師としてのアイデンティティを高めるという側面があることは否定できないように思うのだが、「教師と生徒」というある種のカーストを成立させるのは、あくまで学校という場所での学校営業時間のみと割り切って、それ以外は自分の思うようにいかないのが普通であると考える方が健全なように私は思う。

大きく打てば大きく響き、小さく打てば小さく響く。

教師と呼ばれる人たちは、これくらいのさじ加減でいいのではないかと思う。

まぁ、これも意見の一つであると言ってしまえば、それまでのことなのだけれど。

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2009年6月27日 (土)

ゴキブリ嫌い

えと、日本に帰って来てから2度目のゴキブリとの再会とあいなりました。

この前、薬局で日焼け止めと一緒に買ってきたゴキジェットで一発退治できましたけど。

しっかし、ここ3年、ゴキブリも蚊もいない国で生活していたものだから、改めていやーな日本の夏を思い出す羽目になったのです。

てか、だいたい暑過ぎまっせ。この国は。

ゴキブリが好きという人はあまりいないとは思うのだけれど(しかし、いろんな人がいるのが世の中ってもんだし。海千山千)、私はそれほどゴキちゃんは苦手ではない。

わりとすぐに対処できる。

てか、だいたい「怖い」とか思わないし。

しかし、よく考えてみると、私より縦にも横にもずっと大きい弟なんぞはゴキブリに対する耐性が全くないし(本当に怯える)、先日も、とある女子高生が「ゴキブリがいるので一人暮らしができない」と嘆いていらした。

どうも、ゴキちゃんがいるというだけで体が固まってしまうらしい。

まぁ、人にはそれぞれ苦手ってもんがあるんだから、それをバカにしようとかそういうことはさらさらないのだけれど、もし将来結婚して、パートナーさんもうちの弟みたいにゴキちゃんがダメな人だったら大変ですね。二人で家で固まっていないといけない。

私はゴキブリは平気なのだけれど、ネズミがけっこう苦手である(蛙はもっと苦手だが)。

イギリスのヨークにあった家で、一度、洗面台の下にしまってあった食器洗い用のスポンジをネズミに齧られてダメにされてしまったことがあったのだけれど、それにはけっこうびびらされてしまいました。

まぁ、不幸中の幸いで、ご対面する機会はなかったのだけれど。

ネズミに対する苦手意識ってのはそれなりに根拠があって、小さい頃、家の近所でドブネズミの集団が移動しているのを見かけた事があって、どうにも気持ちが悪いと思ったちょっとしたトラウマがあるのである。

ドブネズミの顔は、間近で見るとけっこう気持ちの悪いものである。

そういうわけで、ハムスター程度のちっこいネズミならともかく、ちょっと大きめの(英語で言うrat)ネズミはちょっと遠慮させていただきたい。モルモットなんかも実は気持ちが悪くて、それでいて怖い。

生物学や医学には興味があったのだけれど、この方面に進まなくて本当によかったと思います。ラットなんかとじっと対面して生活しなきゃいけないなんて、私にとってはちょっとした地獄です。ひゃう。

そんなこんなで、今日は家の中を掃除した(週に一度は抜本的にやっているけど)ので、ゴキちゃんとはしばらくお会いしたくないものである。

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2009年6月14日 (日)

やることは多い

最近、日常でやんなきゃいけないことに追われていて、ややパンク気味です。って、おいら本業は何やっている人だったんだろ?

まぁ、なんとか倒れない程度に鞭入れていきますけど。

やれやれ。

先週は久々にアカデミックな業界関係者と触れ合って、いろいろとディープなトークができて楽しかったのです。久々に会えた人も多くてよかった。日本の学会は学生の発表の方が圧倒的に多くて、海外とちょうど逆(海外では独立した研究者の発表の方がずっと多い。つまり、倍率以上に採用が難しい)の関係になっているのだけれど、聴衆は実力者も多くて、実り豊かなフィードバックも多くて、期待以上のものが得られて嬉しかったです。秋はまた母校でトークしてきますけど、悪くないのではないかと思います。

それと、日本の母校の後輩さんの発表も聞きました。修士なので、今回が初めての発表だったみたいなのだけれど、精力的にやっているみたいでなかなか頼もしかったです。こうやって後ろから刺激してくれる人たちが出て来てくれるのはなかなかに嬉しい。自分が母校にいた頃はフォーマリストもほとんどいなかったし、同期でいたらもっとよかったんだけど、と思わないでもない。

でも、また今後もどっかで会って、ちょこちょこと飲んで喋れたらいいなと思います。彼も留学志望者なので、ぜひともうまくいって欲しいものです。海外なんて思ったより近いもんです。

それで、先週も理不尽なくらい忙しい週だったのだけれど、金曜日は職場挙げての宴会だったので、久しぶりに羽を伸ばせました。

会場は難波にあるスイスホテルで、難波に来るのももう4年ぶり。お久しぶり。

南海難波駅は改装されてすっかりきれいになっているし、マルイ近辺も近代的できれいな建物になっているし、東宝シネマの改装工事も既に終了していたりする。(そりゃ、そうだ)

すっかり時の流れから置いてけぼりにされた気分になって、周囲の人たちに「何時代の人ですか?」とか、「浦島太郎ですね」とか言われたのだけれど、そりゃそーだ。

今週末は本当にお久しぶりの休暇だったので、ちょっと本が読みたくて(論文書かなきゃいけないのだけれど、( ̄▽ ̄;))、Paul AusterのMan in the Darkを購入。

UKで5.9ポンドのものが、1090円で買えるのって、なんだか良心的ですよね。昨今の円高のおかげなのかもしれないけれど。

村上春樹さんの1Q84はとても興味があったのだけれど、1巻はとりあえずどこでも売り切れ。既に100万部を越えたらしいし、凄い売れ行きですよね。もしかすると、ノルウェイの森を越えることになるのかもしれない。

そうなると、社会現象になってしまうな。

分厚い本はかさばるし、どこにでも持ち運びができるわけでもないので、文庫になるまで待ってみるかと思わないでもない今日この頃。

とにかく、ようやく家に届いたソファーに寝転がって、Franc Francで購入したCalmというアロマを焚いてペーパーバックをめくって、洗濯機をかけています。

あと2、3日、こうやってのんびりできるといいのだけれど。

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ついに明らかになった部屋の一画!って、「男の一人暮らしの部屋に誰が興味持つねん」って話ですよね。

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2009年5月30日 (土)

ちょっと気になったので調べてみた

最近、忙しい。

朝、6時に起床してからずっと働き詰めで、晩ご飯を食べてから意識を失い、夜中の2時か3時に目が覚めてから寝るという生活サイクルを繰り返している。

来週もやること目白押し。にゃう。

ところで。

ちょっと今朝は朝日新聞(ネットニュースだけれど)を読んでいて、ちょっと気になったことがあったので調べてみた。

『元教え子と交際、中学校講師を懲戒処分 福岡

福岡市教委は29日、市内の中学校講師(27)が教え子だった女子高校生と交際し、 18歳未満と知りながら性的行為をしたとして、懲戒免職処分にしたと発表した。 また、内申書のコピーや連絡網などの個人情報のべ2500人分を自宅で家庭ゴミとして出した 西区の中学校の前教頭(47)は、3カ月間減給10分の1の処分とした。

市教委によると、中学講師は以前勤務していた学校で授業を担当した女子生徒と、卒業後に数カ月間交際し、性的関係を持ったという。生徒の携帯メールを見た保護者から、5月上旬に現在勤務している学校の校長に申し出があり、調査したところ事実を認めたという。 講師は「恋愛感情を持っていたが、大人として正しい行動を取るべきだった」と話したという。

朝日新聞 2009年5月29日 』
元教え子と交際、中学校講師を懲戒処分 福岡

えーっと。
確か、日本では親の同意が必要とされるものの女性は16歳で結婚できたはずである。

となると、16歳か17歳の妻を娶れば、旦那は問答無用で条例違反に問われるのだろうか?

素朴でバカらしいが、この手の法律ってやつはめんどっちいなぁとつくづく思う。科学のように美しい世界であればいいのだけれど。

まず、ずぶの素人が専門知識を振りかざすと、結婚に対する規定は民法で、条例はあくまで条例であるはずである。

となれば、法律上は民法が優先される(はず)なので、婚姻ないしは婚約関係にある男女の場合、条例は無視することができるはずである。

とりあえず、自己解決。

しかし。

民法と条例の関係をネットで調べてみると、前者を裁判で争う場合には民事、後者では刑事裁判ということになるらしい。

となると。

16歳や17歳の妻を娶ると、民法上は無罪だが、刑法上は有罪ということになりかねないのでは?

うーん、難しい。

ところで、私の経験に則れば、男が大学生で女が高校生という組み合わせのカップルはそこそこいたという記憶がある。(別に珍しいことではないと思うけれど)

ということは、私の知り合いも相当数条例違反に問われなければならないはずなのだが、これはどうなのであろうか?というしょーもない疑問が頭をかすめる。(時々、私はしょうもないことに頭を悩ませている。まぁ、言語学自体、しょーもないではないかと言われるとこちらも立つ瀬がないのだけれど)

またしてもGoogle先生に聞いてみると(このお方はなんでもご存知である)、条例は当然の事ながら都道府県によって大きく異なるようである。

大阪をひもといてみると。

大阪では、大阪府青少年健全育成条例23条にこの規定があって、

(1) 青少年に金品その他の財産上の利益、役務若しくは職務を供与し、又はこれらを供与する約束で、当該青少年に対し性行為又はわいせつな行為を行うこと。

(2) 専ら性的欲望を満足させる目的で、青少年を威迫し、欺き、又は困惑させて、当該青少年に対し性行為又はわいせつな行為を行うこと。

(3) 性行為又はわいせつな行為を行うことの周旋を受け、青少年に対し当該周旋に係る性行為又はわいせつな行為を行うこと。

(4) 青少年に売春若しくは刑罰法令に触れる行為を行わせる目的又は青少年にこれらの行為を行わせるおそれのある者に引き渡す目的で、当該青少年に対し性行為又はわいせつな行為を行うこと。

の4つが禁止されてあって、違反者は6ヶ月以下の懲役、もしくは50万円以下の罰金に問われるのだそうである。

ふむ。

条例内容を見る限り、純粋に青少年を保護しようという意図が見られるし、バランスが取れているように思える。それにこの条例に則れば、私の知り合いも罪に問われることはなさそうである。

一方で。

今回、逮捕されちゃった人は、福岡県青少年健全育成条例第31条にひっかかっちゃったみたいですね。ここのは厳しくて、18歳未満の人と関係を持っちゃうと、問答無用で2年以下の懲役、ないしは100万円以下の罰金に問われるみたいである。しっかし、同じ日本でもここまで変わるものなのか。

まぁ、人が人を裁くということはとことんアンバランスですね。社保庁の人たちや大分県の教育委員会関係者(他の教育委員会が白だとはとうてい思えないけど)なんかはもっとあくどいことをやっているのに、結局無罪放免なんだから。

せめて、科学の世界だけでもきれいな所がないと人生やっていけない。

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2009年5月25日 (月)

高校生カップルについて

高校生にもなると、付き合いだす男女がそれなりにいるわけだけれど。

なんとなく、高校生カップルっていいですよね。中学生カップルだと、「子供のくせにいきがりおって。」という気分にならないでもないけど(「よりを戻す」etcだとか、自分たちも使っていたけれど、中学生が使うとなんだか「はぁ?」って気分になる感覚があるのは否定できない)、高校生だとまぁ、16歳にもなれば女性は結婚できるわけだし、男性でも18歳で結婚できるわけだし、外見的には「男女」という言い方がしっくりくるようにもなるし、それでいて初々しさみたいなのもあって、なんだか「絵になる」という感じがある。

メールだとか、電話をしてるだけでも楽しいんでしょうね。なんとなく羨ましいものです。最近、たとえかわいい女の子からでも、メールの返信すらめんどくさいと思うようになってきた私からすればなおさらのことです。

そんなこんなで、高校生の男女が手をつないで歩く姿はけっこう絵になります。

まぁ、例えば私のようないい大人が女子高生と手をつないで歩いていると、どこに出しても恥ずかしい立派な変態教師のできあがりなのですが(逆もしかり、でっせ。いい大人の女性教師が男子高校生に甘える姿は奇妙である。まぁ、高校生が若かりし頃の滝沢秀明くんで、女性教師が松嶋菜々子なら考えないでもないですけど。そんな組み合わせ、現実にはありませんわな)。

って、今日もたいした内容のないエッセイでしたね。ま、気楽に読んでもらえれば。

ピース。

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2009年5月16日 (土)

もうやめて

やたらとやかましいテレビがこういう時に家にないのはせいせいするのだが、世間では豚インフルエンザに関してヒステリックに騒ぎ立てるニュースが多くてやってられない。

カナダに研修に行っていた寝屋川の高校生が感染したというニュースが流れるや否や、高校や教育委員会が猛烈にバッシングを受けたり、しまいには感染した高校生たちが何か犯罪でも犯したかのように叩きまくるメディアやらインターネットやらには気持ち悪い程の違和感を感じる。

とうとう感染源の不明な、日本国内の感染者が兵庫から出たそうだが、これに関しても正直、「騒ぎ過ぎ」という印象が否めない。

あぁ、もう、やんなっちゃう。

そりゃ、豚インフルエンザはそれなりに恐ろしい病気なんでしょうよ。

一番「酷い」とされている地域のメキシコでは20人、ないしはひょっとすれば60人が豚インフルエンザで亡くなっているとされている。

インフルエンザ自体、感染力の強い伝染病なんだし、そもそも死人が出るのは毎度の事なのである。

悪名高いスペイン風邪に至っては、世界中で5000万人近い人が亡くなったというのだから、油断は禁物である。

しかしながら、ですね。

手洗い、うがい、予防接種以外に予防方法もないわけですし、そもそも人間が生きるにリスクってのはつきものなんだから、「あれもダメ、これもダメ」とか、何かとやたら騒ぎ立てる様子を見ていると、生きていくのがつくづく窮屈になっていくもんだと思わないでもない。

私は、BBCをiPhoneのpodcastで毎日聞いているし(イギリス国内とworld newsの2つを聞いている)、ロイターなんかもちょこちょこ見ているけれど、こんなに大騒ぎしているのは日本くらいなのではないの?

挙げ句、今月に予定していた某言語学の国際学会も延期にするそうですし、なんだかなぁという気がして仕方がない。

リスク、リスクって、別に回避しなきゃいけないほど危機的なリスクのように私には思えないのだけれど。

それよりは、新型インフルエンザと騒ぎ立てることによって社会不安を煽り、不況に拍車をかけ、くらーいニュースばっかり流して、挙げ句、感染者を犯罪加害者のように責め立てるという社会構造の方が深刻な病にかかっているんじゃないか?と私なんかは思ってしまう。

もうちょっと冷静になれないもんかなぁ。

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2009年5月 6日 (水)

まぁ、楽しいのだが

えと、正直、今の生活はなかなか楽しいです。

定期的にバトミントンができるのもいい。まぁ、たまには野球とか球遊びもしたいのだけれど。

バトミントンはとかく素人に近かったので、1日単位で自分が技術を身につけたりうまくなっていく様子が実感できるのがいいです。野球なんかだと、それこそ全盛期は過ぎ去っているので、下手になっていく自分を実感して、ちょっとずつ絶望するのがいやーな感じだったのだけど。

しかし、いろんな面でやたらと自分が持ち上げられているのがなんだか違和感があって、ちょっと「嫌」な感覚もあり、自分が本来いるべき場所にいないのではないか?という感覚がどうも拭えません。まぁ、1年で終わるといいのだけれど。

それと、イギリスの大家さんとコンタクトを取って自分の郵便物の扱いについての話をまとめる。実は先月に、ずっと同居人だったイギリス人のスティーブとブレットが引っ越しちゃったので、スティーブに頼んでいた事後処理をそのままお願いしちゃったのです。

お金にならないのに、めんどっちいこと頼んでごめんなさい。まぁ、相手は若い中国系の女性なので、次に訪問する時に日本のお菓子でも持参して行きます。

研究者モードのお仕事と、仕事探しや学会関係の書類作りは専ら夜中にやっているのだけれど、疲れているせいか、「沈んで」いることが多いです。気がつかないまま机にうっつぷしていたり、椅子の下で寝込んでいたりetc etc

たまに酒を断って集中すると、朝の4時までやっていたりして、アドレナリンの放出量がコントロールできないような感じになっております。無理をしようとすれば、できんこともないって感じなんだけど、その後がしんどい。

若いんだか、年を取っているんだか。

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2009年5月 3日 (日)

無駄はいらないのか?

現在の大阪府知事は橋下さんで、まぁ、報道されているように意外とちゃんと仕事している感じだし、前任者のぶさえさんと比べれば、かなりマシな知事さんだと個人的には思う。

財政状況を黒字に変えたという部分は、確かに「目に見える」功績だし、まぁ、それなりに評価してもいいのかなと思う。

この人の知事としての方針はけっこう一貫していて、「お金」というのが常にキーワードになっている。

そもそも政治の基本は税として徴収した富の再分配にあるのだから、それはもっともである。

しかしながら、ことは大阪だけの話でもないと思うのだが、「無駄を省く」ということが徹頭徹尾追求されている昨今の日本の風潮は「なんだかな」と思う。

アメリカ人は遊ぶ為に働き、

ヨーロッパ人は休む為に働き、

途上国の人は生きる為に働き、

日本人は働く為に生きる。

とかなんとかいうブラックジョークを思い出してしまうのだが、どうも日本では無駄を行うとか、遊ぶとか、休むという行為に対して罪悪感を抱かなければならない義務感のようなものを押し付けられているような気がして仕方がない。

有給を取れば、「社会人としての自覚がない」と周りから白眼視され、産休を取れば「会社の負担になる」と言われて退職を要求され、昼にビールを飲むと、「昼間からどういうことだ?」と蔑まれ、旅行に行こうとすればその旅行先やら計画やらを上司に報告し、etc etc

人生を楽しもうという行為をしようとすれば、周りから足を引っ張り合うプレッシャーをお互いに押し付け合って、息苦しい社会にみんなでしていこうという雰囲気になんだかどうも馴染めない。

こういう国民性のせいか、「みんなで一緒に休む」という手段を取ることにより、なんとかプレッシャーを軽減して楽しもうという方向性があるにはあるのだが、いかんせん、みんなが同時期に行楽地に行くので、あちこちがごった返してなかなか楽しめる状況にはならない。

休みも適当に分担して、平日の昼間に行けばいいのに、と切実に私は思う。

そんなこんなで、政府が頭ごなしになのか、「みんな」によるプレッシャーによるものなのか、「連休を楽しめ」とかいう風潮を押し付けられると、どうも私のようなひねくれ者は「へんっ」という気分になってしまう。

というわけで、ここ最近も、わりと普通に仕事してます。とは言っても、午前か午後に若い子たちとバトミントンをして、空いた時間にパソコンを打って、論文を読んでいるけっこう気楽な生活なのだけれど。

話を戻して。

それで、「無駄を省く」という政策の中には、大阪センチュリー交響楽団への援助の廃止だとか、市民体育館の廃止なんかも含まれているのだそうだ。

かろうじて、後者は首の皮一枚繋がって、前者は今後の状況次第なのだそうだが。

正直、一部、政治団体や利権団体への援助は、公共機関である大阪府が行うべきなのかどうかということに対して、私も疑念を抱かざるを得なかったのだけれど、体育館だとか芸術活動の援助くらいは行ってもいいのではないかと切実に思う。

この種の「無駄」という言葉に込められている意味は、私の解釈が間違っていなければ、生存に必要か否かということである。

徹底して無駄を省いた人間の生き方を追求すれば、行き着く先は、寝る場所があって、食べ物と飲み物が確保されてあって、繁殖に必要なパートナーがいればそれでいいとかいうことになるのだけれど、でも、それは人間的活動としてはいかがなものかという疑念が拭えない。

どうせ寝るのなら、快適でお洒落な場所にしたいという遊び心も、どうせならおいしくて見た目が奇麗な食べ物や飲み物を口に入れたいという欲求も、どうせなら一緒にいて快適で好きだという感情が抱けるパートナーと一緒にいたい欲求も、換言すれば、「無駄」ということに他ならない。

無駄なく効率的な繁殖を求めるのであれば、利便性だけを追求した寮のような住環境に人間を押し込めるべきだし、食物は栄養価のみを求めるべきだし、晩婚化・非婚化の叫ばれている昨今、それこそ統一教会の合同結婚式のように無理矢理「つがい」を作ってしまうべきであると思う。

しかしながら、かようなブロイラー的生活スタイルを求める人間など、皆無であろう。

人間に無駄は必要なものなのである。

見た目のいい建造物を建て、音楽を奏で、絵や彫刻を書き、文字や絵、映像で物語を作り、知的好奇心を追求し、スポーツに勤しむということは全て生存に不可欠ではない「無駄」であるが、かような無駄にこそ人間生活を人間的に彩る働きがあるのだと私は信じて疑わない。

仕事や生存に無駄があって、何が悪いのかと私なんぞは強く思う。

「無駄を省く」という思想も考えものだと思うのだけれど。

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2009年4月19日 (日)

欧米化している

なんとなく生活リズムというのが確立するようになって。

洗濯はわりとこまめにやっているのだけれど、部屋の掃除を平日にやる体力はないので、週末にまとめてやっています。

見た目はそれほど汚くもないかなって感じがするので、それほど掃除しなくてもいいやんって気になってしまうのだけれど、ワイパーなんかで床を拭くと随分と埃や髪の毛がついていたりするので驚いてしまう。

フローリングなので、掃除が楽なのはいいのだけれど。

それとお風呂の排水溝に髪の毛が溜まっていたりするので、取り出して洗うのもけっこう重要だったりする。イギリスだと、それこそ髪の毛ごと流してしまうような作りになっていた(ごくたまにパイプが詰まる。そりゃ、仕方がないですわね)ので、そんなに気にする必要もなかったのだけれど。

日本にいるので、朝ご飯は米と味噌汁!と言いたいのだけれど、普通に珈琲を沸かして、トーストを作り、ヨーグルトとバナナを食べています。本当はベーグルがあればいいのだけれど、日本のベーグルは高過ぎる。

ベーグルの他にも、スモークチーズやスモークサーモンなど、わりと日常的に食べていた品々が高いので、けっこうつらいところはある。昨日は久しぶりに都心に出たので(日本、人多過ぎ!)、イカリスーパーや成城石井をうろついて、なかなかエキサイティングな時間を楽しめました。

私の業界では17日が給料日だったのだけれど、なぜか半月しか働いていないのに、1月分の満額の給料が口座に振り込まれておりました。なんだか悪いことをしたような気分になってしまうのだけれど、あと1月を半月分の給料で過ごさなければならないと考えていた私にとっては、気持ちが大きくなってしまうきっかけになってしまったのです。

とは言っても、久しぶりに安めのワインを2本とウィスキーを買い込んだくらいのものなのだけれど。イタリアワインとフランスワイン、懐かしい。

晩ご飯も、いつの間にやら欧米化してしまっている節がある。

いつものようにタイムサービスで鮭や鰯を買ってみたのだけれど、その2回とも塩をふってグリルで焼いて、エクストラバージンオリーブオイルをどばどばとかけて食べるポルトガル方式でいただく。

バゲットを買って、ワインを飲みながら夕食を食べていると、イギリスにいた頃の食習慣とそれほど大差がなくなってしまう。

日本的な発想でいけば、鮭は醤油が基本だし(愛称抜群ですよね)、鰯は煮付けにでもするのが普通なのだろうけれど、なんとなくそういう気分にはなりませんでした。なんでだろ?どっちの調理法も好きなのだけれど。

ついでに生活ペースがゆったりとしていて、急ぐとかバタバタするとかそういうこともあまりしないようになっています。電車を1本逃したところで、あと15分で来たりするんだったら、対して変わらないやんといった発想。ザット・ダズント・メイク・ディファレンスって気分で生きていたりします。

まだまだリハビリ中(rehab)ということなのかもしれないけれど、来年、あっちの方に帰っている可能性もあるので、よく分からないですね。

まぁ、人間、どこにいても生きられるもんです。

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2009年4月 4日 (土)

新しい環境

みなさん、お元気ですか?

って、ブログというか、エッセイの出だしとしては変なものなのだけれど(手紙じゃないんだから)、何はともあれ、私は元気にやっています。

それで、よーやく、新しい家のインターネット環境が整いました。

光ファイバーが導入されているので、そこにAirMac Expressを差し込んで、無線LAN環境を作った。これで、MacBookもiPhoneも快適に動きます。

新生活ということで、やたらといろんな手続きがあってややこしい日々を送っていたのだけれど、でも、引っ越しってなかなか楽しい作業ですよね。やっている間はけっこうめんどくさくて、「やってられるか!」って気分になるのだけれど、一通り荷物を広げ終わって、整えてみると、一仕事終えたという気分になれる。環境を一新するというのも悪くないし。

うん、悪くない。

今の部屋はきれいでなかなかいいのだけれど、また近いうちに引っ越しをしてみたいなと思ってみた次第である。

ところで、帰国してもう3週間になるのだけれど、なんとなく未だに気分が落ち着かないし、なんだか自分のいるべきところにいないようなもやもやとした感覚が抜けきれないでいます。

さすがに何年もイギリスにいると、そっちの方の生活に慣れてしまって、なんだか日本の方が海外って感じがしてしまうのです。

それと、日本にずっといると気付かなかったのだけれど、日本という社会が妙に息苦しくて仕方がない。

偉そうな物言いなのかもしれないけれど、一々他人の一挙手一投足に気をかけすぎだし、それに他人のアチーブメントに文句をつけて、足の引っ張り合いをしている雰囲気がやたらと目についてしまう。

それにアチーブメントを達成した人も、そのことで人の妬みや恨みを買わない為に頭を下げてぺこぺことしなきゃいけないというのも、なんだかしんどい。

そりゃ、傲慢になるとか、威張るとかいうのは褒められたことではないのだけれど、誇りに思える機会がないって、ちょっと「しんどいよな」って感じがしてしまう。成功したのに、「調子に乗るな」と説教されてしまう社会ってなんだか変な感じですよね。こうやって若い間にあれこれと押さえつけられてしまう環境があるから、やがて年配になってやたらと顕在化することとなって、日本のおじさんたちの多くがやたらと偉ぶっているんじゃないかと思わないでもない。年を取ったら余裕のある人間になりたいものだと思うのだけれど。

それと、昨今の不況、それにメディアに目を通せばネガティブなニュースばっかりなので、ちょっと精神的にまいってしまうような環境が原因なのかもしれない。もうちょっと気楽に楽しいニュースを流していてもいいような気がするのだけれど。

take it easy!

で気楽にやって欲しいものなのですが。

ところで、私の財政状況は悲惨なもので、なんと今月の17日まで1万円弱で生活しないといけない。

一応、定期券だとか、生活の初期に必要なものは揃ったので、実質、食費が1万円ということなのだけれど、けっこう惨めなものがある。

それで、昨日と今日の夕食は鰤大根と御飯、それに野菜サラダというもの。

鰤は「あら」が賞味期限前日ということで、半額の150円、大根はおつとめ品(つまり痛んでるやつ)の80円の物で作ったのだけれど、煮物なので、鮮度はそれほど問題にはならない。大根の煮物は得意料理の一つなのだけれど、まぁ、なんとかうまく作れました。ブランクがあったので、ちょっと不安だったのだけれど。

サラダも賞味期限ギリギリでタイムサービスになっていた水菜や、特売品のカイワレ大根で作ったもの。1食夕食でも300円を目処にしているので、なかなかに厳しい。

まぁ、来月中旬には極貧生活を脱出することができる予定なので、それはそれでいいのだけれど。

ちなみに、昨日は久しぶりに運動ということで、バトミントンをしたのだけれど、若い子たちとシングルゲームをやっていたので、今日は筋肉痛です。

身体のあちこちが痛む( ̄▽ ̄;)

でも、若い子たちに刺激されて、ちょっとでも自分の中で若さを取り戻したいものだと思った雨の土曜日だったのです。今年は二足の草蛙で大変そうなのだ。

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今の私の中でのアイドルはこの女の子です。隣りにいるヨークシャテリアはかわいいのだけれど、バカで腕白で少々困ったやつなのです。

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2009年3月 2日 (月)

正直

日本に帰りたくないな( ̄▽ ̄;)













こっちで仕事見つけるか。

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2009年2月22日 (日)

いろいろと

えと、あっちに行ったり、こっちに行ったりでバッタバタした生活をしています。

でも、基本的に徒労で、全然いいこともなければ、まぁたいろんなものを失ったりetc

まぁ、人生失うことだけじゃないし、得るものと失うものを行き交いさせて、最終的にちょっとだけ得るものが多ければいっかって哲学で生きているので、そんなもんだと思います。

ところで、こういう大変なプロセスを経て、とりあえず競争を勝ち残った友人にタイすき焼きなるものを作ってもらいました(もちろん、タイ人)。

全然、すき焼きって感じではなくて、「鍋」って感じなのだけれど、なかなかおいしくてよかったです。

ごちそうさまでした。

ヨークでタイ人に会う機会はけっこあるのだけれど、みんな素朴でいい奴が多いし、政府支給の奨学金を得ている人が多いということもあって、クレバーな人たちが多いので、とても好印象です。

近いうちにタイにも行ってみたいなぁと思います。政局が早く安定してくれるといいのだけれど。

ちなみに昨日は朝の4時に起きて、いろいろと仕事を片付けつつ、バトミントンもやっていたので心身共に疲れてしまいました。ちょっと2、3日、だーれも知り合いのいないところでのんびりと過ごしてみたいものですが。

えと、年のせいか、肩が上がらない( ̄▽ ̄;)

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2009年2月 3日 (火)

Helloに対応する日本語とヨークの雪景色

こっちで女の子たちと話をしていると(不思議と男からは聞かれない)「日本語でHelloってどう言うの?」と聞かれることがよくある。

・・・

えーっと、正直に申しまして、分かりません( ̄▽ ̄;)

一応、言語学者の卵なんすけど。

って、日本語リテラシーのある皆様は分かりますか?私には分からない。

記憶を頼りに日本人の女の子たちに声をかけられる時のシチュエーションを思い出してみるのだけれど、やっぱりよく分からない。

一番、思いつくのは、「あーっ、○○(私の呼ばれ名が入る)」というパターンである。(一応、声のトーンは上がっている)

私の世代の前後だと、両掌を前に出して、左右に細かく振るという動作が入る。

この呼びかけは多い。

しかし。

かといって、Helloに代用されるものとして「あーっ」っていうのは、なんだかなぁという気がする。

微妙によろしくない音感にもなりそうだし。

コホン(--;)

他にもいきなり、呼び名なり名前なりを呼ぶパターンもあるかと思うのだけれど、無難に「こんにちわー」って言い方を教えることは多いです。実際、昼夜を問わず使っている人たちも多いですし。

これでいいですよね?

関西の男同士だと、「おぉ」とか「どうも」って言い方をすることが多いです。でも、この場では、あくまで女の子用の言い回しですしね。できたら使い勝手がよくて、かわいい言い方を教えてあげたいですよね。

ちなみに日本人の女の子たちに聞いてみたのだけれど、「分からない」って意見が多くて、一人、いつも「ヤッホー」と言っているという人がいて、ちょっと関心しました。

これはなかなか気が利いていますよね。なんか嫌みがないのにかわいく聞こえる。まぁ、この子は基本的に要領もよくて、エンジェルキャラなのでかわいがられる方法を先天的に知っているのではないかと関心することがよくある。

というわけで、今後は、「ヤッホー」という言い方を教えることにしようかと思っています。

「ヤッホー」

いいですよね。なんか外人の女の子にそうやって声をかけてもらえると、なんだかほのぼのとしてしまうし、思わず「かわえぇ」という気になってしまう。

実は今まで、数人に何て言っていいのかよく分からなかったので、

「まいど、おおきに!」

という言い方を教えてしまったことがあります( ̄▽ ̄;)

だって、かわいいからいいじゃないか。

えと、教えてしまった人にはごめんなさい。でも、笑いが取れる上にかわいいと思ってもらえる、なかなかおいしい表現だと思うのよ、おじさんは。

というわけで、もし仮に、今後、イギリスはヨークにいた経験のある人に「まいど、おおきに!」と話しかけられたという人がいらっしゃれば、温かい目で見守っていただいて、それで「かわいく聞こえるよ」と褒めていただければ、と思います。

それで、決して私の事は口外されませぬようよろしくお願い申し上げる所存でござりまする。

みゃう。

えと、ところで、昨晩からヨークは雪で、今週はヨーロッパ全土で雪だそうです。気温も低い。

こういう時は湯船につかって、暖かい鍋をつつきたいものです。

無理なので、チャウダーと野菜の煮込みで代用してますけど。

明日はホットワインを作ってもいいかもしれない。

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これは朝起きた時の庭の写真。天気はよさそうなんだけど。


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大学まで歩いているうちに吹雪いてきちゃいました。これは途中にある牧場の風景。お馬さんたちも寒そうです。

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牧場のお向かいさんの教会です。随分と吹雪いている。

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さらに道路を挟んだ向かいにある小学校。雪が写真に写っている。

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小学校の前というか、大学のすぐ前の教会です。墓地も見える。

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大学のHeslington Hallという建物。時々、授業で使います。

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Heslington Villageを見渡す。パン屋さん、郵便局、パブ、銀行等がちょっとだけあります。

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大学キャンパスの中。左に見える建物は心理学科。

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キャンパス中央の池と建物。大学の宣伝パンフレットではこういう見た目のよろしくない建物は写さないですけど、基本、こういう中途半端にぼろっちい建物が多いです。右手に見える建設中の建物は、2009年1月にできるはずだったLanguage centre。今はもう2月。イギリス人が期限通りに仕事をすることを期待するのは無理ってもんです。Unfortunately, because of unavoidable delay ...英語の意味なんて信用しない方が心理的によろしい。

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キャンパスに着いたら晴れてきました。向こうに見える建物はPhysicsとElectronicsの建物。中身は一部だけきれいです。

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一応、ランドマークも写しておいてやらないといけない。このhallは試験以外ではあまり使いません。中もそんなにきれいじゃないし。

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2009年1月29日 (木)

特別な思い入れがあったわけでもないのだけれど

小学校の中学年くらいの頃なのだけれど、NHKのアニメ三銃士というのが好きで何度か見た記憶があります。

なぜか、唐突に思い出した。

酒井法子さんの歌が人気があって(高校野球の選抜大会の行進曲になった)、それで大御所の声優さんたちもけっこう出演されていたんですね。

ただ、チャンネル争いというか、テレビは一家に一台の時代に生まれ育ったもので、毎週見れていたわけでもないし、後半は全く見せてもらえなくてがっかりしていたのだけれど。

それで、話の内容が知りたくて、「原作 ダルタニャン物語」というのを頼りに、図書館で長い長い小説を手に取って全て読みきりました。

正直、話の内容が分からないことも多くて、難しい単語や概念も多かったので、いろいろと親に尋ねたのだけれど、全然教えてもらえませんでした。(一部は分かっていて教えなかったこともあると思うのだけれど、大部分は普通に知らないだけだったのだと思います)

それで、家の押し入れにあった辞書を取り出して、自分で丹念に文字や熟語を調べて読んだのを覚えてします。ただ、漢字字典の引き方が分からなかったので、読み方の分からない漢字を調べるのに随分と苦労しました。

今となっては、分からなかった漢字なんかをどうしていたのかさっぱり分からないのだけれど。

しかし、難解で、全てを理解していないわりに、プロットのようなものは雰囲気で理解できていたようですね。日本語でストーリーを解説しているサイトはちょっと調べただけでは出てこなかったのですが、英語だといろいろと出てきました。

なんだか懐かしい気がする。

ただ、原作の話はアニメとは随分と(てか、全然違う話だった)違っていて、例えば、主人公のダルタニャンとヒロインのコンスタンスは不倫関係にあるとかいう設定になっています。(そりゃ、小学生のガキんちょに不倫なんて概念は教えられませんわな)

あと、人気のあったアラミスはもちろん、男性ということになっています。しかも、女たらし。こういうキャラを一見、美男子風の剣の達人でワケありの背景持ちにするという発想はなかなかおもしろかったのではないかと思います。

話全体がuploadされていることもなさそうだし、レンタル許可が出ているわけでもないのだけれど、5年前にNHKで再放送、さらにはDVD boxが発売されているみたいですね。

録画する機会があれば、いつかしてみたいなぁとも思うし、なんならDVDを買ってもいいかな。

でも、DVDはなんか2万5000円もするみたいなので、ちょっと勇気の要る買い物になりそうですね。こういうのって、子供と一緒に見れたらいいなと思う。

あ、今のところ、子供ができる予定も、結婚する予定もありませんが。

すみません。

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2009年1月28日 (水)

興味ないね

facebookなど、emailやらSNSやらを通じた誘いならほっておいて全然後ぐされないのだけれど、直接会って何かを頼まれるとなかなか断りにくい。

今日はちょっと、そんな話がきっかけ。

ヨーロッパの友人二人に別々に要請されたのだけれど、今日からハンガー・ストライキなるものを3日に渡って行う人たちがいるそうです。

ふーん。

日本だけじゃなくて、イギリスでもエコ活動はけっこう活発で(エコバッグを流行らせたし)、まぁ、今時は「エコロジー」なるものが商売になる時代でもあります。

しかしながら、ストライキを決行する人たちによれば、政府はもっとリーダーシップを発揮してエコ活動を進めるべきだ、ということなのだそうな。

その抗議活動のために率先して、3日程、断食を行うんだってさ。水だけは飲むそうだけど。

環境保護を考えることは当然必要なのだろうけれど、どうもやり過ぎってのはついていけないね。

それに断食する事の意義と目的が、全く分からない。

実に非論理的だ。

何がしたいんだか?

この手の行き過ぎた環境保護活動を見て、いつも変だと思うのだけれど。

だいたい地球温暖化の原因も全く分かってないってのにね。

温室効果etcの話も全然実証されていない仮説に過ぎないし、だいたい、氷河期と温暖期のサイクルに過ぎないんじゃないかって説の方が説得力があるし、支持を集めているし。

そりゃ、私も受験英語を教えていた時期は、「受験に出るし」と割り切って、いろいろと指導していましたけど、それはそれ。別に自分の信念があるからといって、受験の傾向を勝手にねじ曲げるわけにはいかない。受験生が目標を、最大限効率的に発揮させることのできる情報を提供するのが予備校の仕事。

それが仕事ってもんです。

閑話休題。

だいたい、「おこがましいな」と思ってしまうのだけれど、我々人間も単なる生物の一種に過ぎないわけだし、我々も地球のサイクルの中に直に組み込まれているわけですよね。

客観的な視点に立てば、人間がどんな活動を行おうが、それはそれで自然の範囲内。人間のやる生命活動なんて、地球全体のサイクルから考えれば微々たるもんだろうに。

かつて隆盛を誇っていた恐竜が絶滅したのと同じく、人類もそのうち(遠い未来のことであってほしいが)絶滅しちゃうんだろうし、生命活動というのはそういうサイクルを延々と繰り返すものに違いないはずなのに。

「環境保護」と人類が言う時、それは全て「人類の生存の為」という意味で使っているわけですよね。快適な気温を保ち、病気を防ぎ、食料を供給し、きれいな水を確保しetc

そういった人類の営み、生命活動を「地球の為にetc」と呼ぶ事には偽善的な雰囲気が漂っている気がして、あまり気分がよろしくない。

別に「人類に住みよい環境を。子孫に未来を」って言ってしまってかまわないのに。と、私なんかは思う。

人類が環境を保つetcとかいう話にしても、地球全土で大規模な地殻変動と地震が起こって、活火山がたくさん活動してetcなんてことになれば、それこそ核兵器を何個か落とす以上の破壊力があるのだろうし、それこそ地球という観点から見てみれば、その程度の変動が起こっても、

「で?」

って感じでしかないんじゃないかって、私なんかは思う。

ひねたものの見方をしてすまない。

もし仮に、人類が他の生物種の生存を脅かし(それはまた自然の摂理でもあるわけだが)、植物を枯らし、水を無駄に使用し、環境を破壊しているのがよくない、そういうことは許せないと、彼ら環境保護活動を行っている人たちが本気で思っているのなら、たかだか3日の断食なんかせずに、さっさと裸で山なり、野原なり、湖なりに行って、腹を切って土に帰ればいいだけの話なのである。

だって、人間一人が生きているだけで、大量の食料を消費し、また数々のゴミを生み出し、多くの水資源を使用するわけであるから、若いうちにさっさと死ぬ人が一人でも増えてくれた方が、彼らの言う観点からの地球保護にとっては一番いいことなんじゃないかと私は思ってしまう。

3日断食すれば正義の味方になれるって?

別に私は正義なんて言葉に興味はないね。

私は、自分と、自分の周りの人たちが幸せになれるのならそれでいいや。

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2009年1月27日 (火)

女の子は邪悪か?: 数学 vs. 言語学

えと、facebookに書いた記事を翻訳して掲載いたします。(両方見ちゃった人はごめんねぇ)

私自身、女性の友人がまるで天使のようであるという真理に疑問を抱いたことはないのであるが、ある数学者が以下のような証明を提示しているようである。

女=悪 の証明

女は時間と金がかかる(girls require time and money)ので
Girl = Time × Money ・・・(1)

時は金なり(Time is Money)という諺によると
Time = Money ・・・(2)

(2)を(1)に代入すると
Girl = Money × Money

ここで、金は諸悪の根源(money is the root of all evil)だから
Money = √(Evil)

したがって
Girl = √(Evil) × √(Evil) = Evil

女=悪 (証明終)

オーケー。これは数学的事実の一つなのかもしれない。では、言語学徒として、私は、「女の子」が以下のような素性から形成されていると提案したい。

[+美しい], [+かわいい], {+華麗な], [+可憐な], [+みごとな], [+すばらしい], [+親切な], [+優しい], [+暖かい], [+魅力的な], [+寛大な], etc

これらの素性は派生の間に照合されるもので、適切な訓練が施されれば、概念・意図システムにおいて解釈可能なものである。おそらく、数学はこれらの素性を感知するのに都合のいいトレーニング足り得ないのであろう。実際、これらの素性は形式意味論の道具立てを用いてはっきりと記述できないものである。(しかしながら、Kamp, Kennedy, Klein, Krifka, McNally, Sauerland, Winterらによる曖昧性に関する議論を参照されたい。またVICという学会も素晴らしい試みになりえるであろう)

私は、これらの素性はあまりにも曖昧過ぎて精確に評価されえないだけなのではないかと考える。よって、数学者の多くが(おそらく)女の子がどのようなものなのかということに関して誤った認識を持ち、言語学者の多くが(私の希望なのだが)紳士なのかもしれない。

言語学に興味を持たれましたか?そうならば、ぜひ学んでみてください。

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2009年1月25日 (日)

つれづれなるままに

バラク・オバマの演説がもちろん、イギリスでも大々的に放送されていたのだけれど、宣誓式で詰まってしまったり、演説の内容を聞く限り、随分と緊張というか、大統領になるにあたっての意気込みのようなものが感じられたという気分になる。

おなじみのYes, we canもchangeもなかったし、恐らくこれからの政局が想像を絶するものであるということを、肌で、頭で感じていたからこそなのではないかと思うのだが。

しかし、アメリカは「物語」と「ヒーロー」というのが本当に好きな国家ですね。世界第一の経済国・軍事国が危機に陥り、人種のるつぼならではの有色人種のリーダーを民意の反映される民主主義によって選出し、その選ばれたヒーローが類い稀なるリーダーシップを発揮して国民と一心同体に危機を乗り越え、平和と民主主義と正義を守る。

そのストーリーに全く迷いも見えないし、何か固定化されたシナリオが垣間見えるというのは、ちょっと言い過ぎなのだろうか。

まぁ、オバマ氏に関する論評はまた行う機会が多々あるかと思います。経済不況の結果も、4月中旬の決算の時期にならないとイマイチよく分からないし。

話は変わって。

スラムダンクの「あれから10日後」が書籍化されるらしい。

スラムダンクが連載されていたのは、私が丁度中高生だった時期に当たるので(年齢がバレてしまう)、本当にスラムダンクブームを肌で感じることができた。

T-シャツにバッシュという格好が本当にファッショナブルであるとされた時代で、バスケ部、もしくはJ-リーグブーム(今となっては信じがたいが)が重なったせいで、サッカー部がとても人気があって、おしゃれな部活であるとされていた時期があったのである。(他にもH2という漫画を見てもらえればよろしい)

バッシュはマイケル・ジョーダンの全盛時に当たっていたということもあって、本当に人気があって、普段着にバスケットシューズを履くのがおしゃれであるとされ、エア・ジョーダンを路上でいきなり強奪される事件も流行ったくらいなのである。

中学校という場所は校則が随分と厳しいので、なかなかおしゃれができなかったのだけれど、コンバースのオールスターだけは、校則に違反しないということで、中3の頃に履くのがけっこう流行りました。(安かったし)

高校ではちゃんと底の厚いバッシュを履いていたのだけれど。

バッシュは単なるおしゃれという観点だけではなくて、何せスポーツシューズなので実用性という面からも優れていたんですね。歩きやすいし、走りやすい。それに、野球部の練習では、グランドでは普通にスパイク(野球のスパイクの裏には鉄の刃がたくさんついていて、路上は走れないのです)を履いていたのだけれど、ランニングの時なんかにバッシュは重宝しました。そのままランニングシューズとして使えますので。

それと、スラムダンクの登場人物の髪型や制服が、当時のブームをそのまま反映しているのもおもしろい。

流川や桜木の穿いていたようなズボンは、「バナナ」や「土管」と呼ばれるもので、まぁ、ちょっと怖いお兄さんが穿く代物なのだけれど、当時でもちょっとあの手のズボンは「古い」という印象がありました。

むしろ、三井や小暮なんかが穿いていたズボンの方が流行りだしていた時期で、あの手の型は「ストレート」と言って、スーツのズボンに近いものです。私もああいうズボンを穿いていました。

あと、髪型なんですけど、ちょうど野球界でもイチローがデビューした頃で、(更正後の)三井や仙道のパッツンパッツンの立てた髪型や、中学時代の三井、流川や藤真のような「かぶせ」と言われる髪型が流行っていた時代です。

私も当時、三井カットというか、イチローカットにしていました。中学時は坊主で、高校時代も野球部員の半数以上は自主的に大会前には坊主にしていたんですけど、何か坊主にすることが「いい」ことで「気合いが入っている」とされることが当時、そして今も全然理解できなかったのでしなかったです。当時から協調性はないタイプの人間であったらしい。

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2009年1月17日 (土)

疲れた

自分もそうなのだけれど、多くの男の人(あくまで経験則だけれど)は、疲れると喋りたくなくなります。

あー、しんど。

別に口が重たくなったり、ため息をついたからといって、特別何か悩みがあるとか、深刻な問題ががあるとか、人に話を聞いてもらいたいとかそういうことがあるわけではなくて、ただ単に疲れているだけということが大いにあるわけです。それに女性とは真逆で、疲れたら喋りたくなくなるんです。

だから、こういう時って、ほうっておいてほしいんです。(一晩寝たら回復しますから)

そんな時に、「あ、なんか大変そう。どうしたの?」とか、「何か心配事があるのなら話して」だとか、「何か、あったの?大丈夫?」だとか、かまってもらうのは、まぁ、心配していただいているというお気持ちはありがたいんですけど、正直、ありがたくないことが多い。無理に笑顔作って、愛想良くするのもけっこう体力使うんです。

「あっそ」、と思って、放置しておいていただきたい。

こういう時は、フラットメイトも男性だと、お互いにほうっておくという暗黙の了解が成り立つのでけっこう楽です。

お互いに「疲れている」という了解事項があれば、同じ部屋で口も利かなくても別に仲違いしているとかそういうわけではなくて、単に疲れてるんだなという理解があるので、特に何も問題はないわけです。

下手にフラットメイトが女性だと、なぜ疲れているのかとか、最近どんなことをしているのかといったことを逐一説明しないといけないし、電話なんてかかってきた日には、電話越しであれこれと話をしないといけないので、けっこう大変なのです。(しかも、英語だし)

端から見ると無神経男に見えるかもしれませんが、一応、気を遣える部分では、気を遣っているつもりなんです。

はぁあ( ̄~ ̄;)

とりあえず、今晩はもうこれ以上、喋りたくねぇ。

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2009年1月15日 (木)

留学に求めるもの

留学するに当って、一番求めるものは何か?

それは人との出会いなのではないかと思う。パートナー探しとはちゃうよ。

博士論文にはacknowledgementというのがつきものなのだけれど、特にMITから出る論文では「どんな人と会って、それがどうこうでetc」という記述が当然のようにある。

これは非常に羨ましい。

私もMITに友人がおり、なかなか(てか、だいぶ)頭の切れる男なのだけれど、その彼をして、「いや、こいつにはかなわないっていうのがいますよ」って人がいるそうなんだから、そういう環境は本当に羨ましい。

しかも、MIT辺りになると国籍もてんでバラバラなので、いろんな言語を喋ったり、変わったバックグラウンドを持っている人がたくさんいるのも羨ましい。あと、この大学は、一面がホワイトボードで「好き勝手に落書きしながら議論してよね」とかいう部屋もあるらしい。

まぁ、こういうのも「隣りの芝は」ってやつで、自分のいるヨークででもいい出会いはありました。

正直、H大では理論的バックグラウンドと興味が一緒で、同年代という人がいなかったので、けっこう寂しい思いをしていたのです。

「やべぇ、こいつは賢い。おもしろいし」

と思える友人は、いたのはいたのだけれど、全然、身近な存在ではなかったです。

一人は私より一足先にさっさと留学して最短ルートでPhDを取って、今は普通にpermanentの仕事をしているのだけれど、彼とのやり取りは専らメールで、去年久しぶりに会ったのだけれど、直に会話をしたのは本当に久しぶりのことでした。

もう一人は、K戸松蔭の同級生で、女性でした。

この人は、このサイトでも2回程話題に出した人なのだけれど、本当に頭が良かったです。

頭だけじゃなくて、見た目もかわいかったし、性格も良かったし、ノリがよくて話もおもしろいし、雰囲気がとてもよくて、個人的にちょっと尊敬していました。

もし、彼女がフリーの状態で会っていたのであれば、拝み倒してでも口説いていたかもしれない。と本気で思える程、魅力的な人でした。こんな人がいるのなら、「遠いから」とか言わないで、K大を受験しておけばよかったと思うくらい(その子は学部はK大を出た)。

残念ながらもう結婚して、この業界からは退いてしまったのだけれど、尊敬できる友人としてまた会う機会があればいいなって思います。

それで、ヨークに来て、オフィスメイトになったのがグリン・ヒックスというお兄ちゃん。(こちらが大学のページ(顔が見られる)で、こちらが個人サイト

私が来た時には、もう博士論文も大詰めで、しかも家が火事になったり、半分以上実家に戻っているような生活をしていたので、そんなにしょっちゅうは会えなかったのだけれど、それでもオフィスやパブでいろいろな話ができて楽しかったです。先生と違って肩肘張らずに、それでいて突っ込んだ議論のできる人ってなかなかいないので、時には2時間も3時間も喋ることがあったのだけれど。

去年の夏もヨークで開催した学会に来てくれたので、久々にパブに行ったりして、なかなか楽しいひとときを過ごせました。

今日はそのグリンと、久しぶりにmailのやり取りをしていました。

私はemailの返信がけっこう早いので、お互い3往復ほど、チャットのようなスピードでやりとりをしていたのだけれど、ちょっと嬉しい報告を受けました。

我々の業界では、一応、博士論文を書き上げるのが学生としての集大成ですが、別に博士論文を書くことそのものは目的ではありません。

質の高いオリジナリティーのある論文を書き、理論に貢献するのが目的。

そのための目安として、博士論文がそのまま本として出版されるか、内容の一部、もしくは全体が一流の査読雑誌に掲載されるかが成功したかどうかの目に見える基準。

そもそも出版されなければ、人様の目には入らないわけだし、それに匿名の審査を通ることによって、一定の質の高さが保証された目安にもなる。

そのグリンの博士論文ですが、なんとですね。

来月、出版される運びとなったそうです。

ひゃー v( ̄∇ ̄)v

これはめでたい。

一応、レビューの最中でetcという途中経過はいろいろと聞いていたのだけれど、実際、受かったとなるとやっぱり嬉しいですね。

友人の論文の質の高さが認められたという事にもなるし、うちのDepartmentからそれだけのクォリティーのある論文が出たということにもなるし(大学院の教育評価は一にも二にも、質の高い博士論文が出ているか否かです)、それにやっぱりいい刺激になる。

こりゃ、私も気合い入れていかないといけないですね。

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2009年1月 9日 (金)

マック使いの叫び

「マック」:Macintoshの略。アメリカ、アップル社が作成するコンピュータのこと。ただし、一部地域では、マクドナルドの愛称でも使われているらしい。

今更ではあるが、私はマック使いである。

世間ではマックユーザーの方が圧倒的に少ない(ある統計によれば、世界のコンピュータユーザーの7%のシェアしかないらしい)ということもあって、けっこう肩身の狭い思いをしている。

しかし、そういうところはマイノリティーの結束というか、たまにマック使いの人たちに会うとちょっと嬉しくなってしまう。

そして、妙な親近感というか、友情が芽生えてしまうのである。(イギリスだと、「あー、あなたもマック使ってるの〜?」って感じで、ハグし合うことすらある。いや、本当に)

世間ではかように隔離されているマッキントッシュではあるが、一応、この業界、というか言語学の中でも形式意味論、そして統語論の中でもHPSGやLFGと呼ばれる語彙論の人たちの中では、マック使いで論文はLaTeXを使用するという人の方が圧倒的に多い。(一応、ミニマリズムの人たちの中でもマック使いはそこそこ多い)

この理由はけっこう単純明快で、ある程度パソコンをいじくれるようになると、ウィンドウズのおせっかい具合に嫌気がさすようになってきて、自分でコマンドをある程度自由にさわれるマックの方が使い勝手がよくていいのである。

それに映像や音の編集も自由度が高いし、Safariの方がきれいだし、何よりハッカーにすら相手にされていないのでウィルス対策をほとんど考えなくていいというのもけっこう利点が高い。

そんなこんなで、マック使いは、なぜか妙にウィンドウズマシンを嫌う傾向にある。

だいたい、ウィンドウズの立ち上がりが遅いのもうっとおしいですよね。マック好き。それにハード面もかっこいいし。

あと、論文を書くのもLaTeXが圧倒的に利便性があっていい。

だいたい、元がtext fileなのでパソコン相手を選ばなくていいし、手っ取り早くpdfに変換できちゃうし、それにプレゼンテーション用にもbeamerというのを使えば、レイアウトとページ設定だけに気を使えばさっさと論文から変換できてしまうのもいい。

それと論文を書くと、参考文献を書くのがけっこうめんどっちいというか、時間と労力がかかるのだけれど、LaTeXだとbibファイルに参考文献を登録しておけば、後は論文を書く時に呼び出すだけなのでめーっちゃくちゃ楽です。

それに主要な雑誌の参考文献のスタイルのbstファイルも転がっているし、ある程度慣れてくるとbstそのものも簡単にいじくれちゃうし。(全部、textからコマンドしているのでそれをいじればいいだけ)

なんといっても、元が単なるtext fileだから容量も少ないのがいい。

それに主要な数学記号、世界言語の文字、音声記号、フォントもほぼ完全にカバーしているし、統語論をやっている人なら必ずぶちあたる樹形図(所謂「tree」)もスタイルファイル一つで簡単に大きさも含めて書けてしまうのがいい。

あと、言わずと知れた、LaTeXには「美しさ」という武器があるのがいい。

これがマイクロソフトのwordとかいうおバカちゃんだと、フォントの設定がめんどくさいし、数学記号の呼び出しがややこしいし、必要なものがないことも多いし、おせっかいな番号設定やら位置設定やらが出現したり、途中で得体の知れないコマンドが行われていたりetc

だいたいwordソフトの年代によって、読み取りが不可能なこともあるし、日本のwordソフトが時々、ヨーロッパのパソコンで文字化けしたり(pdfに変換した物が読み取れない事も多い)することもあるし、不便極まりない。

パソコンはユニバーサリティーが必要な道具なのに、それが保証されてないってかなりの欠陥だと思うんですけどね。バージョンアップに合わせて次から次へと買い替えしなきゃいけないものを買わされていることを、ウィンドウズユーザーの人たちは何とも思わないのだろうか。

そんなこんなで、マック使いはえてしてwordも嫌いなんですけど、なぜか、日本の学会だの、書類作成だのといった場面では、word(たまにexcel)指定っていうのが多いですよね。

嫌んなっちゃう。

こういうのって、マイノリティーの物悲しさで、マック使いはだいたいウィンドウズマシンがいじくれます。(逆はないんだけど)

ちょうど、アメリカ人やイギリス人など強国の人たちが英語を使えるけれど、シンガポールやフィリピン、オランダなどの弱小国の人たちが英語も使えるとかいう状況と同じです。

強い立場の人たちは、「あんたたちが使えるんだから、合わせればいいじゃないの」という傲慢な態度を取るわけだけれど、こういう不遜な姿勢ってけっこう不快です。

ちくしょう。

そういうわけで、LaTeXなら基本資料が完璧に出来ているので、ものの10分もあれば済む作業を1時間も2時間も使わされるのはけっこう徒労。

それと、私は言語学という業界なので、機械音痴の数学音痴が多いのが悩みのタネ。

他の人文系の業界と比べるとかなりマシだとは思いますけど、それでも機械音痴の人たちが指定するwordファイル(もしくはexcelファイル)は設定が下手だし、融通が利かないようになっているし、そもそも元の設定がいい加減過ぎることも多いのでけっこう腹が立ちます。

このご時世、コンピュータがいじくれない人間はさっさと引退してくれと思うのだけれど。

所謂、理系の業界の人たちだとこういうのってほとんどないらしいですね。履歴書から細かい資料から全てLaTeXでオーケー。だいたい、理系の雑誌の大半はLaTeXの投稿が基本ですもんね。

文系なんて、word指定ならまだしも、「フロッピーディスク(生産終わってるがな)」での提出が義務だの、「ストローク」という言葉が出てくるだの、「ワープロ」(「ソフト」ではない)でetcとか言われるだの、悲惨なもんです。

まぁ、言語学と心理学は日本の人文系の括りだとまだマシな方で、文学だの、歴史学だの、哲学だの地理学だのといった業界だと阿鼻叫喚の地獄絵図です。

テクノロジーという言葉を激しく拒絶しているし、未だに卒論は手書きでとかいう指定があることもあるくらいなんだから凄いです。時代の流れについていけない年寄りはさっさと引退しろと心から願うのですが。

正直、日本の人文系は、特にその「人文度(?)」が高まる程、コンピュータできない、数学できない、英語できないの三拍子が揃う傾向にあります。ひゃん。

せめて書類の類いはpdfで一括してもらいたいものである。(それが一番融通が利くんだし)

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2009年1月 8日 (木)

私の頭を悩ますもの

えと、仕事していたらいつの間にか時間が朝から夜になっていました。

すっかり気分は日常生活。

今日はお昼ご飯を食べながら(とは言っても、出前一丁、リンゴ、バナナ、ヨーグルトという貧しいもの)BBCを見ていたのだけれど(っていうか、これ以外、特に見るものがない)、やっぱり報道の大半はガザ地区のお話。

やれやれ。

あれこれと評論したい気分にはなるものの、やっぱりこの問題は「分からない」という一言に尽きるし、気分が滅入るのでやめておきます。どうやら21世紀になっても人間は、ドンパチやって殺し合いをやっている生物であるらしい。

ところで、今日は家の前のSainsburyで牛ひき肉が賞味期限前ということで値引きされていて、500gで1.5ポンド(200円弱)で売ってあったので購入を決める。

頭の中では煮込みハンバーグにでもしようという考え一色だったのだけれど、トマトソースにするか和食ソースにするかという問題もあるし、ボロネーゼにするという線も捨てきれない。

うーん。

こういう時に、独り身って不便だなぁと思いますね。既婚者であれば、すぐに携帯電話のmailで(こっちだとtext fileだけれど)意見を伺うところなのですが。

というわけで、今日はキャンパスまでの行き帰りで明後日(明日までに処理しなきゃいけないものがある)の晩ご飯のおかずを何にするかという問題に頭を悩ませる。いや、とりあえず、お肉なので赤ワインを開けるということだけははっきりしているのですが。

でも、待てよ。和風煮込みハンバーグに赤ワインを入れるわけにはいかないので、その時には白か?

それと、500gはどう考えても二人分だよな?

うーむ。難しい。

明後日のおかずは何にしようかしら?って、なんだか主婦(夫)の悩みですよね。

もっとたくさん、悩みのタネはあったと思うのだけれど。

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2009年1月 7日 (水)

男の色気

「童顔」と言われ続けて久しい。

ヨーロッパの人たちから見ると、20歳前後にしか見えないらしいということはよく分かっていたものの、実際に若い日本人の目から見ても「若い」らしい。

何せ、ヨークにきて「もう3年だね」とかいう話をしていると、学部の3年生と思われたくらいなのである。

何度も話題にしているが、別に私は男なので若く見られるということがステータスということとではない。

とっつぁん坊やになっても困るし。

むしろ、ぼちぼち大人の色気のようなものが出てきてもいいのではないかと思う。

「おっさん」と「おじさん」の境界線は、なかなか難しい問題でもあるのだが。

色気のある大人になれればいいなと思っている今日この頃であるが、男のどういう仕草が色っぽいのであろうか。

私は考えた。

所詮、男の思考回路ではあるが。

たぶん、一つには、色気のあるお酒の飲み方と御飯の食べ方があるのではないかと思う。

お酒を飲む姿が様になっていれば、それこそ、「大人の男」という言葉がふさわしいのではなかろうか。

007でも、必ずジェイムズ・ボンドのウォッカマティーニの飲み方が注目されるわけだし。

居酒屋の酔っぱらいではなく、恐らく女性から見て、「この人と同席したい」と思わせる飲みっぷりがあれば、ひとまず合格と言えるのではあるまいか。

そんな私の脳裏に浮かんだのは、真田広之氏の日本酒の飲み方である。


参考画像

この姿は非常に様になっているし、それに日本酒をかっこよく飲んでいるというのがいい。居酒屋の酔っぱらい親父の雰囲気は全くないし、それに男から見ても一緒に酒を飲みたいという気分にさせてくれるのがいい。やっぱり、かっこいいお酒の飲み方ができる男と酒を酌み交わすのはなかなか楽しい経験なのではないかと思う。

酒に酔って、下ネタを話して絡むとか、セクハラ親父になるとか、踊りだすとか、叫ぶとか、言語道断ですよね。色気の欠片もない。

それと、個人的に、きれいな食べ方のできる人には男女問わず色気を感じます。おいしそうに、それでいてきれいな食べ方のできる人は思わず見とれてしまう。

そんなこんなで、真田広之ってなかなか魅力的な俳優ですね。個人的には昔からとても好きです。背が低いとかいうところにもシンパシーを感じるし。

童顔であっても、色気が出せればいいなぁとちょっと妄想してみた火曜日の夜なのでした。

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2009年1月 6日 (火)

お酒を飲む

えと、遅ればせながら、明けましておめでとうございます。

って言っても何ぶん、イギリスにいるもので、イマイチ正月という気分にはなれません。

さすがにNew Year's Eveは夜遅くまで人が騒いでいて、私も2時前に帰宅したのだけれど、ご近所さんも灯りが点いていたり、人が訪問していたりetcでけっこうにぎやかな夜でした。

正月とはいっても、特に食事を豪勢にするとか、おせちを食べてみるとかそういうことはできないので、普通にイタリアンを作って食べていました。例えば、とある三が日の夕食はペンネ・アラビアータにスモークサーモンのサラダとか。

ドレッシングは最近、めんどくさいので自分で作っています。玉葱を少量擦り降ろして、それにホワイトワインビネガーとエクストラバージンオリーブオイル、レモン汁に塩と胡椒を入れれば十分においしいドレッシングができる。さらにめんどくさかったら、玉葱はなくてもなんとかなります。はい。

でも、正月なのに餅すら食べないというのもちょっともったいないというか、寂しい気になったので、ちょっとヨークに残っている(っていうか、だいたいヨーロッパの人たちはこの時期は実家にいますけど)日本人さんたちとちょっとした和食パーティーを開いてみたのだけれど。

餅が手に入るので、ちょっと雑煮を作ってみました。関西人の雑煮というと、恐らく白味噌を連想する人は多いのだろうけれど、私はすましの方が餅とは相性がいいんじゃないかなと思います。

ただ、普通のすまし汁だと、餅と合わせるとちょっと物足りないというか、味の強さがないんじゃないかって感じがするので、私は鶏の出汁を加えるのがいいんじゃないかと個人的に思っています。

だから、ローストチキンを作って、足の部分だけを取り去って、それを昆布だしで煮詰めた物を餅とあえるようにしてみました。

野菜は大根と白菜だけだったのだけれど、まぁ、それほど悪くはないのではないかと思います。正直に言うと、後は、茹でた人参とほうれん草、それに刻んだ柚を入れたかったのだけれど、そこまで拘りすぎると変人だと思われかねないので自制しておきました。まぁ、そこまで凝った料理は日本に帰ってから自分で勝手に作ります。

そんなこんなで、正月チックな料理を食べたのはこの日だけなので、正月太りなんかを気にする必要はなさそうです。

例えば、昨日の夕食は、大根と白菜を昆布だしで煮込んだ物(何て呼べばいいのか分からない)に、人参のマリネサラダ、そして昆布だしの余りに御飯を入れて煮込んだ物に溶き卵を混ぜた即席の雑炊だったりしたのです。

あまり「男」が食べる料理って感じはしませんよね。豪快さが足りないし、なんだかダイエットメニューのような雰囲気すらある。でも、こういう菜食中心の方がけっこう落ち着くのでいいのです。

それで、今晩のメニューはグラタンシノワ(フランス風ジャガイモのグラタン)、人参のマリネサラダ(何せたくさん作り置きしてある)、オクラのソテー、スモークチーズといった案配。

自分の基準に照らし合わせると、「手を抜いているなぁ(調理時間は15分くらい)」とか、「貧しいなぁ」という感想が拭えないのだけれど、最近、老若男女を問わず、めちゃくちゃ適当な食生活をしている人たちの話を聞いていたので、実はけっこう贅沢をしているんじゃないかと思い始めた次第。

いや、でも、やっぱり独身男性がカップラーメン生活をしているというのはあまりに悲し過ぎる気がするのだけれど。(うまく通い妻してくれる人が見つかるといいですね。って、女に幻想を抱き過ぎですよね)

「ラーメン大好き、小池さんfrom 忍者ハットリ君とオバQ」というのも、ちょっと物悲しいというか哀愁が漂う雰囲気もなきにしもあらずだし。

まぁ、とにかく貧しいながらもそれなりにうまいものを食べているんじゃないかと思うのだけれど、飲み物はけっこう贅沢をしているかもしれません。

私は別にアル中だとか、飲み助だとかいうわけではないと思うのだけれど、だいたい、赤ワインと(スコッチ)ウィスキーか、バーボンか、ブランデーのどれかは常備してあるし、それにアマレットやシェリーといった甘いリキュールも常備してある事が多いのです。

年末年始ということもあって、いいお酒が最近はけっこう安く売ってあるのが嬉しいのです。ヨーロッパにいると、やっぱりおいしいワインが安い値段で手に入るのが利点なんじゃないかって思うし、それにおいしい食事とおいしいお酒は人類の普遍的な楽しいパスタイムの一つなのではないかと思うのです。

それでなければ、どの共同体でもお酒が存在するという文化人類学的謎が解けなくなってしまう。

実は一昨日にはボルドーの白ワイン、それと今日はダウのポルトワインの凄くいいのが手に入ってちょっとした浮かれ気分というか、小確幸を手に入れたのです。

前者は口当たりのいいすっきりとした、それでいて甘みのあるワインで、後者はデザートワインなんかに使われる甘くてほんわかとしたワイン。

ポルトワインというと、去年、ポルトで飲んだワインがおいしかったのを覚えているので、ちょっとポルトガルのことを思い出して懐かしい気分になれます。(今、現在、飲んでいる)

ポルトワインはブランデーを加えて作るので、アルコール濃度が高く、それでいて保存が利く(つまり、開封してもすぐに飲まなければ味が落ちるとかそういうことはあまりないらしい)ので、独り身だとけっこう便利でよいのです。

お酒の種類がたくさんあると、それだけでけっこう嬉しくなってしまいますが、今の私の家は甘くて口当たりのいいお酒が揃っていたりします。

レディキラーというと、スクリュードライバー(オレンジジュースとウォッカを混ぜたカクテルのことね)が有名ですが、何の事はない。今の私の持ち駒は、(クリーム)シェリー、アマレット、(甘めの)白ワイン、ポルトワインとレディーキラーがそろい踏みって感じです。

どれも甘くて飲みやすくておいしいのに、アルコール濃度がとっても高いので、すぐに酔うこと受け合いです。お酒が強くない女性のみなさんは、これらのお酒には十分に気をつけてくださいね。もちろん、「酔わされてもいいかな」って人と飲んでいるのならこの限りではないですけれど。

逆に言えば、男性の視点から言えば、これらのお酒は酔ってもらうのに、コホンコホン(以下、自粛)。

まぁ、冷たい夜にアルコール濃度の高いお酒が近くにあるのはなんだか嬉しい気分になれます。できれば、なぁんにもやらなければいけないことがない時に、思う存分お酒を飲んで、スモークチーズや生ハムでもつまんで、静かな音楽をソファーかなんかで聴いたりすることができれば幸せなのだろうなぁと思わないでもない。

今日のヨークは空気が冷たく、そして風がなくて穏やかなものです。

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2008年12月31日 (水)

大晦日

えっと、ちょっと仕事が一段落つきました。

って、今日ってもう大晦日やん!いやん!(気持ち悪い口調でごめんねぇ)

今年も一年早かったですね。

というわけで、来年こそは心理的にも身体的にものんびりとした年末を過ごしてやるという誓いを2009年の目標として立ててやるのだった。うまくいくといいのだけれど。

大晦日なので、多少は大晦日っぽいことをしようかと思うのだけれど、部屋の掃除ぐらいしかないかな?それにしても、あんまり掃除する所はないけど。

あ、そういえば、最近、「日頃どんなものを食べているのですか?」という質問を受けたので、ある日の夕食を。


人参のカレー風味マリネサラダ

ズッキーニと大豆の新芽(インゲンっぽいやつ)のソテー

トマトとモッツァレラチーズのサラダ

ムール貝のスパゲッティ

スモークチーズ

って感じです。メインディッシュがないよなって感じだけれど、お金がないし、太るし、別にいいのだ。

その代わり、ちょっと贅沢して、酒は飲んでいるかもしれない(安いし)。

白ワイン(ピノ・グリージョのイタリアワイン)、赤ワイン(リオハ。もちろんスペインワイン)、スコッチウィスキー(Famous Grouse。日本でもよく見かけますよね)のロックにアマレット(Disaronno。普通に日本でも見つかりますよね)を混ぜたものを飲みました。

これだけ見ると、よく飲む人みたいだけれど、でも週に2回くらいしか飲まないのが普通だし(集中して仕事をしている時は全然飲まないし)、飲んでもワインをボトル半分くらいが普通なので、ちょっとこの日の酒の量は多めです。

もちろん、いろんなお酒が飲めるのは嬉しいのだけれど。

まぁ、そういうわけで、今年もいろんな人たちにお世話になりました。

皆様、よいお年をお迎えください。

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2008年12月23日 (火)

早稲田と慶応の間にある埋まらない差

当事者ではないので(慶応の当事者になる可能性はあったけど)よく知らないのだけれど、早稲田大学と慶応義塾大学ってよく比較されますよね。

別名バカ田大学と低能未熟大学。

ランキングでどっちが上かだとか、別にたいして興味もないのだけれど、第三者を代表して言わせてもらえれば、早稲田は決して慶応に勝つ事はできないと思います。

それはなぜであろうか?

これは、創設者に対する日本国民のイメージによるものなのである。

統計を取った事がないので、あくまで私の推測の域を超えないわけであるが、恐らく日本国民の99.9%は福沢諭吉が大好きなはずである。

「過去の偉人で誰が好き?」という統計はよく取られているけれど、「過去の偉人に対する好感度ランキング」なるものがあれば、福沢諭吉が1位にランクされるであろうということは想像に難くない。

少なくとも樋口一葉や野口英世よりは上であるはずだ。(ちなみに対抗馬は聖徳太子)

日本国民は、福沢諭吉の顔が増えれば増える程喜ぶ事になるであろう。

一方で。

残念ながら、恐らく日本国民の90%以上は、大隈重信に興味も関心もないであろう。

この好感度の差は決定的である。

というわけで、創設者である福沢諭吉の支持が盤石なものである以上、早稲田は決して慶応に勝てる日が来ることはないと、私は確信したのであった。

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2008年12月11日 (木)

年を取る

えと、突然ですが、12月7日は何の日だったでしょう?

って、大半の人にとってはどうでもいい日ですよね。一応、言語学会界隈では一番有名人であるAvram Noam Chomskyの誕生日だったのです。

なんと、これで80歳。ひゃー。元気だね。

911以降、テレビやら映画やらで出ずっぱりなので、たぶん、顔を見たことがあるという人はたくさんいるかと思います。

政治評論の話で有名ですけど、本業は一応、言語学です。まぁだ現役です。論文も書いてます。

さすがに最近の論文は、今まで出て来たことの繰り返しや、ちょっと議論的にマズいかな、とか、論文の最初の方とちょっと言ってることちゃいやしませんか?とか、多少の不具合もあるのは否定できないのだけれどボケたか?、それでもこの年齢で未だに精力的に活動しているというのは驚愕の事実ですよね。

正直、尊敬する。

まぁ、そもそもせっかくエリートサラリーマンになって、ガンガンお金を稼いで遊び回る機会が何度かあったのに、それをみすみす見逃して、言語学博士課程などという泥沼、ある種、懲役5年の社会的制裁にも近い境遇を自ら受け入れて、貧乏生活を耐え忍ぶような進路を決断したのは、この人の影響によるところが大だったわけです。

未だに、彼の著作のLogical Structure of Linguistic Theory, Aspects of the Theory of Syntax, Lectures on Government and Binding, Reflections on Language, Knowledge of Language, New Horizons in the Study of Language and Mindを読んだ時の興奮ははっきりとこの脳と体に刻み込まれています。

もう、本当に痺れたというか、脳の中に電気がピリピリと走ったような感覚ですね。麻薬の中毒症状と本当大差ないと思います。大脳生理学的にもほぼ同じ症状なのではあるまいか。

世界が広がるような感覚があって、シアトルの自分の部屋の中でいてもたってもいられなくなって、そのうち外に歩きに行って、「そうか、そうだったんだ」っていう気分になりました。端から見れば、十分「怪しい」奴だと思うのだけれど、でも、本当にそういう気分になって外を歩いていました。懐かしいな。

研究者である以上、自分もこうやって刺激を与えられるような存在になりたいものです。チョムスキーにも、元気でいてもらいたいものですが。

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2008年12月10日 (水)

ニュースを見る

インターネットニュースを見ているので、日本の情報はけっこう入ってきます。

ただし、基本、静止画像で見ているのだけれど。

「森高千里、芸能活動再開」

いいっすね。森高さんはファンでした。足きれいだし。

特にちょっとキツめの目が好み。

写真で見る限りは、さすがに「おばさんになっちゃった♪」って感じなのだけれど、でも、こういう年の取り方は悪くないですよね。うん、悪くない。

「鈴木保奈美、芸能活動再開」

お、またまた好きだった女優さん。

「か〜んち♪」

って、まぁだそのイメージかい!(「この世の果て」も嫌いではなかったですが)

この人は一時期の人気が凄かったですよね。

ねるとん紅鯨団とかいう、カップリング番組が当時流行っていて、男性陣の紹介の中で、「理想のタイプの芸能人」というのがあったのだけれど、圧倒的支持を集めていたのを思い出します。

「タカさーん、チェ〜ック!」って、若い人は知らないだろな。

やっぱり、あぁいう女性に振り回されたいという願望を持っている男性は多かったのでしょう。

この人の写真も皺が増えていて、「年取ったな」って感じなのだけれど、でも、年取れば皺が増えるもんなんだし、別にかまわないと思う。

なんか最近、温故知新ブームですよね。懐かしいものの復活が多いような気がする。って、それだけ私も年を取ったからなのかもしれませんが。

新しいものの話題で行けば、M-1の決勝進出者が決定したそうですが、また麒麟さんはダメだったみたいですね。去年から不調っぽいですね。今の波を乗り切れないと、今後、しんどいのではないかと思いますが。(千原兄弟が流行ったり、世界のナベアツ(ジャリズムで関西では人気があった)がブームだったりしているみたいだけれど、個人的にはハリガネロックだとか、二丁拳銃だとか、$10に頑張ってほしい)

今年の面子だと、Non-Styleが一押しですが、どうなんでしょうか?私は彼らのテンポは買っているのですが。

えと、そんなこんなで、最近、また痩せました。

特にウェストが細くて、自分がどこまでウェストが絞れるのか知りたいので、もうちょっと痩せたいなぁと思っています。

たぶん、同年代だと、女性でも私程ウェストが細い人はそうそういないと思う。

正月太りもなさそうだし、これでいっか。

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2008年12月 8日 (月)

遂行的な言語

英語が分かるとは言っても、時々、微妙なニュアンスと言いますか、適切な使用法が分からなくて苦労することはあります。

一般的に言って、英語はなんだか遂行的な言語だなって感じがします。

日本語なんかだと、「お愛想」表現みたいなのがあって、「家、引っ越しましたので近くにいらした折にはぜひお越し下さい」だとか、「じゃ、今度、お茶飲みに行こう」だとか言った場合には、「いつかそういうことができたらいいね。でも、基本的にプランを立てて実行するわけじゃないからね」って感じで使いますよね。

英語では、そういうのがないです。

「Let's have tea sometime.」とか言ったら、次は、「じゃ、いつが行ける?」と具体的な話に移ります。

発言内容と行為が密接に絡んでいる感じです。

当たり前ですが、こういうコミュニケーション形体に慣れれば、楽と言えば楽でいいです。日本語みたいに行間読まなくていいし。(京都で「ぶぶ漬けどうどす?」と言われたら、「あ、いただきます」と一度答えてみたいというヘンチクリンな願望があります。だって、おいしいんですもん。魚の骨を焼いたやつに、だし汁かけたのとかごっつぅおいしいですよ)

最近、PhDの女の子たちとちょっと飲む機会がありました。

アジア系1人、ヨーロッパ系3人と私の5人。

よく考えたら(途中まで全く意識してなかったが)、男、俺一人だけやん。

しかも、みなさんけっこうな美人さんというか、かわいい人たちで。よくもまぁ、こんな幸運なシチュエーションが。

コホン(・_・)....

そんなこんなで、才色兼備な方々といろいろとお話させていただいたのだけれど。

さすがにみなさん魅力的な人たちだなって感じがしました。

PhDなんて道を選択しているわけですから、基本、みんな好奇心が旺盛だし、やっぱり自分の守備範囲の知識は豊富だし、話をするのが楽しいです。

理解力もあるし、知識もあるので話が早い早い。

それと、やはり自立心が強いのがいいですね。人生設計で男に頼ってetcとかそういう話ではなくて、自分の独立という部分をしっかりと考えていて、それで彼氏という人はやはり「パートナー」という認識を強く持っているのも、とても評価すべき点なのではないかと思います。こういう人たちがパートナーだと、お互いに尊重する気持ちが生まれるのは必然なんだろうな、って思いますね。

辛い時には頼るけど、もしもの時は私が力になるから、といった意気込みですね。こういう自分の自立をしっかりと頭に入れているということが、女性の自立ということなのだろうな、とそう思います。

全くの個人的印象なのだけれど、アメリカの女性の間では、「女性の方が男性より優位に立たねばならない」というプレッシャーというか、圧力みたいなものが男女の間にあって、妙な窮屈さがあってイマイチ好きになれないことは多かったのだけれど、イギリスはけっこうバランスが取れていい感じなのではないかと思う。肩の力が抜けたような自然な雰囲気がある。

そういった知的好奇心が強く、向上心のある魅力的な人たちと話をしていたのだけれど、やはり女性ということもあってでしょうか、恋愛関係の話題もけっこうあったのです。

パートナーとの人生設計をどうするかという難しい話題もあれば、「やはり若い女の方が好き?」という尋問に近い質問も受けたし、「どうやって女の子口説いてるの?」とかいう質問も受けました(聞く相手を間違えてますよね)。

この辺の興味は、わりと普遍的なところなのかもしれない。

それと、私の言葉の使い方に関して、ちょこっと話題になったことがありました。

「sweetでkindでwarm-heartedな喋り方をするのはいいのだけれど、気をつけないと女の子が誤解しちゃうよ」

とかなんとか。

基本、私の喋る言葉は、所謂外国人が使うとされる丁寧な英語が基本で、何せインプットの大半がアカデミック業界なものですから、恐らくネイティブの人たちから見れば、いかにも大学の先生口調という話し方をしているのだと思います。

実際、professor-like talkingと言われることもありますし。

一方で、映画やテレビ、日常会話から仕入れた口語英語を時折交えることももちろんあります。第二言語話者があんまりくだけた口調で話すのもあまり褒められたことではないと思うし、スラングとか基本的に好きではないので、そこまで影響されているわけでもないと思うのですが。

それで、女性に対する話し方のインプット元が映画俳優であることは多い訳ですよね。

映画の中では、普通に親しい女性に話しかける、というよりも、特別な好意のある女性に話しかけるシーンの方が圧倒的に多くて、まぁ、短い2時間だか3時間の間に恋に落ちることも多い訳ですから、よくよく考えてみれば、映画のシーンの男女の会話は口説き文句である事が圧倒的に多くて然るべきということになりますわな。

ふむ。

特に英語では、折につけて女性を褒めるということが、ある種の挨拶というかマナーみたいなもんだろ、と気楽に考えていたのだけれど、何の事はない。

映画で披露される、あの種の発言はだいたい、口説く前の前提というかオードブルみたいなもんなんですよね。

それをちゃんと理解していないようです。私は。

服装と髪型、笑顔を褒める程度のことは礼儀みたいなものだとしても、「○○の作ったケーキだから、sweetでかわいく見えるよ」だとか、「いつもこういう気配りができる女性に出会えたことは幸運だ(privilege)と思う」だとか、「理論が美しくて鮮やかなのは惚れ惚れするね。あなたを見ているみたいで」だとかいった発言は、さすがにちょっと誤解を招く発言だったのかもしれない。

「遂行的」という観点からすれば、「褒める」という行為が、「口説く」という発話媒介行為として解釈されるということになるのかもしれない。(注:オースティンという人の用語で、ある発言をすることによって間接的にある行為を引き起こすことを言います。単なる発言は、発話行為、命令・約束など発話がそのままある行為につながるものを発話内行為と言います)

言った相手が喜んでくれるものだから、ついつい。

まぁ、口説くという作業がいったいどういうことなのか、未だによく理解していないせいもあるのかもしれませんが(口説き落として、相手が膝から崩れ落ちる、とかいったいどんな感じなんだろ?)。

でも、まぁ、褒められて悪い気がしないのは人間心理だと思うし、褒めて何が減るわけでもないし、褒められる機会があればできるだけ褒めるように努めておく方がいいんじゃないか、という気がしないでもない。

コミュニケーションって難しいですね。

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2008年12月 5日 (金)

冬のイギリス

雪が降り、地面が凍り、風が冷たくなる。

朝の7時を過ぎてもまだまだ暗くて、夜は4時前には陽が沈んでしまう。

テストやエッセイを控えた学生が図書館に集まり、キャンパス内の学生の歩みの速度が心持ち速くなっている。

最近、新しく来たという学生さんたちがパートナーを見つけ、手をつなぎながら歩いている。

そういう風景を眺めていると、なんとなく冬が来たんだなという感覚がする。

暗くて、空気が肌を刺すように冷たくて、人がいるようで人気がないような雰囲気が感じられると、自分がイギリスの冬の中にどっぷりと浸かっているんだということがよく分かる。

冬のイギリスは観光に来るような場所ではないと思うのだけれど、住んでいる住人に取ってはこういう暗さや重さのようなものが、時に重要な意味を持って来るのではないかと私は勝手に思っている。

だから、私はイギリスの冬は嫌いではない。

人を見かけて話をすると、クリスマス休暇に話題が飛び、恋人や婚約者、家族に会いに帰るんだという話を聞くと、ふと自分が取り残されたような感覚になる。

若い人たちが冬の旅行の計画を立てているのを見ると、活力があるなぁと関心する。

旅行にも帰省にも縁のない私は、誰も人がいなくなったキャンパスで、きっといつものようにオフィスに籠って、論文を読み、パソコンに向かってパタパタと文字を打ちつけているのだ。

こういう「一人である事」を体験できるのは、長期留学の一つの醍醐味である。

生まれついた社会の中にとけ込んでしまうと、自分という存在が「社会」という糸に絡みつけられた相対的テクスタイルであることを強要されてしまうのだけれど、そういった人の絡みを全てほどき取って一つのオブジェクトとして存在することが許されると、自分と自分の中の世界を客観的に観察する機会が与えられる。

こういう「一人」という立場は、別に「孤独」や「寂しさ」というものと直接的に関わるものではなくて、そうではなくてカテゴリーの違うものであると思う。

後者の感情は、非常に逆説的だけれど、一人では実感することが不可能なもので、何かかけがえのない、大事なものを失うことでしか体験する事のない感情である。

「一人」ということには、必ずしもそういったネガティブな含意はない。

一人になる事で、自分という人間が何を望み、何をして生きているのかということが実感できる。こういうことは今ぐらいの間にしておかなければいけないのではないかと思う。

年を取ってからだとちょっと辛過ぎるし、若過ぎてもちょっと大変な気がする。

イギリスの冬を体験していると、自分はイギリスで人生を終えるのではないのだろうなという運命的なものも感じる。

自分が息を引き取る時、最後に発する言語はやっぱり日本語でありたいし、もし看取ってくれる人がいるのであれば、やはり日本語が分かり、日本人の感覚が分かる人であればいいなと思う。

価値観の違いを体験する事は、自分のアイデンティティの確立に取って必要不可欠な事だし、特に若い間には刺激的なことなのだけれど、でもやはりそういう価値観の違いを常に引き取っているような生活を続けていくと、同じ価値観を共有することのできる人がいるということの重要性、意義のようなものがじっくりと手に取るように分かることがあるのである。

こんな夜には、強い酒が飲みたくなる。ウィスキーやブランデーはきっとこの土地に必要だから飲まれてきたのではないかと、そう思う。

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2008年12月 3日 (水)

雪化粧

雪が積もった私の住んでいる家。

私の部屋は二階の窓際です。

雪っていいですよね。なんとなくはしゃぎたくなる。スノボーとかしたいですねぇ。


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2008年12月 2日 (火)

凄く気になる

最近、ヨークはずっと冷えているので、凍った地面に足を滑らせないように気をつけないといけません。

一面、霜が降りているし。

唐突に、GLAYのWinter Againという曲が頭に浮かんで来て、ちょっとメロディを思い出しながら歩いていたのだけれど、またまた昔の事を思い出してしまいました。(歩いている時には、いろいろな考え事をしていることが多いのです)

あのですね、ちょっと20代後半以降の女性にお聞きしたいんですけど。

中学や高校の卒業の頃に集めていたサイン帳だとか、好きな人だとか憧れの人にもらった第二ボタンってどうされているんですかね?

めーっちゃ、興味があるというか、気になる。(2chとYahooをkeyword検索したのはナイショだ)

最近の、携帯が普及した以降の人たちは知らないかもしれません。

Mixiだの、GREEだの、FacebookだのとSNSが発達した今、これらは明らかに時代遅れの産物なのかもしれません。

それでも、我々の世代だと、けっこう重要な意味があったんですよね。

うーむ。

まぁ、だいぶ昔の話なのでぶっちゃけると、成人式の足音が聞こえる頃にサイン帳を頼りに電話をもらったとか(当然、実家にかかってきたのです)いうこともありますし、大学生時代にちょっと話題になったのでいろんな女の子に聞いて回ったこともあります。

一応、みなさん、ちゃんと保管されていたようです。少なくとも当時までは。

しかしですね。

大学を卒業し、就職し、結婚なんかをしちゃうと、これら過去の思い出の品がどうなっているのかやっぱり知りたいわけじゃないですか。

結婚を機にサッパリ処分しちゃうのかもしれないですし、思い出だからということで卒業アルバムと一緒に実家に残しておくとか。

でも、でもですよ。

サイン帳をお願いする時も、一応、クラスの大半の人たちに渡すわけですけど、やっぱり一番のお目当ての人ってのはいたと思うんですね。

それに、興味のない人の第二ボタンをもらいに行くようなこともないでしょうし。

そういったものを後生大事にしておいて、旦那の嫉妬を買いやしないんでしょうかねぇ。

まぁ、おいらが旦那の立場なら保管しておいてもらっていっこうにかまわないんだけど、こういう感性って人それぞれだしな。

あー、もう、すっごく気になる。

探偵ナイトスクープに葉書を出すべきか。(って、この番組、まだやってるのだろうか)

そういえば、いろいろな質問事項がありましたねぇ。

「好きな歌手」みたいなことを書く項目があって、私の高校時分にはまだ全然マイナーだったのだけれど、L'Arc-en-Cielって書いても誰も分かってくれなくて、「何て読むの?」と再三聞かれたこともあったな。

「好きなスポーツ」は、「野球」で決まりでしたけど(迷いもしなかった)。

当然と言えば当然なのかもしれないけれど、「好きなタイプの女の子」って項目もありましたね。私は確か「好きになった人」とか書いていた記憶がある(たぶん)。もちろん、中高生なんで、周りで囃し立てたりするわけですが。

でも、好きなタイプってイマイチよく分からないですよね。心が躍るというか、胸が動くタイプの人ってごくごく限られた人たちだし、そもそもの共通点なんてありゃしないし。

「好きになった人がタイプ」

それでいいのではなかろうか。

とにかくとにかく、こういうのってみんな大事に持っているんでしょうかね。でも、自分の書いたサイン帳とか残されてたら恥ずかしいですね。私の分だけでも処分していただきたいなと思う。ついでに、卒業式に一緒に撮った写真なんかも処分していただきたいなと思う。

でも、他の人たちが書いたのは読んでみたいなと思う。

あぁ、アンビバレントな感情。

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2008年12月 1日 (月)

愚痴と人の悪口について

単なる「心がけ」以上のものではないのかもしれないけれど、なるべく人の悪口と愚痴は言わないようにしているつもりです。

人の粗を探すのはあまり心楽しい体験ではないし、だいたい妙な労力がかかるだけだし、生産的になるとも思えないので、そういうのは少なくとも意識的には考えていません。

それと、人のアチーブメントを素直に讃えることのできない人間はイマイチ信用できないような気がする。

愚痴に関しても同じ。

他人の愚痴を聞かされる立場になれば、「めんどくせー」という気になるのは当然だろうし、だいたい、自分に愚痴を言う資格もないだろうとそもそも考えているので、恐らく愚痴っぽくなっていることはそれほどないのではないか、と思います。

なんて、こういうネガティブなことを言っていること自体、愚痴ですよね。

愚痴を言わないようにしていると言いつつ、愚痴を言っている。

これこそ、愚痴のパラドックス。なんちって。

えと、話を戻して、ですね。

そりゃ、私も人間ですから、愚痴ってしまいたくなることもあります。

しかし、愚痴の目的がそもそも見えないし、聞かされる立場の人に立てばやってられないと思うのです。

だいたい、私の愚痴の原因の大半は、自分の意思決定に依存しているというのが事実なので、そもそも愚痴る資格がないと思う訳ですね。

言語学の道を追求することを薦められたことは多々ありますが、別に誰にも懇願された覚えはないし、言語事実か何かを発掘して人様の命を救った記憶もないですし、誰にも留学してくれと懇願されたこともないですし。

基本、自分で選択した道です。自分の選択には責任を持つというのが大人というものだろう。

だいたい、愚痴るという行為の目的が見えないので、そういうことをしたいという願望が芽生える自分が許せないわけですね。

もし、愚痴りたいという願望があるのなら、そのそもそもの根本原因は、全て革新的な研究ができない自分のせいなのだろうし。

問答無用で世界を代表する研究者になっていれば、就職先に不安を感じる事もないだろうし。

基本、ぜーんぶ、私の責任です。プロなんてそんなもんです。できなきゃ捨てられる。文句が言いたければ偉くなれ。それだけ。

別に誰かに愚痴って、弱みを見せて、それでもって、美人で優しくて包容力のある女性に慰めてもらいたいとかそういう願望を抱いているわけでもないです。(そんな男は嫌ですよね)

だいたい、そういう状況を体験できたとしても、自分に自信がなさ過ぎて、相手の目もまともに見れなくなるのではあるまいか。

だから、自分に自信を持って、不安の根本を解消するためには、ひたすら論文を読んで、データを集めて、自分の頭を動かす以外にはないわけです。対処法が分かっているのだから、それをやればいいだけの話だし、潰れればそれまでの人間だったということなのだろう。限界を知るというのも人生では重要な体験だと思う。

こういうのって、別に若い高校生なんかのやるべきことと大差ないですよね。

例えば、部活で、野球の試合が控えているのであれば、自分の特技を伸ばし、苦手を克服する。

逆シングルの補給確率が低いのであれば、その練習を徹底的にし、内角球が打てないのであれば、肘をたたんで巻き込んで打つ練習をひたすら繰り返す。

オーケストラの本番を控えていて、不安なパートがあれば、その部分を徹底的に練習しまくるとか。

大学受験前に、英語の関係詞節の理解が不十分なのであれば、文法書などの索引を利用して徹底的に頭に叩き込むとか。

この手の準備は必ずしも実になるとは限らない訳です。

そもそも本番で必要がないという可能性も大いにある訳だし、本番で思わず失敗してしまうということもありえる。

ただ、重要なことは、ある種の目的があった場合、そのプロセスをきっちりと確認し、自分にできる準備を最大限に行って本番に臨むという姿勢であるように思える。

そうすることで成功確率を高めた結果、ある種の成功を収めることができれば、それは確固たる自信につながるわけだし、うまくいかなくても、それはたまたまうまくいかなかったからだということで自分に納得することもできる。

自分にできることを把握し、精一杯のパフォーマンスをする準備を怠らない事。

そのプロセスを確立することができれば、そのうち必ずうまくやれるものだと思うし、徐々に自分の自信が確信へとつながると思うので、その手のプロ意識だけはなくさないようにしたいなぁと思う。

逃げや、できなかった時の言い訳なんて、後からどうとでも作れるわけだし。

自分をとことんまで追いつめて、限界に挑戦するということ自体は、別に私は嫌いではない。

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2008年11月30日 (日)

死にかけました

えと、ヨークは金曜からごっつぅ冷えてめちゃくちゃ寒いです。

路面は凍っているし、今日はつめたーい霧がかかっているし。

ところで、路面が凍っていても、普通に金曜の朝に自転車に乗って買い物に出かけたのだけれど、なんとですね。

死にかけました( ̄▽ ̄;)。

ラウンドアバウトで自動車と並走していたのだけれど、地面が凍っていたせいで、なんと自動車が横滑りを始める。

おいらの自転車にあやうくぶつかりかけたのです。

急いでハンドルを切ってみたものの、あっしの自転車も横滑り!!

ひゃー∑ヾ( ̄0 ̄;ノ

自分で何をどうしたのかさっぱり覚えていなくて、条件反射としか思えないのだけれど、自転車から飛び降りて、そんでもって空中で一回転して地面に激突!

左腕を強打したせいで、腕時計が壊れてしまいました。

ありゃりゃ。

まぁ、命と腕時計を交換したんだと思って、気持ちは切り替えたんですけど。

しっかしですね。

別に生に対する執着心なんざあんまりないですし、自分ごとき人間に生きている価値なんてあるとも思えないわけですが。それでもやっぱり、あと5年くらいは生きたいなぁと思う訳です。

ていうか、せめてあと2、3年くらいは生かしておいてくれい。dissertation終わる前に人生終わらせたくはないっす。

でも、事故ってこんな感じで突然起こるものなんですよね。

気をつけておかないと。(在英邦人が事故死とか、日本のニュースで放映されたくないですね。死ぬ時はひっそりと、象のように誰にも気付かれずに死にたい)

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2008年11月26日 (水)

雨は夜更け過ぎに雪へと変わるだろう

えと、ヨークでは日曜に雪がちょっと積もりました。

午後には溶けちゃって、写真は取り損ねたのだけれど。

そーいえば、ぼちぼちクリスマスですね。

ちょっと久しぶりにこういうCMを見てみました。個人的には牧瀬里穂さんのがお気に入り。リアルタイムで見ていたのを覚えていますしね。柱に隠れて嬉しそうな顔をしているのがいいなぁと思います。

今年も、多くの人たちが笑顔になれる年末になりますように。

えと、個人的な話ですが、ちょっとヤバいです。

なんかですね、自分をコントロールできないといった感じ。

昨日は学食でカプチーノを買おうと思って、そのボタンを押したつもりだったのだけれど、なぜかホットチョコレートのボタンを押してしまいました。

もう、全然、何がなんだか分からないといった感じです。なんなんだ?意思の通りに体が動かない。

疲れているのか、年を取ったのか。(-.-;)

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2008年11月18日 (火)

ふと思いついた

特別、「口臭が気になる」とか言われたことはないのだけれど、よくミント系のガムを噛んでいます。

口ってのは雑菌が溜まる箇所だし、やっぱりちょっとずつ菌が積み重なっていけばそのうちくっさい口になるんだろうなっていうことは想像に難くないので、ちょっとでも気を使っているわけです。

って、基本的に口周りがサッパリしている方が気分がいいというだけのことなんですけれど。

この前、日本にいた時に久しぶりにキスミントを買いました。味がすぐになくなっちゃうのが難点なのだけれど、柑橘系(グレープフルーツとか)のやつが昔から好きだったので好んで買っています。

ちょっと味や香が改良されてあって、なかなかおいしかった。

もう随分と昔の話になってしまいますが、ふと、自分が大学の学部生時代に勤めていた塾でのとあるヒトコマを思い出してしまいました。

当時、キスミントのキャッチフレーズとして、

「好きな人とキスする前に。嫌いな人とキスした後に」

っていうのがあって、パッケージの裏にそんなことが書いてあったんですね。

初めてそれを読んだ時が、ちょうど塾の自分の机だったのですが、そのキャッチフレーズを読んで、クスクスと笑っていた時に、とある小学校6年生の女の子が近づいて来たわけです。

彼女は受け持ちの子だったのですが、美人で気丈で気が強い気分屋さんだったのですが、「あー、先生、なんで笑ってんのー?」と尋ねてきたわけです。

私はパッケージを見せて、笑っていた理由を説明したのですが、彼女に怒られてしまいました。

「嫌いな人とキスなんかせぇへんもん!先生、嫌いな人ともキスできんの?最低や!」

とか何とか。

いやはや、そうですよね。

冗談が過ぎました。子供の目につくようなCMで大々的にこのようなことを流して楽しんでいる大人が悪いんですね。

言われてみれば、しょうもないジョークかもしれませんが、基本的に彼女の言っていることの方が正しいのでしょう。大人は子供に変な知識を植え付けるべきではない。そうや、嫌いな人とキスするようなシチュエーションはない。

まぁ、そういうわけで、多少苦い思い出があるわけですが、それでもキスミントというガムは私はけっこう好きです。

こんなことを言っていた彼女も今では20歳を越えているんですが、今では素敵な大人になっているんでしょうか。

それと一緒に、野球が上手で腕白だった少年だとか、機転の利く男の子だとか、負けず嫌いなのにすぐ泣く男の子だとか、大人びていて美人だった子だとか、女っぽくて既に私を振り回す力があった子だとか、いろんな子供たちがいたことを思い出しました。

みんな元気でやっているといいんですけどね。

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2008年11月 2日 (日)

子供を抱く

えと、体重が4kgちょいの姪っ子を抱いてきました。

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ちゃんと(?)顔写真も含めて撮っている写真もあるのだけれど、それはFacebookという出会い系サイトSNSで公開してあります。

ご覧になりたい方はそちらか、もしくは私信くださいな。

えと、そんなわけで、明日はヨークに帰ります。今の時期にイギリスに帰るのって、なんだかテンションが上がらない( ̄▽ ̄;)

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2008年10月29日 (水)

競争社会

いいとか悪いとかそういう価値基準ではなくて、現実に人間の生きる社会はいろいろな意味で競争社会であるということは間違いない。

競争に勝つか負けるか。

この場合、「勝者」とされる人の数は圧倒的に少なくて、分かりやすく言えばトーナメントの優勝者のみが勝者であって、それ意外は端的に言えば敗者であると認識される。

それは「そんなもん」なんだと思う。

現実がそうである以上、周囲は「いかにして勝つか」という勝者にスポットライトを浴びせるようなことを考え、当然、誰しもが勝つためのストラテジーを考慮する。

ふむ。

競争の原理は、恐らく広義で生物の生存競争に由来するものであるというのは間違いない。

競争に勝てば生き残り、負ければ死ぬ。

基本はそこにある。

しかしながら、ホモサピエンスの繁栄はそういった自然の原理を圧倒するレベルになっているということも間違いのない事実であるように思える。

勝者でなくても、つまり敗者であっても十分に存在し、繁栄する事が許されているわけである。

例えば、現代の日本においては、まず「学歴」という競争が待ち受けている。

日本の慣習に従えば、最も学歴が優れているとされているのは、文系で言えば東京大学の法学部を学部で卒業し、理系で言えば、医学部の博士課程を修了することであると断言してよかろう。

学歴とは言うものの、中学や高校の受験は基本的に考慮されない。

麻生であろうが、開成であろうが、灘であろうが、大学受験に成功しなければ高校までの学歴は無意味であるとされる。

こういう学歴競争に負けても、受け皿となる二番手、三番手の大学なんていくらでもあるし、さらに大学に進学しなくても、いくらでも生きていく術はある。大学に進学できなかったからといって、間引きされるわけではないのだ。

さらに、就職活動という行事も待ち受けているし、そもそも就職してからの競争の方が激しいし、一事が万事、全て競争・競争の社会を我々は生き抜いているわけである。

一方で、そういった競争に少々負けてしまったところで、死というリスクを背負う必要は今の所ない。

競争に負けても生きていくことができるのであれば、なぜ競争するのかという疑問が思い浮かぶわけであるが、人間にはアイデンティティの確立というややこしい問題があるわけである。

言うまでもなく、絶対的にアイデンティティを確立できるということは基本的になく、競争に勝った勝者のみがアイデンティティを強める機会を得ることができる。

人のリスペクトを集め、優越感を感じるためには、人より優れているという相対的な結果が必要になってくるわけである。

そういった結果は、得られる者にとっては快感ではあるが、得られる人間が圧倒的に少数であるということが前提である以上、必然的に多数の人間にアイデンティティを確立する機会を与えないということにもなる。

多数の人が幸せであるという社会と、不幸であるという社会のどちらが過ごしやすいかと考えると、前者であろうということは言を俟たないのであるが、問題はいかにしてそのような社会を確立するかということにある。

(非常に限定的な)理論に従えば、社会主義、共産主義という思想は、そのようなよりよい社会を実現する一つの手段であるわけであるが、その実現は非常に困難であるということは歴史が証明する事実でもある。

恐らく、現在の知識人、特に哲学者や社会学者が提示しなければならない理論の一つは、「いかにして負けるか」という敗者の心理を支えることなのではあるまいか。

少数の勝者だけではなく、多数の敗者に光を与えること。

物質的には不自由がないはずの現代日本に希望が見られず、なんとなく「暗い」印象がある現在、この種の問題に取り組む事は必要なのではないかと思う。

「負けたか。でも、負けてもいいんだよ」と口にする事が責められないことは、けっこう重要なことなのではないか。

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2008年10月28日 (火)

女(男)に生まれ変わりたい

もう随分と昔のことになってしまったが。

大学の学部時代、つまりそれは前世紀ということになるのだが、まだ海外体験も何もない頃、とある学習塾でバイトをしていた。(基本、私のバイトは塾の集団授業の講師である)

その塾では、月に二回、塾内新聞なるものを発行しており、「講師紹介」というコーナーが設けられていて、けっこうスペースが割かれていたのである。

出向していない校舎の人たちにも向けて、一応、顔写真も撮られる。

まぁ、ある種のちょっとした雑誌のインタビュー記事みたいなもので、ちょこまかとした質問に答えなければいけなかったのだけれど、そこの質問の一つに「生まれ変わったら、どうなりたいか」という項目があった。

男性の多くが、もしくは女性の多くが一度は考えたことがあると思うのだけれど、私は「今度は女になってみたい」と答えておいたのです。

俺があいつで、あいつが俺で。

私のインタビュー記事が掲載された新聞が発行された頃、私は中学生の女の子たちに「先生、甘いわ。知らんやろ?女の世界ってめっちゃどろどろしてんねんで」と、ちょっといろいろとお説教を賜ってしまったのです。

ふにゃふにゃ。

「女になりたい」と答えた時の私の頭の中では、やっぱりかわいい顔のイメージがあったし、いろいろとお洒落をしてみて、それで世の中の多くの男なるものがどういうアプローチを仕掛けてくるのかということにもいろいろと興味があったのです。

それにやっぱり、女の視点から見る世界観というものが非常に気になる。

逆に考えても、あれですよね。

恐らく「男になりたい」と考える女性の脳裏には、きっとかっこいい男性のイメージが思い浮かべられるはずで、それこそ「生理的に無理」とかいうタイプの人の顔は浮かんでこないはずです。

なるほど。

違う自分になりたいという願望は多かれ少なかれ、いろいろな人が持っているのだと思うのだけれど、そういう今の自分とは違う自分というものを思い浮かべるとき、やはり種々の願望が秘められているものであるなぁとひしひしと思うわけである。

超絶な美男、美女になれれば、きっと世界は楽しそうだなと容易に想像はつくのだけれど、まぁ、そんなものかもしれませんね。

女じゃないけれど、もし私が福山雅治のような容姿であったとすれば、たぶん、自室や図書館に籠って博士論文を書くような生活を選択するとは思えないし、きっと常にスポットライトを浴びる立場の人間でいたいと考えるのではないだろうか。

世の中、そんなものなのかもしれない。

しかし、外見が福山雅治だったら楽しそうですよね。

学校や職場で挨拶をしたり、世間話をしたり、道端で目的地を尋ねたりしただけで、世の女性方が、「え、もしかしてこの人、私に気があるの」とあらぬ妄想を膨らませ、顔を赤らめて、etc

ってことになるわけですよね。たぶん。

少なくとも、逆の立場ってそんなもんだと思いますよ。

学生(今も一応、学生だけど)時代、所謂、「高嶺の花」というか、美人で噂の人たちって、授業中なんかに目が合ったりするとニコッと微笑んで、時に手を振ってくれたりするんですよね。自分がきれいだということをよく理解しているらしい。

それで、人がドギマギする反応を見て、楽しんでいたのかもしれない。

やっぱり、美男、美女って得ですな。

うーむ、またまた脳みそが蕩けるようなアホみたいな話を書いてしまった。私は本当に研究者の端くれなのか( ̄▽ ̄;)

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2008年10月26日 (日)

なんとなく懐かしくなって何度か聞いた曲

Still Love Her

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2008年10月25日 (土)

人生の決断

他の多くの人たちがそうであるように、私も時々、人生の節目節目において、「もし、あの時、こういう決断をしていたら」と考えることがある。

恐らく間違いないのだけれど、人生の局面において、迷わなければならないという状況に置かれた結果、考え抜いてある種の決断を下したということに際して、100%満足するということはあり得ないのだろうし、大なり小なりきっと後悔するものなのだろうと、そう思う。

判断した際には53%妥当であったものが、60%や70%になることもあれば、30%や40%になってしまうこともある。

いいとか悪いとかで判断される二元論なのではなくて、とにかく「そういうもの」なんだと思う。

それはたぶん、波の上に漂う小舟が、ある瞬間には東に流され、ある瞬間には速い速度で南に向かう、といったような極めて不安定で予測の経たない状況を眺めているということと同一なのではないかなと思うのである。

私の場合には、もっと小さい頃から本格的に野球をやっておきたかったとか、高校はやっぱり学区で一番の所を受けておくべきだったとか(注:成績的には一番手に普通に行けたのだが、種々の条件により二番目の高校を選んだ)、そういうことから判断を誤ったかなと思う事がある。

しかしながら、一番手の高校を選択したからといって、順調な高校生活が送れていたという保証はないわけだし、阪大に受かっていた保証もないわけである。

もちろん、順風満帆な高校生活を送って、阪大どころか東大に行っていた、という可能性もゼロではない。

そんなもの、誰にも分からない。

それと、よく考えるのが、大学院に進学せずに就職しておけばどうなっていたかという話。

普通に一年のシアトル留学で満足して、そのまま内定を貰っていたM菱商事に行っていれば、どうなっていたのだろうかという想像。

もちろん、今頃はエリート街道まっしぐらでバリバリ働いていたかもしれないし、商社の仕事に飽き飽きして転職していたかもしれない。

それは分からない。(実際、S友商事の人事主任のお姉さんとお喋りしていた時には、「君みたいな子はおもしろいけど、商社にはいらない」と断言されてしまったわけだし)

単なる思い上がりなのかもしれないけれど、たぶん、そこそこ仕事はこなしているタイプだったのではないかと思う。

徹夜は苦手だけれど、基本、体力はあるし、営業やらプレゼンやらは得意分野だし、語学力もある。

けっこう高い確率で、今頃は「ふぅ」と夜の都会や田舎、海外をあちこちと走り回って、疲れながら、お金を溜め込んで、それなりに遊び回っていた可能性はある。

まぁ、それはそれで楽しそうである。

所詮、一個人にできることなんて知れているわけだし、組織を利用して大きなものを動かすというのも恐らく楽しかったのではないかと思う。

若い独身の間に、自由に使えるお金を持って、ある程度、いろんな遊びを覚えるということは、それはそれでとても楽しかったのではないかと思う。

実は、他にも修士号を取り終えてから、某公共放送から内定をもらいかけていたことがあったのだけれど(留学するのが決定した段階で、最後の身体検査を丁重にお断りさせていただいた)、それもけっこう「もったいなかったな」と思うことがある。

たまには組織で、集団で、何かを作ってみたいと思うことがあるので、なおさらである。

それに、若い同期同士でいろいろとはっちゃけてみるのも楽しいだろうし。

この手の有名企業だと、優秀な人材が集まっているので、刺激を受ける事も多いだろうし、そういうのはとても楽しい体験だったのであろうと思うのである。

もちろん、一方で、私のようなちょっと頑固で、微妙に天上天下唯我独尊的な所がある奴が、ずっと組織の中で自分を殺し続けることができるかというのも難しい問題ではある(研究者気質の人たちの間では圧倒的に協調性がある方だとは思うけど、組織に埋没できるタイプかと言われると、微妙ではある)。

それに表面上は華やかな仕事には見えても、恐らく大半はしょうもない雑用や、バカらしい仕事もあるのだろうし、おおよそ、私に興味が持てないような仕事も山ほどあるのであろうということくらいの想像はつく。

私は、信念と哲学が見えれば、例え「ナメクジを飲め」と言われても飲む事はできるのだろうけれど、そうでなければ、何もしないようなタイプでもあるので、ちょっと難しいと言えば、難しいタイプの人間であるかもしれない。

上司や取引先の理不尽な要求も多々あるだろうし、世の中のあらゆる種類の歪みや汚れを引き受ける必要もあったのではないかと思う。

そういう状況に疲れれば、例え大変だという事が分かっていてもアカデミズムに対する大きな憧れを抑えられないという心境になっていたかもしれない。

こういうわけで、現状に関して、特に不満を述べるつもりも毛頭ない。

研究なんて大半がややこしくて、めんどくさくて、疲れるし、鬱陶しいものなのだけれど、それでも時々、脳がヒクヒクしてアドレナリンが増幅するような瞬間を覚えることがあるし、その手の快感は、人生の中の素晴らしい体験の一つであるということは間違いない。

海外のあちこちに行く機会も貰えたし、いろんな国の優秀な研究者と交流する機会が持てたのは実に幸運であったと思う。

イギリスのいろんな部分を見る事も出来たし、アカデミック業界を選択することによって、いろいろ魅力的な人たちに出会うことができた。

そういう人たちは、研究者であったり、尊敬できる友人であったり、または心を躍らせてくれるような素敵な女の子であったりしたのだけれど、もちろん私が留学ではなく、就職という別の選択肢を選んでいれば、人生の中で出会う機会が恐らくなかったような人たちである。

縁と運とタイミングってやつはけっこう重要なのである。

恐らく、人生の中で最も素晴らしい体験の一つは、魅力的な人たちに出会うことなんだろうなと思う。

そういった人たちに出会えたことは幸運だし、自分の人生の選択の意義を感じさせてくれる体験でもあると思う。

もう一度、人生が選べるのであれば、恐らくアカデミック業界は選択しないで、別の人生体験をしたいものだけど、まぁ、これはこれでよかったんじゃないかな。

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2008年10月24日 (金)

アカデミック業界の給料

えと、無事に長年の苦難を乗り越えてPhDを取得しても、別に何もいいことはありません。

むしろ、苦労することの方が多いっす。

何せ某統計によれば、1割は首を吊るか行方不明になっている業界ですから。

それで、こんなお話が。
Academic Salaries

Go ahead. Make my day!

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2008年10月18日 (土)

人の不幸は嫌い

変わり者だとか、変だとか、頑固だとか、面白みを解さないだとか言われそうなのだけれど、どうも人の不幸というのが好きになれない。

「人の不幸は蜜の味」

ってほんまかいね?

この感覚は昔からのもので、本当に人の不幸(たとえそれがちょっとしたものでも)ってのが嫌いです。笑っている顔の方がいいやんね。

それと、人の不幸をせせら笑っている人たちを見るのはもっと嫌です。もう、本当に興味がない。

自分の嫌いな人たちの不幸だとか、バカな人たちが苦しんでいるのは快感だという意見もよく耳にする。

でも、こういうのも基本的に苦手ですね。

バカな人たちが苦しんでいると、なんとなく「なんでもっとうまく生きられないかね?」と心苦しさを伴う同情心が出てくるし。

そもそも嫌いな人たちには興味がないので、不幸になろうが幸福になろうが知ったこっちゃないです。というか、情報として頭の中に入れたくない。

好きな人が苦しんでいるのは、もちろん見たくないです。

笑っている、楽しそうにしている顔を見るのがいいです。

しかも、それが自分が原因で楽しんでくれているのならなおさらです。

自分が特別好きな人や、ちょっと好きな人たちが喜んでいる姿を見るとほっとします。そういう姿を見るのが好きです。

偽善者と言われようが、頑固者と言われようが、そういう感覚が好きなんだから仕方がない。この感情自体は人様に迷惑をかけるものでもないので、矯正する必要もないし。

そもそも人の不幸を喜ぶのって、あれですよね。

他人と自分とを比較して、人を貶める事によって、相対的に自分が優位な立場に立っているということに優越感を抱くということですよね。

なんか歪んでいるよな、と思う。

幸福が相対的な比較から得られるという認識だと、いつまで経っても満足することはないのだから、そういう公理というか、哲学はまず捨ててしまった方が、自分が幸せになれるのではないかとつくづくと思う。

人より自分が金持ちであるとか何だとか言い出すとキリがなくなるし。

ビル・ゲイツを目指したり、経団連の会長にでもなりたいのかね?

足をすくわれるのを回避し、金に寄せられる人たちを見て疑心暗鬼になりそうだし、余計な不安を抱えるだけになりそうなので、なんか楽しくなさそうだ。

人より容姿が優れているetcに拘りすぎるのもなんだかなぁと思う。

まぁ、俳優業だとかをしているのなら分かりますけど。

でも、容姿なんざ主観が大半を占めるわけだし、若い間の期間限定という部分が多々あるということも否定できないわけだし。

容姿の優れたパートナーをたくさん抱えている、もしくは経験が多いというのがセックスアピールにつながるというのもどうかと思う。

正直、個人的にあまり興味はないです。

パートナーには自分のことだけを見ていて欲しいという独占欲は別にいいと思うし、そういう願望は私にもあるのだけれど、そういう要求を相手に求めるのであれば、自分もパートナーのことだけを思う義務みたいなのはあると思う。

相手には自分の事だけを見て欲しいが、自分はいろんなところに色目を使うというのはなんかフェアじゃないなと思ってしまうのである。

はっきり言って、私の思考回路は徹底的に潔癖性なので、こういうフェアネスだとか論理性はけっこう重要な問題なのである。

ちょうど来年に「あさきゆめみし」がアニメ化されるらしいので、例を挙げると、光源氏なんてあんぽんたんなやっちゃな、という気になる。

そりゃ、若い頃は性欲が理性を凌駕することもあるし、多少はフラフラしても若気の至りかなとも思う。だいたい正妻とうまくいっていないのだから、ある程度遊んでいるのは別に悪くはないと思うのだけれど。

しかし、紫の上の扱いは最悪ですよね。「お前、ほんまにプレイボーイか?地位があって、容姿と教養があったからもててただけの話なんちゃうんか?」という感想を私のような庶民は持ってしまう。

新説だと思うが、光源氏は女の扱いがうまくなかったという結論も「あり」なのではないかと思う(六条御息所も生霊にさせてしまったし)。

だって、紫の上は、顔は愛しの藤壷に瓜二つでもろ好みのタイプ、知性と教養があり、しかも自分より一回り若い。性格も穏やかで、多少(かなり?)浮き名を流しても黙って待っていてくれるような女性なのに、それを正しく評価できないのはあんまりだと思う。

どー考えても藤壷さんよりいい女だと思うのだが、これをちゃんと見ていなかった源氏はやっぱり女を見る目がなかったと思いまっせ。

まぁ、そこでうまくいってめでたしめでたしだと話としてはおもしろくないんだろうけど。

ドロドロの恋愛劇、がいいんですよね?でも、個人的にはうまくいって淡々と進む話もけっこう好きなんです。

面白みのない人間ですまない。でも、あたしゃ、夕霧さんでいいと思う。

長い遠恋を実らせて、という話って嫌いじゃない。

糟糠の妻というのも、ちょっと憧れがある。

閑話休題。

えと、まぁ、そういうわけで、自分がちゃんと満足できるかという部分に重きを置くということは別に悪いことではないのではないかと思う。

自己満足、ってやつです。

メディアを通して伝わってくる情報とは、随分と違う感覚ですよね。

そりゃ、そうです。

資本主義社会なんだから、大衆の欲望を喚起し、より市場にお金を落とさせるように世論を動かさなければならないんだから、欲望を満たされては困るわけですよ。

だからこそ、こういう状況を要領よく生きるためには、多過ぎる情報を遮断するというのも有効なストラテジーであると思うわけです。

ヒトという生物種が、ある程度過不足なく生きられる技術を提供することが可能になった現在においては、一昔前のように「前進、前進」と前だけを見るのではなく、ある程度周りを見渡して、立ち止まって、緩やかに進んだり、後退したりする必要もあるのではないかと思います。

個人というレベルだけではなく、社会というレベルにおいても、進歩するということが必ずしも肯定的に捉えられるわけでないということがありえるのではないかと思います。

個人的な話をすると、私は自分という人間が好きになれないですし、好きになれる根拠も何もないので、せめて形に残るアチーブメントを残したいという強い欲望があるわけです。

それがたまたま、自分の人生の途中で見えたのが、海外PhDだったというだけの話。いろいろな世界も体験することができるし。

別に代わりになるものがあるなら、なんでもよかったのではないかと思います。

せめて、自分で納得のできる成果を収めたいものです。

なんてことを、日本のとあるテレビ番組をちょっとだけ(2分くらい)見て、考えていました。

しかし、他人をあざ笑って、自分が優位であると確認する事がそんなに魅力的なコンテンツなのかしらね?どうもこういう「バラエティー」は好きになれないな。

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2008年10月 2日 (木)

あき

夜が冷え込むようになりました。

最低気温が3度とか。

日本とは違って、なんかいきなり寒くなってしまうような感じです。夏から間髪入れずにいきなり冬になるという感じがある。

風が強くて、晴れ、雨、また晴れたと思って外を歩いていたら、いきなり雨、しばらくしてまた晴れ。

というイギリスの移り気な気候です。これから憂鬱な冬が始まります。

これから日本は秋ですが、秋の夜長っていいですよね。涼しくて、虫の鳴があって、ひんやりとして、何か奥深さがあって。

そんな静かな夜を歩いてみたくなることがよくあります。静かな夜道って好きです。まぁ、暗い趣味ですね。

イギリスの夜道もなかなかいいです。ヨークはけっこう星空がきれいなので、夜道を歩くのは悪くない。治安も悪くないし。

一度、夜空を庭から眺めて日本酒を飲んでみたかったのだけれど、ちょっと機会を逸してしまいました。今からだと、さすがにちょっと寒い。

P.S.
テロ事件で崩壊したニューヨーク貿易センタービルの住所はニューヨーク・クイーンズ通り・33番地、略すとQ33NYとなります。
次のことを試してみてください。
かなり衝撃的です。

1.ワードを開く

2.半角大文字で「Q33NY」と打つ

3.打った文字を選択してサイズを最大の72にする

4.打った文字のフォントの設定をWingdingsに変える

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2008年10月 1日 (水)

イギリス土産

今更ですが、欧米にお土産という文化はありません。

気が楽でいいです。

しかしながら、日本人なら土産は何かということを考える機会は多いわけです。

ふむ。

イギリスは、まぁ、お金を心配しなくていいのなら、いろいろと楽しいお土産はあります。

しかし一方で。

貧乏学生でお土産を考えるのは難しいですよね。

個人的なお薦めは、チョコレートだったりします。

えぇ。

イギリスというと紅茶が有名ですが、アフタヌーンティーでは紅茶というよりもお菓子がおいしいという部分が大きいですし、それにお洒落な食器が重要な役割を果たしていたりするわけです。

紅茶は悪くない選択肢ですが、でも、日本でも十分過ぎるくらいおいしい紅茶は手軽に買えるので、それほどのインパクトを相手に与えることはできません。

ヨークではベティーズとかいう有名なお茶屋さんがあって、手作りお菓子が有名ですが、これもちょっと難しい。

スーツケースならまだしも、他の鞄だとぐちゃぐちゃになる可能性があるし。

見た目がきれいなのが多いので、それを潰すとちょっともったいない感じになっちゃうのです。それより何より、ちょっと値段が張るので学生さんには厳しいかも。

食器はいいのがたくさんありますけど、重たいので持ち運びに不便ですし。

服はやっぱり、買いたいという人が多いと思われるので、あまりプレゼントとしては効果的ではないですよね。ただ、スコットランドに行く機会があれば、カシミヤのマフラーや手袋なんかはなかなかいいかもしれません。品質のいいのが買えますし。

アクセサリーは恋人でもなければプレッシャーになるだけなので、問題外。同性だとさらにちょっとややこしい。

翻って、チョコという代物。

イギリスやヨーロッパにはチョコレートの種類がこれでもかってくらいたくさんあります。

ヨーク市内にチョコレート専門店は軒を揃えております。本当に種類が豊富。(最近、2つ増えた)

安い小型のパックになっているものも多いし、見た目がかわいらしくてケバケバしくない物が多いので、老若男女問わず渡せるのではないかと思います。

それと日本のチョコに比べて、ヨーロッパのチョコはカカオの風味がいいのが多いので、インパクトを与えつつ、気に入ってもらえるのではないかと思います。

ビターチョコだと男性にも受けがいいことが多いですし。

チョコは嫌いという人が少ないですし、変な癖もないですし、それにおいしい食べ物って無難に貰って嬉しい物ですよね。渡す方も気楽ですし。

というわけで、土産ってチョコなんてどうでしょう?chochoholic「チョコ中毒者」なんて言い回しも、イギリス英語にはあったりします。

ところで、「イギリス英語」って変ですよね。「英語」なのに。なんか「頭痛が痛い」とか、「苦悩に苦労する」とか、なんかそういう冗長さがあるような気がする。

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2008年9月30日 (火)

ちきんかれー

えと、天気のいい休日にはカレーが作りたくなります。

というわけで、日曜にカレーを作った。

まぁ、カレーなんてまずく作ることの方が難しいんじゃないかって代物だし、「俺、カレー作れるんだ」と自慢するからには、スパイスの配合からきちんとやれよって感じになっちゃうのだけれど。

日本のカレールーはイギリスでもけっこう簡単に手に入るので、たまに作ります。作り置きができるので、一度作ってしまうと楽でいいのです。

まず、いの一番に玉葱をみじん切りにして、弱火でしんなりとするまで炒めます。

その間に、ジャガイモの皮を剥き、人参の皮を剥き、チキンをオーブンにかけます。

チキンは骨付きのやつがいいです。たぶん、鶏は皮と肉の間と骨にうまみがあると思われるので、単なる胸肉やささ身はあまりカレーには向かないのではないかと思う。

オーブンで表面をしっかりとやいてから取り出し、一口大の大きさにブツ切りにします。それで、そのチキンを玉葱の中に入れて、塩・胡椒をしてから炒める。

ちなみに骨も入れます。骨は大事っす。出汁が取れて、コクのあるカレーになる。

ある程度フライパンでも焼き終わってから、鍋に入れ、お湯とジャガイモと人参を加えて、灰汁を取り除いてコトコトと煮込む。

それで、カレールーと、何かその辺に売ってあるスパイスだとか唐辛子をまとめて適当に配合させたものを加えて、弱火でコトコトと煮込む。

こうするだけで、十分おいしいカレーができます。その後、3日か4日はカレー漬けの生活が待っているわけですが。(というわけで、今日のお昼はカレーを食べました。イチローは毎日昼にカレーを食っているらしいです。と考えると、カレーってのも凄いですね)

正直、チキンは口の中でポロポロとほどけるくらいに柔らかくて、十分においしいのだけれど、なんとなくチキンカレーというとMr.味っ子を思い出します。

なんか、主人公のよういちくんと関西で名の売れているかずまくん(名前が違っていたらすまない)がカレー対決をしていて、チキンを柔らかくするためにヨーグルトカレーとパイナップルカレーなるちょっと妙竹林なカレーを作っていた話ですね。

正直、全然、うまそうではなかったのだが。

グルメ番組はその後、美味しんぼに興味が移ったので、まぁ、それだけの話なんですけどね。(かと言って、別に真剣に見ていたわけでもないのだけれど)

というわけで、明日もカレーを食べないといけない。

今は、何となく豚汁と焼き秋刀魚を食べたい気分です。秋っていいですよね。って、イギリスは秋を素っ飛ばしていきなり冬になりそうな感じなのだけれど。

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2008年9月20日 (土)

妄想癖

えと、めぞん一刻の五代くんじゃないですが、私には少々妄想癖があるようです。

うーむ。

実はですね。

ちょっと黙っていたのですが。

なんとなんと。

先週、ベルリンにいる間に、私はなんと名実共に「おじさん」になっていたのです。

イェー!!!(・∀・)

というわけでですね、弟さんにめでたく娘が生まれたのです。

そうか、とうとうそういう年になってしまったのか。

しかし、姪っこさんですよ。

こりゃ、かわいいに違ぇねぇ。

当面の問題は、姪っこさんに何て呼ばれるかである。

正直に言って、「おじさん」と呼ばれるのは少々辛い。

体力と記憶力が衰えて来ているものの、やっぱりまだ自分では「若い」と思いたいのである。

往生際が悪くてすまない。

しかしですね。

ちっこくてかわいい女の子に「おじさん」と呼ばれるのはちっと辛いわけです。おいらと似たような年の女性は、自分が「おばさん」と呼ばれる状況を想像してみてくださいな。

というわけで、ですね。

一応、身内には宣言してありますが、ここで公表いたします。

あえて言おう。

姪っこさんが小学生になるまでは、「お兄さん」と呼ばせてやる!

うむ。

呼び方自体は間違っていないはずだ。

なんなら、弟より小さい(実話。弟はおいらより縦にも横にもずっと大きい)ということから「ちぃ兄ちゃん」と呼ばせてもいいだろう。(って、本当、イチイチネタが古いですよね。「あんちゃん、小梅の気持ちも分かってやれよ」)

ですから、今から、というか30代の間は見た目に気をつけまっせ。

外見がおっさんというのは、「汚い、ハゲ、太っている」の3点であると思われる。

根っからきれい好きなので、汚くなる事はなかろう。ハゲは遺伝だが、今のところ問題はない。後は徹底した体重管理ですね。

絶対太ってなるものか。(「細い」と言われようが、今の体重をキープしまっせ)

頑張ってシブいおじさんになります。当面の目標は(元が全然違いますけど)真田広之と氷室京介であります。

この二人は身長もちっこいし。(でも、かっこいいからいいのだ)

だって、小さい女の子に嫌われるのって嫌ですよね。自己の存在を否定された気分になる。

単なる見栄以外の何者でもないけど、やっぱり「かっこいい」と思ってもらえるようになりたい。

それが身内なら尚更である。

やっぱり、父である弟を差し置いて、「お兄ちゃん(おじさん)と結婚する」と言われてみたいものである。

それで、母親や父親に「おじさんとは結婚できないんだよー」と言われて、「やだやだ」と言って泣かせてやりたい。

うゎー、夢は広がるばかりだぞ。

しかも、私は遊園地が苦手であるが、さすがに両親をさしおいて私が遊園地に連れて行かなければならないようなシチュエーションになることもあるまい。

とりあえずのリスクは回避できそうだ。よかった。(注:筆者は高所恐怖症なんです)

でも、たまには遊びに連れて行ってあげてもいいですよね。

そんなこんなで、最近、ちょっと妄想癖が広がりつつあります。

しかし、一方で。

自分ですが、別に近いうちに結婚する予定はありません。

遠い将来にもないかもしれません。とりあえず、人生で二度あると言われているモテ期を逃したということだけは断言できます。(なんとなく、めぞん一刻の坂本くんが、五代くんに酒場で、彼女に「あなたに体は預けても、人生を預けた覚えはない」と言われたと言って愚痴っているシチュエーションが頭に浮かびます。えぇ、あたしゃ基本、悲観的ですねん)

でも、とにかく子供さんっていいですよね。

理想は運動神経が良くて、活発で負けず嫌いの生意気な男の子なんか欲しいですね。(スラムダンクの沢北のお父さんの回想シーンを思い出してください)

一緒にキャッチボールできるし、バッティングセンターに行けるし。

野球を本格的にやるなら、ちゃんとしたグローブを一緒に買いに行けるし。

そのためには体力の維持が必要不可欠である。

でもねぇ。

「カン」という曖昧模糊としながらも、確固たる能力を持つ女性の多くがですね。

ほら、女の人って、将来の家庭図とか想像するの好きじゃないですか。つきあっている相手であろうが、なかろうが。

それでよく言われるわけですよ。

なんか女の姉妹(2人か3人)に翻弄されて、それで奥さんにヤキモチ焼かれて、そこでも頭が上がらない旦那さん。

になっていそうな気がすると。

おいおい( ̄▽ ̄;)

亭主関白になれそうな雰囲気はないのか、とあたしとしてはツッコミを入れてみたくなるわけです。

でも、娘に嫌われるのだけは避けたいですよね。(つい最近、某新婚さんとそういう話をしていたのです)

思春期の頃は疎遠になるのは仕方がないですが、やはり幼少の頃は「パパと結婚する」とか言われてみたいし、20歳を越えたらたまに飲みにも行ってみたいし。

小さい女の子って残酷なので、やはり「おっさん」になっちゃったら嫌われるんだろうなと思う。

やっぱり、シブいおじさまにならないといけないな、とつくづく思う。

というわけで、まぁた脳がとろけそうなしょうもない話を書いてしまいました。皆様、よい週末をお過ごしください。

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2008年9月19日 (金)

日本に帰りたいと思う時

えと、銀行の明細が来たので久しぶりに見たのだけれど。

・・・・

実は銀行の口座付けでマスターカードを作っていたのだけれど、維持費がかかる上に、セキュリティガードにも金がかかるわりにあまり使用しないので、去年の秋に破棄しちゃったのです。

維持費はだいたい月8−10ポンドくらいで、セキュリティが年30ポンド。

1年単位で見たらバカにならないですよね。

ところがところが。

今までの明細もひっくり返して見てみたのだけれど、カードの維持費だけ取られている!(・A・)

10ヶ月以上取られているので2万円くらいの計算。

はぁあ。

えぇ、えぇ、分かっています。この国でもアメリカでも普通にあることですよね。たぶん英語力だとかがそんなにない人の多くが泣き寝入りしているんだろうし、たぶん銀行も確信犯(誤用での意味)で勝手に引き落としているんだと思います。塵も積もればってやつで。

だいたい、この国(アメリカもシステムはほぼ同じだが)のこの手の手続きはややこしい。

電話であちこちの部門にタライ回しにされて、番号をポチポチと押して行って、たまに向こうで登録ミスがあったらメンドクサイ事にもなるし。

挙げ句の果てに英語の不自由なオペレーターにつながれて、話は全然通じないこともあるし。

通話時間を変えて英語が分かる人につながっても「責任者じゃないから」とか「よく分からない」とかあーだこーだとグジグジグジグジ不毛な会話を続けて、最終的にヨーク市街のHSBCに行くんですよね。

えぇ、分かります。

実はセキュリティガードも、「更新しない」というのに○をして手紙の返信をしたのだけれど、まぁた勝手にお金を引き落としてやがったので、HSBCまで出向いて、セキュリティを更新しない文書にサインをして、お金を戻してもらう手続きをやったんですよね。

もう、ほんまにめんどっちいのです。こんな不毛な事に精神力を費やすのは本当にしんどい。めんどくさい。ややこしい。

まぁ、ある種のVIP待遇のお客様だと、アメリカでもイギリスでもこれでもかってくらい丁寧なサービスを受けられるみたいだけれど、しがない預金金額しかないあっしら庶民なんてどーでもいいんでしょうね。実際。

こういうのは日本と違います。

この手の交渉は本当に消耗なので、20ポンドやそこらぐらいだと泣き寝入りしてもいいのだけれど、さすがに1万円を越えるとちょっと重い腰を上げざるを得ない。

というわけで、明日、買い物ついでに行ってきます。明細と、カードの破棄終了の手紙を持って。証拠がないと動いてくれないし。

軽く弁護士になった気分ですね。

この手のいい加減な仕事ってのは、日本ではあんまりお見かけしないので、こういう時には日本のキチキチとした仕事が恋しく感じられます。

あんまり低身低頭謝られても恐縮するのだけれど、きっちりと尻拭いしてくれるサービスが懐かしくなります。

やっぱり、この国は永住する場所ではないですね。

ベルリンにいた時、やたらと「居心地の良さ」みたいなものを感じていたのだけれど、たぶん、ドイツ人気質のきっちりしているところから来ていたのではないかと思います。

ドイツ在住の人によれば、公共交通機関は当てにならないことも多いけど、いろんなことをきっちりとやるのは日本みたいで、かなり住みやすい場所であるということなので、たぶんそういうことなんでしょう。

まぁ、間接的に自分を売り込んでいるのではないかとも思うのですが、懐の深い包容力のあるパートナーをお探しの方は、長期間アメリカやイギリスに留学された方をお薦めします。

多かれ少なかれ、いろいろなトラブルに巻き込まれているし、それに対処する持久力も養成されていますし。

やっぱり、若い間にいろいろと苦労しておいた方がいいですわね。日本みたいなきめ細かいサービスを一つ一つありがたく思うようになるし、間違っても店員さんに偉ぶるようなことはなくなるだろうし。

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2008年9月 7日 (日)

またまた

旅に出ます。

探してください。

てぃーる5

えるえいじぃびぃ

えと、帯状疱疹の痛みが取れてからは、「おりゃー!」って感じで仕事に熱中していて、文字通り24時間働いていたんじゃないかって感じだったのだけれど、軽く体を壊しました。

いやん。

自分の才能は、体力と持久力で、普通の人が2時間で終わるものを、3時間も4時間もかけちゃうのだけれど、5時間も6時間もかけてプラスαのことをするので、人一倍の仕事ができるという認識だったのだけれど、そろそろその考え方も改めないといけないのかもしれない。

でも、セルフコントロールは大事だと思うので、今日は朝にバトミントン、それから夕方までお仕事をして、その後、Sommerfieldという近くのスーパーまでお買い物。

魚とブルゴーニュの白ワインが半額だったので、それを購入して、白身魚のクリームソースを作って、ワインを飲みながら、懐かしの音楽を聴き漁ってみたのです。

中森明菜とか、工藤静香とか、チェッカーズとか、チャゲ&飛鳥とか、B'zだとか、ミスチルだとか、スピッツだとか、ドリカムだとか、まぁ、そういうの。

よく考えれば、ロックと洋楽以外にもいろいろと聴いていた音楽はあったんですね。

帰国したら、チャゲ&飛鳥のライブに行ってみたいと思いました。なんとなく。

なにせ、邦楽のライブは氷室京介以外に行った事がないもので。

P.S.
自分のabstractを見て、一文目でいきなり文法ミスをしているのを発見。もう、この自分のおっちょこちょいの性格をどうにかしたひ > <

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2008年9月 3日 (水)

独り言

9月に入り、夏も終わったせいでしょうか、また「晴天→雨→晴天→雨」の気まぐれな天気になりつつあるイギリスです。

晴天時はぽかぽか陽気だったのだけれど、雨が降ったせいでちょっと一時的に凄く冷え込みました。

外に出た瞬間に、思わず「おぉ寒」という言葉が口をつき、続けて、「って、何が凄いねん!」と思わず一人突っ込み。

???

って、何で俺、こんなつっこみを入れたんだろう?

と思ったんですが。

「おぉさむ→awesome→凄い」

だったんですね。英語で頭が働いていたことに気付いていなかった。

なんか、疲れてるのかな?やっぱり。

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2008年8月29日 (金)

ヤク中

えと、抗ウィルス剤のおかげで、赤みと腫れがなくなりました。

それと痛み止めのおかげで、火曜と水曜は痛みもなくなりました。

しかしですね。

この薬、副作用強過ぎるんですけど > <

元々、こっちの基準で「きつい」とかいう薬を一日、抗ウィルス剤は5つ、痛み止めは8回服用とかいうことになっているんですけど。

そんなに薬ばっかり飲めるかい!!

って感じです。

火曜日はよかったのだけれど、昨日はもうめちゃくちゃしんどかったです。目眩はするし、頭は重いし、頭は全然働かないし、焦点が合わないし、立っているのがつらいし、吐き気はするしetc

というわけで、ほぼ一日中寝ておりました。

ヤク中生活、もういや!

ということで、今日はもう患部もたいして痛まないので、痛み止めを飲むのを止め、抗ウィルス剤も今の所2回しか服用していません。後、1回寝る前に飲んで終わり。たぶん、もう落ち着いたし、いいだろ。たぶん。

だいたい、アングロサクソン用の服用って、アジア人の中でもとびっきりデリケートな日本人にはちょっと刺激が強過ぎるのではないだろうか。

それと薬の服用中はアルコールが禁止なので、たぶん、もう明日は飲みません。代わって、ワインでも飲みます。栄養取ってれば大丈夫だろ。

そんなこんなで、昨日は仕事も気分転換もできなかったので、ひたすら寝ておりました。まぁ、飯くらいはちゃんと作って食べたのだけれど。

ベッドの中で、「薬」「寝込む」というキーワードで、ちょっと思い出していたことが二つあります。

一つは、シアトル滞在時代のお話。

実は、ちょっと向こうで日本人の年上のお姉さんにちょっと仲良くしていただいて(その方は20半ばでしたが)、街中で飲み歩いていた時に、ちょっとお説教をされていたのです。

その時は10月末で、シアトルに着いてちょうど2ヶ月というところだったのだけれど、

「え!?こっちに来てもうすぐ2ヶ月なのに、まぁだ彼女作ってないの?ちょっと奥手過ぎない?風邪引いて寝込んだりしたら、どうするの?」

というお話でした。

はい、すみません。

確かに、異国の地で、もしもの時にちょっと手助けというか、ちょっと世話をしてくれるような人がいないってのは、ちょっと大変というか、つらいことかもしれませんね。

ていうか、自分が風邪を引いて寝込むとかそういうことを想像する機会がなかったので、全然、考えたことがなかった。

まぁ、こっちはそれでいいとして。

2つ目は随分と遡って、小学校の1年か2年の頃の話です。

OSというというイニシャルの子だったのだけれど、薬好きの女の子とちょっと仲が良かったことがありました。

メガネをかけていて、ちょっとかわいいというか美人さんだったということを覚えています。

なんかいろいろと喋っていた事があったのだけれど、その子はとにかく薬を飲むのが好きで、甘いものから苦い物までとにかく薬が好きなのだそうです。

なんか、そういうとりとめのない事を、凄く長い間喋っていたことがあったような気がする。

昼休みとか、放課後だとか。

さらに断片的な記憶なのだけれど、何度かその子の家に遊びに行った事もあります。シルバニアファミリーのおもちゃが確か部屋にあって、なんだか楽しそうに話をしているのを聞いているのがなかなか楽しかった事を覚えている。

今は薬好きなのを天職にして、女医さんだとか、薬剤師さんなんかになっていたらおもしろいですね。今頃、何をされているんだろうか。

しかし、過去の記憶ってたいがい当てにならないですよね。

何人か、こうやって馬が合うというか、話が合うというか、いろいろと仲良くなる人が小学生時代にいたという反面、確か、私は中1の頃はえらくシャイな奴で、女の子たちに女の扱い方だとか、目を合わせて喋るとか、そういうことをなんか訓練されていたことを覚えているのだが。

明らかに両者の特性は矛盾している。どっちかは記憶が塗り替えられてしまっているのだろうか。いや、でも、事実だったという確信はあるのだけれど。

記憶が嘘をつくということは往々にしてあるみたいだけれど、まぁ、どっちも悪い記憶ではないので、自分では事実であったと認識しておくことにしよう。

明日は海鮮リゾットに、白ワインでも飲んでみようかな?

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2008年8月25日 (月)

金がないとなぁ

左足のかぶれなのだけれど、オロナインを塗ってみたら赤みと腫れが随分とひきました。ただ、細かい水ぶくれみたいなのがちょこちょことできていて、気持ちが悪いのだけれど。

イギリスでは学生は基本、医療費がタダなので、明日、NHSに行ってみたいところだったのですが、祝日(バンクホリデー)なので行けません。

やれやれ。

ところで、体の関節だとか胃がキリキリと痛むことにも気付いた。何か変な病気にかかっているのではないかと、ちょっと心配になってネットで調べてみたのだけれど、ストレスなんかがたまるとこういう症状が出るようですね。(皮膚の症状も同じ)

まぁ、「そんなもんか」と思ったら、ちょっとほっとしたのだけれど。

胃が痛むので、あまり油っぽいもの(とは言っても、オリーブオイルを使っているし、揚げ物は食べないし、だいたい肉類は高くて買えないのだけれど)は食べたくないなと思って、豆腐を買いに街に出かける。

というか、Rail Cardの期限が切れかけだったので、更新に行って来たついでだったのだけれど。

今日は天気もよくて、街中を歩いているだけで随分と楽しかったです。しかし、ヨークってきれいな街だなとつくづく思う。

いつもはオリエンタルショップとかいう、1年半前くらいにできたちっこいお店に行くのだけれど、今日はちょっと新しくできた中華スーパーに行ってみたのです。

ここがけっこう大きくて、色々な物が揃えてあって、ちょっと驚き。

まぁ、華僑のネットワークってのは凄いものがありますし、人と金が揃えばこの程度の店を出すのは朝飯前だったのかもしれない。

冷凍餃子にも多少、心が動いたのだけれど、とりあえずパス。(ただ、餃子の皮とか売っているので、普通に餃子を作ってみたいですね)

豆腐を2つ買えば、1つタダとかいうのがあったので、それを買う。

合計3丁(とは言っても、1丁がけっこう大きい)。値段は1.8ポンド。

それと出前一丁がいろいろとあったので、いくつか買い込む。1袋28セント。

出前一丁はいろいろな種類がある上に、安いのでよく昼食にしています。これにリンゴかバナナを食べているので、昼食の値段は大体日本円で100円くらい。大学構内で、サンドイッチに珈琲をつけると600円ちょっとしてしまうので、この差は大きい。

しょうもないことに気を使うのは嫌ですが、貧乏はしゃぁないですね。

というわけで、今日はちょっと浮気(?)をしてしまったのだけれど、基本、またオリエンタルショップで買い物をしようかと思います。

別にこの中華スーパーが悪いとかそういうことではないのだけれど、オリエンタルショップの店員さんがけっこういい人たちなんですね。

経営は韓国人のちょっと年配のご夫婦なのですが、どちらも柔らかい物腰でいい人たちなのです。

初対面で私が日本人だと分かったようで、「いらっしゃいませ。こんにちは」と言われたのが縁で、私もこの店では極力、朝鮮語を使用するようにしています。

とは言っても、基本単語ばっかりですよ。あたしゃ、Koreanは喋れませんねん。

オリエンタルショップは品揃えもそんなに悪くないし、値段も特に高くはないし(出前一丁は1袋30ペンスですけど。ちなみに大学構内にあるCostcutterとかいう値段をカットしていない質の悪いスーパーでは58ペンス。ぼったくりです)、まぁ、満足しています。

でも、中華スーパーと比べるとちょっと旗色が悪いですよね。個人経営では、やはり華僑ネットワークには勝てないのではないかと思う。

資本主義は競争原理主義だし、確かに安い値段で品を提供できずに、品揃えが薄い状況にあるということは競争力がないということを意味しているわけだけれど、それでもあんまり現実的主義に過ぎるのもどうかと思ってしまう。

それにあの老夫婦が路頭に迷うのは、ちょっと忍びないし。

そういうわけで、微力ですけれど、私は基本、オリエンタルショップの売り上げに協力させていただきます。次はポン酢を買いに行かないと。

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2008年8月24日 (日)

愚痴る

えと、おもしろくない文章です。すみません。なんとなく最近、ついていないので、ネガティブな話ばっか。

腰痛がだいぶましになった。でも、全力で走れない。屈むのがつらい。それと、左膝と右肩と右手首が痛くて仕方がない。全て、野球で痛めた箇所です。年を取るというのは、こういうことか。いやん。

ついでに左太もものいろんな箇所がかぶれて赤くなってます。痒いというか、痛い。液体ムヒを持ってきているので、患部に塗ってみたら余計ひどくなった。あー、もう、なんでやねん!

北京オリンピックの野球は、準決勝からBBCで放送があったのだけれど、なんとなく期待していなかったので、ニュースで結果だけ見る。予想通り、日本、いいとこなし。メダルなし。批判しようと思えば、一本の論文が書けるくらいのことは書けるけれど、もういいです。一政治家、一監督としての技量は認めているけれど、星野はもう、国際試合に一切、関わるな。消えてなくなれ。

ついでにGG佐藤って誰やねん。全然知らんかったわ。つぅか、こんな守備ヘタクソなの国際試合出すなよ。短期決戦では守備力重視だろーに。自信を持って断言できますが、今の私でも絶対こいつよりまともに守れます。てか、多少、野球で外野経験ある日本国民全員が同じように考えていると思う。

用事があったので、めっちゃ久しぶりに(親不孝者だ)親に電話をかける。しかし、母親という生き物と会話をするのは難しい。本当の本当に、この世に「マザコン」って存在するのだろうか。男は基本、母親と似た女性をパートナーに選びたがるという心理学の俗説は妥当なのだろうか。親だから深く感謝しているが、母親のような女性が縁も所縁もない関係だったら絶対仲良くしようとは思わないぞ。喋っていて疲れる。

ついでに母親による私に対する見解は、「学歴だけ立派で、ろくすっぽまともな職業に就かず、ひたすら無駄な作業に時間と労力を費やしている無価値な男」です。いや、確かに妥当だし、今時、大学の専任職に就ける可能性の方が圧倒的に低いのは事実だし、言語学なんて箸にも棒にもかからない学問だという事は自覚していますけど、やっぱり多少の反感は持ちますね。いくら何でも、ここまで無理解な人がパートナーだったりすると、ちょっと心理的に厳しいものがあるのではあるまいか。

小さい頃からの教訓は、「母親の言うことには耳を貸さない(間違っているし、ろくなことがない)」です。ということは、これはこれでいい兆候なのかもしれない。

ちなみに、私は人から聞いた知識を裏を取る・調べるという習慣をかなり幼い内に身につけることができました。というのも、母親から聞いた知識の多くが誤りだったからです(慣用句だとか、漢字だとか、歴史だとか、理科だとか、数学だとか、枚挙に暇がない)。

よく考えれば、この習慣は研究者に必要不可欠だし、その能力は母親によって養われたのかもしれない。

ということは、もしまともに就職できて、まぁ、学問追求してよかったんでないかいという一通りの結論が出る頃には、母親に感謝することができるのかもしれない。

ものは考えようですね。

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2008年8月19日 (火)

不調

大阪桐蔭高校の4番は「萩原(発音は違うけど)」という名前の人が座るといいのだろうか。

えと、いろいろと書こうと思いましたが、腰が痛くて座ってられないので、ちょっとお暇を。

最近、右手首やら右肩やら腰やら野球で痛めた箇所がまた痛む。

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2008年8月18日 (月)

イギリスのはなし

イギリスに住むようになったので、さすがに歴史だとか文化だとか、ちょこちょこと気になって調べてみたりする事がよくある。

正直に言って、アメリカほどイギリスの歴史に詳しくなかったので、調べるとなかなかおもしろいし、関心することもあれば、驚く事もよくある。

こと、大学教育なんかになれば、オックスフォードから始まって、この国ではアカデミックの業績が世界随一であるということには異論を差し挟む余地もないくらい。コレッジ制の確立だとか、本当に昔から高いレベルにあるということだけは確かだし、世界史というレベルだと大英帝国の設立関連の華々しい歴史を日本では学習するし、明治新政府から多くの人材がロンドンのUCLに留学した時の見聞録を見ると、19世紀末から20世紀初期のイギリスの文明がいかに進んでいたのかということを実感させられるのだけれど、これって、実はいいとこ取りというか、華々しい部分でしかないわけですよね。

大学教育が充実しているとは言っても、それはあくまで上流階級の人たちだけの話であって、中流以下の人たちの生活はけっこう熾烈を極めていて、識字率も20世紀に入るまでそれほど高くはなかった(19世紀半ばで男性が60%、女性が40%であったという説があります。ただ、世界規模で見ると、この識字率は随分と高いと言えます。また、当時の日本も寺子屋なんかのおかげで、これに匹敵する識字率があったと言われています)わけだし。

正直に言って、今現在においても階級制度はある程度存在しているので、オックスブリッジを始めとする一流のリサーチ・ユニヴァーシティーに入る人たちの階級はほぼ中流から上級ということになっています。

これは16歳の頃の一斉テストでだいたい入れる大学が決まってしまう事によります。日本でもそうだけれど、総じて階級の下の人たちは教育に熱心ではないので、子供たちも勉強しないまま育ったりします。また、discarded child「見捨てられた子供たち」というのがけっこう社会問題化しています。簡単に言えば、子供を作るだけ作って、養育を放棄している無責任な親を持った子供たちのことです。

中絶せず、子供を産むのは、社会的補助が得られるからです。要するに社会階級の下の人たちは、国にたかっている感じになっています。それで、こういう無責任な親たちは責任を全うせず、適当にパートナーを代えて好き放題にいろんな人と関係を持っては子供を産むということを繰り返しています。

話は戻って。

19世紀の、ちょうどヴィクトリア朝の華々しい時期は、歴史で学ぶ分にはいいのですが、下流層の人たちの生活をいろいろと調べてみると、なかなか過酷なものがあります。

食べ物は、パンとジャガイモを煮て、それに塩かベーコンかつけばいい方。また、ロンドンではうなぎが取れるので、それをブツ切りにして煮ただけのもの。(日本人みたいに蒲焼きにしておいしく食べようとかいう発想を持たない人たちのようです。フランスやスペイン、イタリアではこんなことはないみたいですが。)

ロンドンではうなぎが取れるという言い方はきれいですが、要するにテームズ川ではうなぎしか取れなかったのです。何せ、工場排水やら、生活排水、それに牛や豚の死骸や贓物なんかをそのまま垂れ流していたのですから、当時の川の描写って凄いです。単純に訳すと「緑がかった珈琲のようで、一部は糖蜜のよう」だとか、そんな感じです。ヒャーです。

上下水道もごちゃまぜだし、馬車の馬糞はもちろん、肉屋の贓物や血はその辺に投げ捨てられ、生活排水や汚物も道ばたにポイポイと捨てているし、工場は活発に汚染物質を垂れ流しているので、空気は淀んでいるし、etcという阿鼻叫喚の地獄絵図です。もちろん、コレラやチフスといった病気が蔓延する事になったわけです。

恥ずかしながら、私はイギリスの文学をあまり読んでいないのですが、一応、ディッケンズとコナン・ドイルのシャーロックホームズくらいは読んでおります。

よく考えると、彼らの小説の時代設定は19世紀末から20世紀初期ですから、それほど昔の話ではないわけですよね。少し驚いてしまいますが。

かの有名なジャック・ザ・リッパーにしても、光化学スモッグや汚れた大気、それに霧でどんよりとしたロンドンを利用していたわけですから、世界に冠していた大英帝国の首都というのは、それほどきれいで雄大な都市でもなかったようです。

逆に日本の江戸や京都は、街並もきれいに整備されていた上に、衛生面も整っており、驚くばかりです。日本人の衛生観念は昔から高かったようで、弥生時代の遺跡に既に下水施設の跡は残っておりますし、上水道の整備は、戦国時代に小田原の北条氏康が実施しています。ロンドンで上下水道が整って、街がきれいに見違えたのは1903年以降の話ですから、日本の設備がどれだけ優れていたのかが分かろうというものです。韓国を併合した時に、京城の衛生面に驚いている人たちの記述がたくさん残されていますが、それは世界史的に見れば、日本の方が例外であって、特に朝鮮半島が遅れていたわけでもないんですね。日本の常識は時々、進みすぎていてびっくりすることがありますが。

それと貧しい時代の宿命でしょうか、当時は幼女売春が全盛を極めていたという記述がたくさんあります。売春婦は当然たくさんいたわけですが、特に高い値がついたのが8歳から12歳くらいの幼女で、ロンドンの街中で卑猥な言葉で紳士によりつく幼女たちの様子が記述されていたりします。あまり詳細に読むと、男の私でもちょっと食欲をなくしてしまう程なので、何があったとかここでは記載するのは止めておくことにします。知りたい人はいくらでも情報が転がっているので、ご自由にどうぞ。文学研究なんかをやっている人たちは、こういう記述をたくさん調べて詳細に読み込んでいるものなんでしょうか。

性に関する意識は、私一人がどうこう言える問題でもないと思いますが、幼女売春なんかをしなくてよくなった社会は、私は文明の勝利であると考えます。仮に自分が親だとして、自分の娘を売春させたり、売らなければ生きていけないような状況に追い込まれれば、アイデンティティが崩壊するのではないかと思う。

まぁ、歴史や人の生活をいろいろと知るのはおもしろいですが、それに善悪の判断を下すのは筋違いですね。当時の人たちは、当時の状況を必死に生きていたわけだし。

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2008年8月16日 (土)

なつ

朝日新聞のダイジェストのおかげで、高校野球の動画ニュースが見られる。

これはよい。

今年は、第90回の記念大会だけれど、選手はちょっと小粒のような感じ。

それでもやはり高校野球が見られるのはいい。悲壮感漂う一発勝負で、多くの若者が全力を尽くしている姿を見るのは楽しいし、短期間に一気に成長してしまう選手なんかもいてなかなか興味津々なのである。

ベスト8はおなじみの強豪校が揃ったけれど、それはそれでおもしろい。

大阪桐蔭はやはり個々の選手のレベルが高くて期待が持てるし、横浜もやはりレベルが高い。土屋くんもきれいな投球フォームにキレのあるカーブがあってなかなか素晴らしい。智弁和歌山は相変わらず甲子園で勝てる勝負強さがあるし、個々の選手のフリも鋭くて本当に感心する。

選抜覇者沖縄尚学を倒してやってきた浦添商業は、個々選手の体格は小さいのだけれど、本当によく鍛えられているし、伊波くんはなかなかキレのいい球を投げている。

やっぱり、私は野球が好きなんですね。未だに、高校教師にでもなって、野球部の顧問をしたいという願望はかなり強く残っています。まだまだ年齢的にも間に合うのでやってもいいのだけれど。

個人的にはあれですね、ちゃんと学業も両立させて、野球ばっかりやっている強豪校に一泡吹かせられるようなチームを作りたいですね。奈良の郡山高校みたいな感じで。

高校の生物の教師や、大学の生物関係者が言っていたのだけれど、頭のいい人は総じて運動神経もいい場合が多くて、こういう筋の通った人たちは何をやらしてもそこそこやれるみたいなので、やっぱり進学校で野球をしてみるのは楽しそうですね。若い高校生たちと遊ぶのはなかなか楽しいもんですし。気持ちも若くなれるし。

というわけで、残った高校の球児たちはもう一踏ん張り悔いのない夏にしてほしいものである。

えと、何か考えていたことがあったのだけれど、忘れてしまいました。日本の皆様は、暑さに負けないようご自愛ください。

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2008年8月11日 (月)

なぜ「頑張る」という言葉が嫌いなのか

えと、だいぶ前にも書いた事があると思うのだけれど、「頑張る」という言葉が嫌いです。

特に、自分に「頑張れ」とか「頑張って」とか言われると、腹が立ってしまう。

なんでなんでしょうね?

まぁ、確かに「変わり者」と言われればそれまでなのだけれど、いくらなんでも理由もなく、日本語でよく使われるこのフレーズを「嫌いだから嫌い」だとか、「生理的に嫌い」という言葉で片付けるのもなんなので、ちょっと考えてみました。

だいたい、どれだけ親密な相手であろうと、ある種の分野で一流の人たちに対して、「頑張れ」なんて言葉は普通、使わないですよね。

毎年毎年、コンスタントに素晴らしい成績を上げているイチローに「頑張れ」というのもちょっとおかしいし、世界的に有名な学者に対して「頑張ってください」なんて声をかけるということは、普通しない。

なるほど。

ということは、「頑張れ」という言葉をかける相手というのは、まだまだ一人前であると認知されておらず、さらにはまだまだ「頑張るべき要素が残されている」という前提があるわけですよね。

おおよそ、どの分野においても一流であると見なされている人たちは、等しくそれなりの積み重ねはしているわけである。

これに対して、例外はない。

私も研究に関して、プロ意識を持っているというのであれば、やるべきことをやるというのは当たり前の事であって、別段、論文を読むとか、書くとか、データを集めるとか、検証するとか、研究内容を学会で発表して来るとかいうことは、至極当然の事であって、それをやらない人間の方がどうかしているというか、問題があるということに他ならないわけである。

小学生ではないのだから、頑張っているということ自体は別に褒められるべき行為でもなんでもなくて、それはごくごく普通のありきたりのルーティーン以外の何者でもないのである。

結果が出ていないのであれば、結果が出るまで自分を追いつめてとことんまでやり抜くべきであって、頑張っているかどうかなんて、プロを評価する対象では全然ないわけである。

プロの結果というものは、競争も関わってくるし、当然、運や不測の事態によって大いに左右されるものだし、積み重ねてきたものが全く無駄になるという事も多々あるわけである。

であるからこそ、結果を出している人たちに対して尊敬する心も生まれてくるわけだし、それらを賞賛することにもつながってくるわけである。

それに対して、「頑張る」なんてことは、意思があれば万人に等しくできる容易な行為であって、ましてや人に対して「頑張れ」なんて発言をさせてしまうという事は、自分にできることをまだまだやっていない未熟者であるということを認めさせた事に等しく、プロとして恥じるべきことであるような気がするのである。

ふむ。

だいたい、頑張っているかどうかということ自体、自己評価以外の何者でもないわけだし、自己満足で済ませてしまっているということは、そのうち怠慢にもつながってくるわけである。

今までは「頑張れ」なんて言われてしまうと、「わざわざそんなことを言われなくてもやるべきことはやっている」と、ちょっと反論してしまいたくなる気分があったわけであるが、よくよく考えてみれば、人に「頑張れ」なんて言われてしまう程、自分が未成熟で取るに足りない存在に他ならないということがよく分かろうというものである。

向こう一年、なんかだとちょっと厳しいかもしれないが、なんとか二、三年の間に、人に間違っても「頑張れ」なんて言われない人間にならなければならないと切に感じた今日この頃である。

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2008年8月 9日 (土)

ふと思ふ

午前中に買い物から帰って来てテレビをつけると、ちょうど北京オリンピックの開会式をやっている。

そのまま1時間程視聴する。壮大で奇麗な開会式だったのではないかと思う。「どうしてこれだけのクォリティのものが演じられて、世界に誇れる古くて雄大な歴史を持っているのに、劣化コピーが横行しているのかね?」と憎まれ口の一つも叩いてやりたいくらいに完成度の高い演技だったかと思います。

中国は現在経済成長の真っただ中にあって、そしてそういう成長期にあった国々が抱えて来た様々な問題を、同様に、そしてより大きなスケールで抱えているので、北京オリンピックの成功は、中国政府に取ってはなみなみならぬ意味を持つイベントであるということは言を俟たないであろう。

まぁ、どうなるんでしょうね。

ところで、今日はSainsburyで、Taste the differenceというちょっと高級感のある食材シリーズの車エビ1パックが半額の600円で売ってあったのに、ちょっと心が惹かれちゃいました。

1人で食べるのには多過ぎるしな。かと言って、海老ばっかり食べたいわけでもないし。

最近、市街地にある韓国食材店で、日本のパン粉が置いてあるんだよな。

海老フライ定食なんかにしたらおいしそうだな。天つゆかタルタルソースでも作って。

という心の声と格闘してから、購入を諦める。

やっぱり、1人では多過ぎる。

さて、来月締め切りのproceedingsを書き上げたので、更正してからワインでも開けるべ。

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2008年8月 7日 (木)

つぶやく

夏のイギリスは陽が出ると暖かいのだが、曇りになると少々肌寒い。

時折晴れ間がのぞくものの、曇り空の広がる日中、私はいつも通りパソコンを開け、数本の束になった論文を机の横や下に置き、ぽつぽつと文字をタイピングしていく。

集中して考える必要がある時には、スリープモードにしてパソコンを閉じ、アップルマークについた汚れを拭き取ってから、近くにあるルーズリーフとボールペンを手に取って、数式やら構造やらを書き貯め、現象を表にまとめ、ありえる可能性を列挙し、その各々についてのストーリーを展開する。

できるだけ、個々のストーリーをディフェンドしていく方向で。

12時になると米をとぎ、固めにご飯が炊けるようにしておく。

二階の部屋から一階のキッチンを上り下りし、キッチンにある洋梨を無造作に水で洗ってから齧りつく。

再びパソコンを開け、1時まで作業をする。the purpose of this section is ~

炊きあがってからやや冷えてしまった御飯をスープに入れ、ちょっと煮込んでからリゾットに仕上げる。

1階の居間のテレビをつけ、BBCの昼のニュースを眺めながら、俄雨があるという情報を得る。

15分程度で昼食を済ませ、食器を洗い、再びパソコンを開ける。

論文をセクション毎に読み返し、似たような表現を別の表現に書き換える。

4時前になり、気分転換もかねて、徒歩15分の所にあるSommerfieldまで買い物に出かけ、リンゴを買って来る。帰路で、小雨が振り出したので、早足で家に辿り着くと、辺りはいきなり真っ白になり、強烈な雨が降り注ぎだす。

いつもは9時過ぎまで明るいのに、なんとなく日暮れになってしまったくらい暗いキッチンで、私はリンゴを洗い、ペティナイフを取り出す。

リンゴはそのまま齧りつくのが常なのだが、今日はなんとなく皮を剥きたくなったので、1コは皮を剥き、もう1コはウサギ型に切り、皿に載せる。

チョコレートにオレンジをミックスしているものはよく見かけるし、なかなかおいしいのだが、チョコとリンゴの組み合わせはあまりよくないような気がする。

最近、ふとした時に昔の事を思い出す事がよくある。

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2008年8月 6日 (水)

情報という価値

Googleマップは便利なので、よく利用させてもらっているのだけれど。

衛星写真を見るのも楽しいし、Google Earthと重ねて見るのもおもしろくて、それはそれでいいのです。

今時は、衛星写真でどこの国の状況も、空からだといくらでも分かるわけですよね。ある意味、隠しようがない。

それで、アメリカ版のGoogleマップに「ストリートビュー」という機能があったのですが、ご存知の方もいらっしゃるのではないかと思います。

これは地図上の青い線の部分をクリックすれば、その地域の写真がくっきりと分かるとかいう優れものなのです。

残念ながらシアトルはストリートビューの守備範囲に入っていなかったのだけれど、ニューヨークの通りなんかを見て、ちょっと感慨に浸るというか、懐かしい気分になっていたのです。

それがですね。

日本版のGoogleマップにも、とうとうストリートビューが導入されちゃいました。

あらら。

いろんな地域の写真が網羅されてあるので、ついつい懐かしい地域を探索して楽しんでいたのだけれど、でも、これってかなり「やばい」ですよね。

国家機密が筒抜けなので、テロリストが計画を立てやすくなるし、犯罪も容易になってしまう。

しかも、今後、国と国が戦争するようなことがあれば、局地戦というか、要人のいる場所をピンポイントでミサイルや無人装置を使って攻撃するのが主流になるであろうと言われているというのに、こんなにも情報をおおっぴらに広げるのはいかがなものかと思う。

セキュリティ上、大きな問題を今後は抱えていくことになりそうである。

何度か述べたが、私は憲法9条にも賛成であるし、自衛隊と日米安保にも賛成の折衷案の立場を取っている。

この微妙なバランスは、半世紀以上に渡って機能してきたが、いつどこで戦争が起こるかという問題は誰にも分からない。

韓国の仮想敵国は日本であるし、実際、近隣の国といつ戦争が起こるかというリスクは常に考えておかないといけない。国家間の戦争ではなくても、大量に武装難民が押し寄せて来る可能性になれば、ほとんど無視できないものがある。

これらの国が日本を攻める際のシミュレーションを行うに当って、この情報はあまりにも大きすぎるのではないか。

さっさとこのサービスは停止した方がいいと思うのだけれど。(もう遅いかもしれんが)

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2008年8月 3日 (日)

連帯責任

群馬県代表の桐生第一高校の野球部員が、強制わいせつで逮捕されたのを受け、桐生第一高校の甲子園出場が危ぶまれたのであるが、桐生第一高校は出場辞退をせず、高野連も出場を認めたようである。

うーむ。

正直に申し上げて、これは非常に難しい問題である。

基本的に、学生スポーツ、特に高校野球では連帯責任制という旧態依然たる制度を重んじる伝統がある。

これは確かにナンセンスであり、バカらしいと思う。

特にベンチ入りメンバーではない一選手の過失により、激烈な地方大会を勝ち抜いたレギュラーおよび、ベンチ入りした選手たちの努力が水泡に帰すわけであるからその影響は計り知れない。

出場辞退に追い込むような犯罪をした選手は当然、今後学校に在籍し続けることは不可能であろうし、今後、更正することがおおよそ不可能であると思える重荷を背負って人生を生きていくことになる。

また、自分とは関係のない所で起こった問題により、甲子園出場という機会を失われてしまう部員の感情を思えば、出場辞退という処分はあまりにも重い。

加害者に更正の機会を与えず、ほぼ無関係であった周囲の人間を奈落の底に沈める連帯責任という制度ではあるが、それはそれなりに効用のある制度でもあるのである。

日本史の資料が残る範囲において、古くは大宝律令の頃から、連帯責任制度が存在していたという事が知られる。

これは為政者が民衆を管理するに当って、非常に効率のいい制度であったわけである。

何せ、民衆の一人一人に対する管理なんてとても限られた人数でできるわけではないわけであるから、民衆同士でお互いに管理させる制度を整えることによって、脱走や脱税といったあり得るリスクを最大限に抑えることができたわけであるから、その制度の効用は広く知られ、現在にも残されたわけである。

この制度は、教育制度にも効果的であるという面があるということは言を俟たない。

10代の頃は、いろいろと過激にやりすぎてしまうこともあるだろうし、法律違反の一つや二つもしてしまう人の割合も多いであろう。若いのだから、ある程度は目をつむる必要性が、社会にもあるであろう。

それに甲子園球児というのは、非常にもてはやされるわけだし、いろいろと調子に乗る事が多々あるわけである。

酒や煙草といったちょっとした背伸びに始まって、お金がないということから、軽犯罪を行うこともある。

しかも、彼らの体力は目を見張るものがあるのである。

10代後半だと、男性の性欲が一番強い時期でもあるわけであるから、けっこうえげつない事もやっているわけである。私の知っている範囲でも、想像を絶するようなことをやっていることは多い。

こういったある種、暴れん坊の気質を持っている子供たちを押さえつけるのに、連帯責任という制度はある程度の効力を発揮している。

何せ、喫煙や飲酒が発覚しただけで出場辞退、対外試合禁止処分というきつい仕置きが待っているのである。私も、兵庫のK戸広陵という強豪高校にいた知り合いが、部員の喫煙により甲子園出場を辞退させられた苦い思いを味わわされたことがあるのを知っているので、そのことにひどく同情したことがある。一方で、この不祥事以来、スポーツ推薦で取る学生の数は減ったものの、随分とクラブ活動が「しまった」という話も聞いている。

端的に申し上げて、道理や理屈が通用しないという人たちが、どの年代にも一定数存在するのは事実であると思う。彼らに必要なのは、ある種の「強要」であるのかもしれない。だが、一方で、その強要による「わり」を受ける人たちも一方では存在する。

高校野球が教育の一環で行われているのであれば、連帯責任によって非行行為をある程度制御できているのは事実であるし、一方で、若さ故の過ちを一生の傷にし、また無関係の人たちを奈落の底に引き落とすリスクが存在するというのも事実である。

どっちが正しいのかは、私には分からない。

ただ、はっきりさせて欲しいのは、今回の桐生第一の事件を受けて、高野連が出場を容認するのであれば、連帯責任の必要が今後はどこの高校にもないということを明示する義務があると思う。

ここ最近では、例えば、PL学園、明徳義塾、駒大苫小牧といった高校が部員の飲酒、喫煙、万引き、先輩による後輩への暴力行為が発端で、出場辞退に追い込まれているわけであるが、仮に高野連が今回の件で連帯責任制度の撤廃を目指しているということを公言しなければ、単純に強制わいせつという行為が、これら飲酒、喫煙といったおおよそ被害者が存在しないと思われるような軽犯罪より罪が軽く、問題視するレベルの問題ではないという立場であるという誤解を招きかねない。(真理だったら、すまない)

必要な事は、今回の出場容認のきっかけが何であったかを明示的にすることであろう。さもなければ、理不尽な処置により夢を摘まれてしまう高校生が今後、多発することになってしまう。

高野連は連帯責任制を撤廃するのか否か、その態度を示す必要性は今現在そこにあるのだと思う。

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2008年7月25日 (金)

自分の見せ方について

突然だが、自分の顔があまり好きではない。(身長も好きではないが)

一重瞼だし、団子鼻だし、耳も小さいし、顎はエラが張り気味だし。

パーツ的には、最悪な感じですよね。福笑いをしたらとんでもないことになりそうだ。

しかしながら、どこかで妙な自負心みたいなものもあってですね。

「過信し過ぎ」と言われてしまいそうですが、自称、顔面偏差値は「51から54」です。

微妙に50を越えているというところに、自己愛が感じられるものであるなぁとひしひしと思う。

ダルビッシュ有やブラッド・ピットなどのような超絶イケメンや、ジョニー・デップのような雰囲気イケメンだと、それこそ髪型なんかに特に気を配らなくても十分かっこいいのだけれど、私のような凡人は違います。

こういう中途半端なお顔の人たちにとって、髪型というのは大切です。

髪型でずいぶんと雰囲気を変えられて、ぱっと見の顔面偏差値だけでも向上させることができる。これは女性の化粧と変わらない。

というわけで、今日は髪を切ることにしたのです。

ぶきっちょなイギリスの床屋に任せるのは嫌なので、いつも自分で切っています。

たまには最近の日本の流行を調べてみようかと思って、ネットで調べてみたのだけれど、最近はあれですね。シャギーとか入れ過ぎで、なんかちょっと気持ち悪いですね。メンズヘアカタログ

まぁ、違和感を感じているという時点で、確実に若い感性から取り残されているということが言えるわけですが。

しかしながら、かれこれもう13年ほど、私はシャギーを入れて、襟足を伸ばすという部分は買えていないのだけれど(当時はけっこう斬新な髪型だったはずだが、最近は定着してきてますね)、多少は変化を加えてみたいですよね。

思い切って、ナウなヤングに迎合してみようかと思ったのだけれど、ソフトパーマは当てられないし、セットがめんどくさそうだし、それにちょっと長い髪型は風の強い日の多いイギリスではちょっとしんどい。

というわけで、短めの髪型を探したところ。

ありましたぜ。トラッドショート

いいですね。大人の魅力が醸し出されているような感じで。それにモデルさんが、前園真聖みたいでよい。ちょうど一昔前の男前って顔をしている。「いじめ、かっこわるいよ」

なんか、「(私が)よくやってる髪型と変わらんやん」という突っ込みが入りそうだけど、まぁ、いいのだ。チョップカットで毛先を軽くしているということで、これだと私にもできそうだ。もうすぐ誕生日だし、今年から来年にかけては、「大人の色気」をテーマに生きていくぞ。俺は。

というわけで、セルフカット。

写真通りではないですが、けっこううまくいったかと思います。髪が短くなって、ちょっと若返った感じもするが、気のせいだろ。きっと。うん。

それによく見ると(髪型だけだが)、冷静と情熱のあいだの竹野内豊の髪型にも通じるものがある。彼がこの映画に出演していた頃と、今の私の年齢はほぼ同じである。きっと大人の魅力に溢れているはずだ。

">参考動画

あわよくば、ケリー・チャンのような女の子をつかまえることも可能かもしれない。ヨークに修復士という仕事はあるし、ドゥオーモの代わりにヨークミンスターで待ち合わせる約束をしてみるのもいいかもしれない。

夢は膨らむばかりである。

大学で欧米人の女の子たちに会えば、「ちょっとかっこよくなったね。(アジア人もいいかも)」という言葉が聞けるかもしれないし、年下の日本人さんたちに会えば、きっと大人の色気にメロメロして、口を半開きにさせて目をトローンとさせて話をするに違いない。

うん、きっとそうだ。

そんな幻想を抱いて、午後、キャンパスに向かいました。

図書館でチェックしなければいけない論文を2本読み、オフィスに行ってから着替える。今はスポーツセンターの改修工事で、changing roomが小さくて汚いのが1つしかないので、オフィスで着替えるようにしているのだ。

白のスポーツソックスを履き、白のランニングシューズを履き、短パン、T-シャツを着て準備OK。

というわけで、スポーツセンターに向かって、歩いている途中。

ガラス戸と鏡に映った自分の姿を見て、一言。

・・・

ちゅ、中学生??

斯くして、大人の階段を踏み外してしまった涼しい夏の夕方だったのでした。

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2008年7月15日 (火)

誰に謝ってるんだろ?

「謝罪」:罪やあやまちをわびること。「被害者に謝罪する」-引用 広辞苑

なんか岐阜の短大生たちが、イタリアのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に落書きをした件が問題になっているそうである。

同じ場所で落書きをしてしまった、水戸市の私立高校の野球部監督さんにいたっては、なんとクビになってしまったそうである。

いやはや。

岐阜の短大生は、代表者がわざわざイタリアまで謝罪に出向いて、現在、学校での処分を待っているのだそうな。

この件に関して、どうも不可解というか、喉の奥に何かがからまる感覚を覚えるのは私だけなのであろうか。

そりゃ、20歳を過ぎた分別のある大人が遺跡に落書きをするというのは軽率な行為だし、多少のおしかりを受けるのも仕方がないのかもしれない。たとえ、他にたくさん落書きをしている人がいたとしても、落書きという行為そのものは褒められたことではない。

しかしだね。

この件に関しては、いったい、「誰に」「なぜ」謝罪しているのかという部分が全く分からないのである。

全く分からない。実に非論理的だ。

先方の大聖堂は、謝罪を受け入れてくださっている。

「もう、いいですよ。今後、気をつけてくださいね」とはっきりと公言されているわけである。

では、それでいいのではないか?

謝罪というのは、ある種の利害関係が生じた当事者同士で行われる行為であって、別に第三者が口を挟んでとやかく言うことではなかろう。

それなのに、なぜ、彼らはクビになり、または今後、短大を退学処分にされるかもしれないという状況に置かれているのであろうか。

私はここに日本人の民族的奇習を感じてしまう。深読みしすぎているきらいはあるが、さりとて誤りではないのではないかと思われる。

彼らの所属組織が恐れているのは、自分たちの面子である。

謝罪という行為によって、当事者間の仲が修復されるということに関しては、全く関心がないと申し上げてもよかろう。

所属組織にとっては、自分たちの面子が汚れたということのみが問題になっているのであって、先方が謝罪を受け入れたかどうかということは全く気にならないのである。

気にしているのは、むしろ日本国内の世論である。

イタリアで起きた事件(?)なのに、日本国内で問題になるということ自体はなはだおかしいのであるが、とにかく、日本国内の人たちの反応が気になるという一点に関心が集中していると言って過言ではない。

特に高校野球という旧態依然たる組織が燦然と存在している「ムラ」においては、面子を汚すということは許すべからざる行為なのである。

そこでは、指導者たるものいかなる過ちも犯してはならないという厳しい不文律があるのである。これを破った監督は、問答無用で解雇の憂き目に遭うわけである。

彼らが気にしているのは面子だけである。実際、この監督が甚大なる被害を大聖堂に与えたとはとうてい思えないし、多少の過ちを人は犯すものであるという余裕を持つ事は許されない。

また、解雇することによって利益を得る人が誰もいないという事もポイントである。大会を間近に控えた部員のことたちなど、上層部の人間にとっては問題ではないのである。はっきり言って、「知ったこっちゃない」のであろう。

岐阜の短大生に関しても同じである。彼女たちが退学処分を受けたところで、誰も特はしないし、大聖堂の人たちもそんなことは望んではいないであろう。所詮、短大という組織の自己満足でしかないのである。

むしろ、教会に身を置く立場の人たちからすれば、罪(というほどのものでもないような気がするが)を犯した人を許す事の方を望んでいるであろうということは想像に難くないし、また、短大という教育組織において、学生が過ちを犯すものであるという心の余裕を持たせる事ができないということは致命的な欠陥ですらあるように思うのだが。

自分たちが清廉潔白である事をアピールするために退学処分。それもいいのかもしれないが、教育的措置ということを考えれば、彼女たちにちょっとだけお灸を据える程度に止めておく方が賢明なような気が私にはする。

落書きというだけで、一生を棒に振るだけのリスクを取らせる必要があるとは私にはどうしても思えないのである。

海外から多少傲慢な物言いをしているのかもしれないが、どうも最近の日本は揚げ足取りというか、みんなで足の引っ張り合いをして、弱者を叩き上げて憂さ晴らしをしているような余裕のなさが伺えるのが気になる。

どうせ叩くなら、今の経済界や政界の方を叩く方が筋だと思うのだが。

なんとなく「弱気をくじき、強気を助ける」社会に真っ向から向かっているような気がしてしまう。

せめて、建前だけでも言えるようになればいいのだけれど。

ちなみにどっちかというと、今は大分の教員の不正採用の方が気になるのだけれど、こっちは政治家も絡んでいるみたいだし、そのうちうやむやになって終わりになるんでしょうね。

日本は好きなので、息苦しい社会になっていくのを見るのは嫌なもんだな。

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2008年7月14日 (月)

会話の内容

突然だが、私が女性と話をする際に心がけていることがある。

それは、ずばり。

野球と言語学の話はしない。

ということ。

経験則だが、統計的にこの種の2つの話題に興味を示してくれる女性は圧倒的に少ない。

興味のない話を長々と聞かされることほど、苦痛な事もないであろう。それに、話を避けるわけにはいかないとかいうシチュエーションだとか、相手だとなおさらである。

こういうのは、自分がネイルアートだとか、血液型占いだとか霊感の話を長々とされる状況を思い浮かべればよく分かる。どれほど魅力的な女性であっても、この種の会話に耳を貸すこと程、苦痛に感じられることはない。そりゃ、多少ならかまわないけれど。

知り合って間もない感じだと、よく「スポーツはされていたんですか?」とか、「専門は何をやられているんですか?」とかいった質問をよく受ける。

こういうものはあくまで会話のきっかけにしか過ぎないので、自分の返しはなるべく端的にポイントをまとめ、できるだけ、相手が自分の話をしやすい方向に話題を持っていった方が無難である。

であるから、これら2つに対する返答はきっちりと用意されてある。

前者に対しては、「大学まで野球やってましたよ」の一言、後者に対しては、「人間の言語能力に関する理論を作っています(「言語学」だけじゃ、なんのこっちゃ分からないという人が多いので)」の一言で済ますようにしている。

一応、ちょっと長めの5分バージョンもあるし、20分バージョンもあるし、この2つの話題に関しては体力の続く限り話すことができるのであるが、そんなことをされれば、ある種の精神的拷問でもあると思われるので、そんなことはやんない。

というわけで、それなりに気配りはしているつもりなのである。

でも、たまにこの2つの話題にくらいついてきてくれる人もいるんですよね。そういう希有な機会の時はおもいっきり喋ってますけど。

話に没頭すると、真剣になっちゃうのだけれど、そういう様子を「かわいい」と形容されることがよくあります。

女性の「かわいい」という基準は、やっぱりよく分からないのだけれど、まぁ、いいか。

まぁ、話題はなるべく無難に守備範囲を広くしておくのがいいんでしょうね。こういう営業はホストに通じるものがあるというか、会社の営業にも通じるというか。

「もてなす」という部分においては、あんまり大差ないのかもしれないですね。ということは、よく思います。

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2008年7月12日 (土)

人間、失格??

自己評価と他人の評価が違うのはよくあることで。

私、個人としては、自分に対して全く自信がなくて、多少オドオドしながら毎日を生きているつもりなのだけれど、他人様の評価はそうでもないらしい。

まぁ、それはさておき。

ところで、最近、多少、業界で知られる機会が多かったせいでしょうか、「ラブレター」をもらうことがけっこうあります。

何か意見を聞かせてくれとか、論文送ってくれとか、論文読んでくれとかそういうこと。

私自身、自分にそんな実力も何もないと思っているので、正直、戸惑ってしまうのだけれど、まぁなんとかできることをやったりしています。

それと、業界の有名人だとか、個人的に尊敬している人たちとアポを取ってもらったり、メールをもらったり、世話をしてもらったりだとかいったことをしてもらうと、めちゃくちゃ恐縮してしまう。いっそ、ぞんざいに扱ってほしいくらいなのである。

「いや、あの、その、何ていうか、あ、だからetc」って感じです。正直、

「生きててすみません」

って気分になります。全てを投げ出して逃げ出せたら、どんなに気楽になれるだろうかと考えないでもない。

しかしながら、人様の好意を無にするわけにもいかないし、自分にもできることはあるだろうと、いろいろとあくせくやっております。

まぁ、期待に添えるだけの実力を身につけろってことですよね。この夏は気が狂うくらい勉強します。はい。

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2008年6月28日 (土)

ある作業が

一段落ついたので、ちょっと頭を和らげるためにバカっぽいサイトを覗いていたのです。


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B30

ついつい勢いで貼ってしまった。反省はしていない。

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2008年6月26日 (木)

びしっと決めよう

日本だと普段着から気を使っている人が多くて、まぁ、よれよれのT-シャツに破けたズボンだなんて格好をすると白眼視されてしまうことがある。

でも、アメリカやイギリスの大学なんかだと、学生だけではなく先生もそういう適当な格好をしていることが多いです。半パンにT-シャツというのもありきたり。

普段の服装って、別にそれでいいと思うんですよ。私も、今は破けたジーンズなんかを履いていますし。(おしゃれな感じじゃなくて、普通に破けた)

サイズの合うズボンがあればいいのですが、何せ私はこっちのサイズだとウェストが細すぎて(その割に太ももが太い)、今までにPaul Smithのスリムフィットジーンズの1着しか買えていないんですね。他の店は、軒並みアウト。

イギリス由来の店もダメだし、リーバイスやGAP、カルバンクラインに行っても全然ダメでした。

あと、こっちではズボンの丈を合わさないで履くのがわりとスタンダードで、ズボンの端をぐちゃぐちゃに引きずって、靴の裏に回り込んでいるような履き方をしている人も多いのです。

さすがにこういう履き方は真似ができない。

日本に帰ったらズボンを買おう。

それと夏の服ですが、たまにちょっとだけおしゃれをする時にはバーバリーのポロシャツだとかPaul Smithのシャツだとかを着ていますが、基本的にこれらはアウトレットのセール価格。

10ポンドから20ポンドという値段で買っています。

後は、引退で安く売っていることが多くなったイプサンローランだとか、たまに凄いセールをやっているリーボックのシャツなんかを着ています。

これらの値段は8ポンド前後。

というわけで、普段着はそれほど気を配っているわけでもないのだけれど(金銭的に余裕があれば配りたいですけど)、やっぱりフォーマルな服装は妥協したくないですね。

服装に気を使う人と使わない人っていると思うのだけれど、だいたい、人間は社会的生物であって、宗教的儀礼に際しては、場をわきまえた服装をするということがあらゆる社会で共通している慣習なのである。

冠婚葬祭にまさか半パン、T-シャツで参加するわけにはいかない。

門出の儀式に際しては、それなりの儀礼というものがあるわけだし、社交という場において、人と交わる時にしっかりと服を着こなす技術は、生きて行く上で必要不可欠な能力の一つであると思う。

それは、機転が利くとか、知識があるとか、ちゃんとした言葉遣いが出来るとか、食事のマナーが徹底されているとかそういうことと同義である。

ビジネスチャンスを得る機会にもなるし、多くの人の信頼を得るということにもつながる。

世俗的だが、もてるかどうかという問題にも関わってくると思われる。フォーマルな場所で、フォーマルな格好を決められるかどうかという部分は、特に男性だとチェックされていることが多いのではないかと思う。

音楽や演劇をエスコートする際にも、フォーマルに決められる人かどうかという部分は、評価基準として大きな課題にもなるであろう。

そういうわけで、一人の自立した人間として振る舞うためには、「決める」格好ができなければいけないと思う。20も半ばを過ぎて、スーツに「着られている」ような格好しかできない人に仕事は任せられないような気がする。特にスーツは繊維の編み具合で、いいスーツかいいスーツでないかというのは、分かる人にはすぐに分かるのである。(私にも分かる。けっこう簡単なコツみたいなのがあります)

大人というのは、スーツを着て、雰囲気が出せるかどうかにかかっていると言っても過言ではない。

まぁ、アカデミック業界ではとことんまで服装に無頓着な人の方が多いですけど。

個人的にスーツを着る時の拘りとして、「逆三角形の細身の筋肉質の体型を保つ」というポリシーがあります。スーツの形は、肩幅が広いようにできているので、逆三角形でほどほどに筋肉がついているのが一番格好がつくのではないかというのが持論です。

細身が好きかどうかというのは、単なる好みの問題かと思いますが、すらっとした感じがいいのではないかと思います。シンプルな基本スタイルが似合うかどうかというのが重要。

服や小物の「モノ」がいいと、ついつい「着られる」「つけられる」という感じになってしまいますが、雰囲気を醸し出すためには、土台をしっかりとしておかないといけないと思う。

まぁ、着る人がよければA山やH山のスーツでもそれなりにいいんでしょうが、個人的には妥協したくないですよね。それは、自分自身に対する妥協でもあるし、冠婚葬祭の主催者や、エスコートする相手に対する礼儀でもあると思う。

儀礼に際しては、適切な礼儀というものが存在すると私は思う。

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2008年6月25日 (水)

独り言

何事にも惑わされなくて、トラブルもなくてうまくいくことがある日がある。

そういう日は、特に何かがあったとか、そういうことには気付かないのだけれど、普通に平穏無事に一日が終わるということは、それはそれでラッキーなことなのだと思う。

思い通りに行かなかったり、自分の無力に気付いてため息が出ることもあると思うのだけれど、いつも思い通りにいっていると、思い通りにいくということの良さに気付くことができないんじゃないかな。

例えば、身体器官なんて、それこそ快調に動いていたら存在そのものにすら気付かないということもあるわけだけれど、身体のどこかを悪くして、それで初めて快調に動く身体器官のありがたみに気付けるということもあるわけだし。

だから、「うまくいかない」という事実を体験することで、日頃うまくやっている自分を評価してあげることもできるだろうし、そういった時に力になってくれる人がいると、そういう人の存在をありがたいと思うきっかけにもなるわけだし。

自分を大切にしてくれる他人がいるという事実を認識する機会が得られるということは、とてもありがたい体験でもあるのではないかと思う。

だから、そういうネガティブな感情を抱くということは、周囲と自分を見つめ直すいい機会でもあるので、私は別に悪いことでもないと思うな。

それに、日頃、苦悩して、どうやったらうまくいくのかなと日々格闘する心理を持っているということは、自分が前に進もうとしている証拠でもあるので、苦悩するということは前進するということに等しいのではないかと思う。

まぁ、前に進むということだけがいいわけでもないし、時には後ろを見て、ちょっと進むことを止めてみていい時期ってあるんじゃないかって気がする。

自分が周囲の人間に迷惑をかけることってのももちろんあるだろうし、でも逆にいい刺激を与えられることもあるんだから、それはそれでお互い様ってことなんだろう。人を傷つけられる人間じゃなければ、逆に人に優しくしてあげられないものだとも思うし。

それに、時に、人によっては凶器みたいな笑顔ができる人もいて、そういう顔が見れるだけで周りの人がなんでもできる気になるとか、幸せになれるとか、そういうこともあるもんなんですよね。実際。

人に甘えると、「悪いな」って思うこともあるかもしれないけれど、人に甘えられることで、自分の価値観が認識できて、そういうことをありがたく思う人もいるので、周囲に甘えられる人がいるということは自分にとってもありがたい話なのだし、周囲の人にとってもありがたい話であることは多い。

落ち込んだ時に、甘えられるだけ甘えておいて、それで元気になった時に、たくさん元気をあげられるのなら、それはそれでとてもいいことなのだと思う。

だいたい、人の心配や悩みのタネってのは、後から考えると、もしくは客観的に考えると「なんてことないか」って思うことが多いもんだしね。抱え込んで、一人で考えていると、話がややこしくなるだけってことは多いので、あんまり考えなくてもいいような気がしますけど。

そういうわけで、そんなに気を張って頑張らないで、もうちょっと気楽にやってもいいんじゃないかな。

えと、単なる独り言です。

6月ももう終わりか。早いな。

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2008年6月16日 (月)

叶わぬ思い

えと、今年の私はろくなことがありません。

まず、今年いっぱいは論文書きに集中することが宿命づけられております。

なんせ、将来がかかっているわけだし。

というわけで、ほとんど一日中、パソコンと論文と向き合う毎日を過ごさざるを得ない訳です。個人的には、懲役1年と呼んでいます。

そんなこんなで、人間的な生活、文化的で最低限度の生活を営む権利を自分で剥奪してしまったので、せめて、ちょっとは希望の持てることがあってもいいのではないか、そんな風に思うことが多々あるわけです。

しかしですね。

ありがたい(皮肉です。もちろん)ことに、野球もサッカーも私が応援するチームはことごとく低迷する一方なのです。

去年はチーム打率リーグ3位で、地区2位。待望の先発投手エリック・ベダードにカルロス・シルバを獲得して、もしかしてもしかすると、プレーオフどころか優勝も狙えるのではないか、そんな期待を持っていたシアトル・マリナーズですが、ただいま最下位を独走中です。

他の追随を許しておりません。はっきり言って、もうジ・エンドでしょう。今シーズンはおしまい。

イチローも全然調子が上がってこないし。

そんなこんなで希望の「き」の字も見えてこないマリナーズですが、それでも期待しながらニュースを見ています。「もしかして、もしかすると」という淡い期待を持って。

去年のロッキーズのように急激に巻き返して、奇跡のワールドシリーズ進出。そんなことはないだろうか、と期待しながら。

しかし、負けてばっかりです。

期待を持っている自分がバカみたいです。「叶わない片思い」という言葉が実にぴったりと一致します。

それで、ターゲットを変えて、ですね。

せめてヤンキースを応援しようと思ったら、贔屓のアレックス・ロドリゲス選手が久々の故障者リスト入り。

ヤンキースもがたがた。

まぁ、最近、ロドリゲスが復帰して、それにつられて息を吹き返してきてますけど。

それとナリーグの贔屓のチームに、アトランタ・ブレーブスというチームがあるのですが。

大黒柱のジョン・スモルツ投手が肩を手術。41歳という年齢を考えると引退の可能性も高い。

打率4割を越え、首位打者独走中のチッパー・ジョーンズ選手が怪我。(最近、復帰しましたけど)

というわけで、ブレーブスもイマイチ。同一地区のフィリーズが強いので、もうちょっと頑張ってもらわないと。

それと、ただいまお盛んなユーロ2008。

地元ということで贔屓のイングランドは予選落ち。

個人的に好きなイタリアチームもがけっぷち。(まぁ、オランダが強過ぎるんですけど)

まぁ、今大会で一番の贔屓のポルトガルがさっさと予選通過を決めたので、最近、この「疫病神」の気はなくなりつつあるのかもしれないけれど。

ま、野球もサッカーも白熱できない状態にあるのは、「研究に集中せい」という神様のお告げなのだと思ってやらせていただきますけど。

でも、いい加減、自分のキャパを越えてきたような気がするんですけどね。業界関係者にはそのうち明らかになるでしょうが、この夏だけで学会発表3つって。

はは( ̄▽ ̄;)

死ぬしかないな、俺。by Dio

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2008年6月12日 (木)

犯罪の抑止について

秋葉原で起こった無差別殺人事件のニュースが、かなり取りざたされているようである。

BBCでも、日本のニュース映像を使用して、現地中継が行われていた。恐らく他の国でも何らかの放送はあったのではないかと思われる。

「無差別殺人」というと、やっぱりワケが分からないという印象がまずあり、よく考えてみてもやっぱり「よく分からない」という結論に至ってしまう。

まず、事件が起きた原因についてだが、やはり「社会に原因がある」という論は当らずとも遠からずなのであろう。

勝ち組・負け組論争に代表されるように、現在の日本では格差社会というものが取りざたされており、格差というものが存在するということが事実であると認識されている。

実際、この加害者も自分自身を「負け組」と位置づけ、動機の原因として「勝ち組は皆、死ねばいいと思った」と供述しているという。

事件の背景や分析については、別にこんなところを見なくても、いろいろなところで議論されているようなので、私はちょっと視点を変えた部分について考察してみたい。

というわけで、加害者が事件を起こした動機については「知らない」ということにしておく。

どうせ、いろいろ考えてもやっぱり「分からない」という結論に至るのは目に見えているのであるから、別によかろう。

問題の一つは、社会的立場や周囲の環境を考慮して、無差別殺人を実行に移そうと考えた時に、加害者がそれを実行に移す勇気が持てるかどうかという部分であると思う。

単刀直入に言えば、自己を「負け組」と位置づけている人間に取っては、失うものがない、もしくは失ってもたいして貴重な物ではないという認識があるからこそ、突拍子もない行動を遂行することができたのだという一点に尽きる。

自分の中で起きたどうしようもない衝動を抑えるストッパーが存在していなかったわけである。

どうして、そういう認識になったのかと言えば、加害者が自己を負け組であると認識し、今後も自分が他人に理解されることはないだろうし、受け入れられることもないだろうし、それに今後、自分という人間に等しい見返りを得ることはできないであろうという確信があったからに他ならない。

その不満の原因は、自分に配分されるべき社会的リソースが不当に収奪されているという被害者意識に他ならない。

社会構造上、自己を負け組であると認識している人たちに浮上のきっかけが与えられない以上、彼の犯罪に社会が加担したという考えには一理あるようにも思う。

問題は、彼ら自己を負け組であると認識している人たちにどういった希望を持てるように社会が動けるのかという部分に注目することであると思う。

そのためには、「流動的で、誰にでも平等に競争に参加できるチャンスを」と声高に叫ぶ人たちがいるかもしれない。

しかしながら、そういった機会平等主義という部分には、さらなる負け組を量産する以外の結果が私には見えない。

むしろ、社会的リソースを平等に分け、機会を平等にした上での結果が「負け」ということになれば、負け組であると自己認識している人たちの自尊心を根本から奪い、さらなる希望を持つ機会を収奪するだけに他ならないような気がして仕方がないのである。

こういった主張には、自分に適当な社会的リソースがあれば、勝ち組にのし上がれるはずだという根拠のない希望的観測に支えられている。

誰も、自分が予期せぬ事故に遭い、自分が能力を発揮できないかもしれないというリスクを考えることができない。

誰も、自分の身内に不幸があり、能力を発揮する機会がなくなるかもしれないというリスクを考えることができない。

誰も、自分の能力は他者のそれに比べて劣っているかもしれないと想像することができない。

だいたい、今の日本はなんだかんだで、まだまだ、所得水準が低い状況にあっても浮上のチャンスをつかめる社会であると言って差し支えないと思われるので、そういった競争原理を煽っても、百害あって一利なしであるような気がして仕方がない。

そもそもの勝ち組の定義としても、何をもって、他の人間と優劣を決めているのかが分からない以上、非常に世俗的で本能的な部分に比較基準が定められているような気がして、個人的にも全く興味がわかない。

一位になれる基準は何なのであろうか?

どんな仕事をしてもいいから、とにかくお金を稼ぐことが正義だと言われ、男女共、自分の尊厳すら売ることを厭わないような風潮に私は賛同することはできない。

男女共、異性経験の数が多い程、「モテる」という証明になり、オスとして、もしくはメスとして優秀と見なされる。

学歴社会などというものの、偏差値が高いという一点のみが正しい基準とされ、東大か京大の医学部に入ることこそが最高峰であるともてはやされる。

私個人としては、こういった風潮に、「だから何?」という姿勢を只管貫き通しているのであるが、もっと「だから何?」と声高に言える人たちが出て来てもいいのではないかと思う。

万人が賛成する基準なんてないのだから、自分と、後はこの人(たち)に認めてもらいたいなという人たちに評価されることができればそれでいいのではあるまいか。

人間が人に評価されたいという社会生物であるという事実から目を背けるつもりはないが、常に他者の評価に自分を縛り付けることで得られるメリットがないというのであれば、そういう視点を捨てる度胸も必要だと思うし、捨てることが評価される風潮があってもよいのではないかと思われる。

「身の程を知る」と言えば、ちょっと聞こえが悪いのだが、自分にできることを正しく認識し、自分の能力を最大限に発揮することができる人こそが精神的安定を保てるのではないかと思う。

人生を生きて行くうちに、いろいろと壁に当たり、乗り越えられる壁と乗り越えられない壁をある程度経験して、「ま、こんなもんか」と、悪く言えば見切りをつけることは、決してネガティブなことではないと私は考える。

つまるところ、格差なるものはこれまでも存在し、これからも存在し続けるのであろうが、そういったものを過度に取り上げ、過度に評価せず、過度に問題視しないということは生き方の指針として重要なことであろう。

むしろ、自分にどんな利点があり、どんな貴重な物を所有しているのかと認識させることが、犯罪抑止の鍵の一つに他ならないのだと思う。「失う物がない」と認識する人たちが増える社会は、そのまま犯罪の増加につながるわけであるから、これは偏に自分の身を守る共同体の知恵とも言うべきものなのではあるまいか。

これが一つ。

もう一つは、加害者に対する刑罰について。

被害者の気持ちを鑑み、状況を考慮すれば、極刑は免れないと思われるのだが、なぜ刑罰が行われるのかという重要な部分において、昨今の司法は決定的な視点を欠いているように思えて他ならない。

聞こえて来るニュースから判断するに、加害者が更正できるかという部分が強調されているようである。

これはこれで一理あるのかもしれない。

しかし、「被害者の気持ちになって」、「反省して」という文言が使用される傾向があるが、こういった言葉には恐ろしく説得力がないということには気付いた方がいいのではないかと思う。

なぜなら、人というものは、他人のことについては恐ろしい程に想像力が働かないことが多い生き物だからである。(かといって、他の生き物がそうだというわけでもないと思うけど)

司法、つまり国家に人を裁く権利を与えているのは、国家というものが恐怖・畏怖の対象であり、抗うことができないという道理があるからである。

日本政府の決定に逆らえる国民なんていないわけである。逮捕令状が下っても、それを無効にすることはできない。

そういった恐怖を与えることができるのは、国家が生殺与奪の権限を握っているからである。

そういった権力を畏怖するからこそ、ある種の治安は守られ、人の財産、生命を奪おうという発想を抑止することができるわけである。現代における国家は、ちょうど中世ヨーロッパにおける教会のような役割をしているのだとも言えるのかもしれない。

神に対する畏怖が国家権力に対する畏怖に変わったと置き換えればよかろう。

こういった畏怖が効果的に機能するためには、生殺与奪を決定されることが加害者に取って望ましくない状態でなければならない。

死刑を望む加害者に、極刑をちらつかせても効力はない。むしろ、極刑が効力を持つためには、死刑を望む被害者に、死刑を望ませない心理状態におくことが非常に効果的なのではないかと思う。

別に死刑を回避しろと言っているわけではない。死刑を望む加害者に死刑を執行するのではなく、死刑を望む被害者に、死刑を望ませないようにし、その上で厳罰に望む姿勢を貫くことによって、国家に対する畏怖心が生まれるのではないかと思う。

そういう姿勢を貫く司法によって、さらなる犯罪の抑止力を高めることができるのではあるまいか。

少なくとも、加害者はオタク、きもい、最低、人間じゃないと思考回路を停止することからは、さらなるリスクを回避することはできないように思う。

逃れられる危険を予期し、回避すること、また、格差社会を強調することで得られることと失うものの比較を真剣に考慮すること。

そういう視点があってもよいのではあるまいか。

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2008年6月10日 (火)

へたなしゃしん

えと、チーズケーキのメインの型に入りきらなかった分を、別の小さな型に入れて焼いた分があって、それを自分で食べていたのですが。

写真なんですけど、ぼやけてますね。すんません。近過ぎたか。(食べてる最中だったし。ま、いっか)

Dscf0008

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2008年6月 8日 (日)

バレーボールとチーズケーキ

バレーボールの日本男子代表が、オリンピックの出場権を獲得したそうですね。

おめでとうございます。

正直、日本男子のバレーってめちゃくちゃ弱くて、「勝てるかな」という期待が持てる試合すらなかったのがここ数年だったので、正直興味をなくしておりました。

しかし、今回、植田監督がいいチームに鍛え上げてきたようですね。しかも、荻野選手が中心選手でやっているなんて感慨深い。

荻野選手と言えば、H大のある石橋駅近辺で、背の低い彼女さんを連れていたのをよく見かけましたが、たまに人に声をかけられても、ちょっと照れくさそうな感じで丁寧に応対していた姿が印象的でした。

まぁ、実際に見るとやっぱり背が高くて、それで彼女さんと喋る時には、何か屈んでいるような感じになっていたわけですけれど。

植田監督も懐かしいという感じがしますね。

16年前のバルセロナに行ったときは、正直、あまり出番がなかったのだけれど、ベンチコーチという雰囲気があって、ある種、「キャプテンになる人種」って感じでした。

当時の代表選手では、青山選手が一番好きでしたね。背は低いのだけれど、オールマイティーに器用な選手で、見ていて楽しかった。まぁ、攻撃の主体は、一に中垣内、二に中垣内、三・四に青山、大竹、大浦、泉川を挟んで、やっぱり最後に中垣内って感じだったので、中垣内選手が抑えられると、「ハイ、おしまい」といった感じもあったのだけれど。

というわけで、元某府立高校女子バレー部顧問の意見だったのでした。

って、なんか全然専門家っぽくないですね。すみません。まぁ、実際に試合は見れていないので、分析はできないし。(見たかった)

まぁ、私は顧問なんて言っても、遊ばれてたって感じだったので、威厳も何もあったもんじゃなかったのですが。(むしろ、教わる方だった。レシーブしていた腕の箇所が青くなっちゃったし)

でも、運動部の顧問ってなかなか楽しかったですよ。彼女たちも元気にやっていてくれたらいいなって思います。(第一希望が野球部の顧問だったのは言うまでもないが、別の競技ができるのはいい機会だった)

ところで、昨日はちょっとパーティーに顔を出してきました。

手ぶらで行くのも何なので、チーズケーキを焼いて行ったのだけれど。

(スフレタイプの)チーズケーキを作るのは、生涯で三回目の経験なのだけれど、けっこううまくいったのではないかと思います。(写真がなくてすまない)

甘酸っぱいタイプのチーズケーキがおいしいかなって思って、実は開き直って生クリームの代わりにプレーンヨーグルトをドバドバと加えてみたのがよかったのかもしれない。

中に入れたのは、マスカルポーネチーズと、ヨーグルト、レモン汁だったのだけれど、仕上がりはしっとりとした感じで、酸味がちょうどいい感じだったのではないかと思います。

個人的にお菓子作りの師匠と崇めているAさんにぜひとも意見を伺ってみたかったのだけれど、まぁ、東京にお住まいなので無理な相談ですわね。一度、持参してみようかしら。

実はそのAさんにチーズケーキの作り方を教わったことがあるのだけれど、「レアチーズはとても簡単」と仰られた後に、続けて「スフレって難しいよ」と仰られていた文言がどうも頭に焼き付いて離れない。

「難しい」とか言われると、ついついやってみたくなる天の邪鬼な性分なので、ぜひともうまく作って、認めてもらいたいものである。

まぁ、その人は思いやりのあるいい人なので、うまく丸め込まれるような気がするけれど。

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2008年6月 3日 (火)

歴史上の美男・美女

えと、歴史上の人物で美男・美女って誰だと思いますか?

まぁ、男で言えば、源頼朝だとか織田信長だとかそういうのが有名ですけれど、何せその頃は写真がなくて肖像画で、しかも場合によっちゃ似せて描いちゃいけないとかいう制約もあったりで、写真なんかがないとちと難しいですよね。

逆に写真なんか全然なくて、小説やら漫画やらでイメージだけが一人歩きしている沖田総司なんかも問題外。(「色黒で、背の高い猫背でひらめみたいな顔」がどうして喀血の美声年になったのか、私には想像もつかない)

というわけで、必然的に幕末以降にターゲットを絞りますです。

私の独断と偏見によれば、美女No.1はカミソリ陸奥の異名を取った名外務大臣、睦奥宗光の奥方様の亮子さんということになります。以下の写真はなんと33歳の時の物。

Ryokomutsu

えと、じゃ、次はイケメンNo.1なのですが。

土方歳三という意見は多いでしょう。私もかっこいいと思います。

でも、ですね。

ちょっと最近(?)の人になっちゃいますけど、個人的に一番、端正な顔をしていらっしゃったのは、東郷平八郎さんだったのではないかと思います。

下のは、イギリスポーツマスに留学していた時の写真。

Togo_in_europe

くわー、東洋のネルソンは凄いっすね。ちなみに逸話とかけっこう楽しくて、この人はけっこう好きです。学習院での講演会で、「軍人になりたい」と言った学生に、「軍人は死ぬからやめとけ。どうしてもなりたいなら、海軍にしなさい。海軍なら死なないから」と言ったとか。

あと、肉じゃがの起源ってこの人だって言われているんです。実は。

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2008年6月 2日 (月)

気が変わった

情報通信能力がある程度ないとお話しにならない一般企業とは違い、大学を含めた学校という職場においては、情報能力が下手にあると損をすることになります。

webが扱えるものなら、ホームページの作成と管理はさせられるし、成績やら事務処理やら最近は計算ソフト(あえて○クセルとは言わないが)もあるので、管理はしやすいのである。

一応、職場の教員は等しく優秀な能力を持っているという建前があるので、こういった情報処理の仕事ははっきり言ってやるだけ無駄で、次々に仕事を頼まれるので、損なだけなのだそうです。(ロンドンで、某大学のファカルティーの先生からお話を伺った)

まぁ、容易に想像はつきますわね。パソコンのログオフをしなくて、いきなり電源コードを切ったりするような人も普通にいますし、実際、私も高校でその手の現場にいたので、現状はなんとなく分かります。

サービス残業をなるべく避けるのは、要領よく生きるのに必要なコツみたいなもんなんだと思います。私も就職するようなことになれば、自分がパソコン音痴であり、携帯電話を持っていない(よく働く人が携帯を持つと便利屋さん扱いされるのだそうだ)と言い張ることにしようかと思っています。

しかし、そんな矢先。

公募の募集要項に「情報通信能力に優れている者」という但し書きを発見する。

・・・

「ハイ、ハーイ!!!」私、SEさんには及びませんけど、HTMLからウェブは作れますし、LaTeXも使いこなします。javaもそこそこいけます。情報通信能力、オーケーです!

パソコン関係の雑用、一手に引き受けてやろうぢゃねぇか。

だから、雇って!(懇願)

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2008年5月27日 (火)

質が違う

野球であろうが、音楽であろうが、そして言語学であろうが、やはり才能というか、生まれ持った決定的な能力差というものが存在するのは間違いないと思う。

努力しようが、根性を出そうが、どうやっても埋め合わせのできないギャップとでも言えばいいのか。

例えれば、130kmのストレートが投げられ、右の本格派としてちやほやされて浮かれていたレベルの投手が私であったとする(注:高校生で130kmを投げると、地元ではちょっとした有名人になって、有力な私立高校が偵察隊を派遣して、分析されるような扱いを受けます)。

ところが、140kmを低めにズバズバ投げられる人を見ると、「これは凄いな(太刀打ちできない)」という印象を持つようになります。(注:このレベルだとプロ野球のスカウトが目をつけます)

傍目から見たり、あまり野球が分からないというレベルの人からすれば、両者とも凄くて、甲乙つけがたいという印象を持つかもしれませんが、違いは歴然。はっきり言って、このレベルの10km差はどうしようもありません。

もちろん、玉の回転、伸び、重さという数字では計れない要素もあります。この辺の違いは、実際に投球を受けたり、バッターボックスに立てば、歴然とした差になります。

音楽でいえば、どうでしょうか。例えば、ピアノでラフマニノフを弾ける人が二人いたとしても、同じように、同じ音を弾いているはずなのに、「質が違う」という音を出すピアニストはいるはずです。

コーラス辺りにしても、似たような声域の声が出せるテノールがいたとして、彼が日本の音大で天才児扱いを受けていたとしても、パバロッティを目の前にすれば、「質が違う」と実感する感覚でしょうか。

後は、ザクを操縦しているのに、シャアは自分の3倍で動ける、とか。

同じことを同じようにして、それなりの技術で体現できているはずなのに、「質が違う」というレベルでやってのける才能を持つ人間というのは存在します。そういった人間を見つめる時、もちろん、「勝てない」という感覚を持つようになります。

しかし、そういった才能を前に、「嫉妬し、妬む」ということだけは常々、慎みたいと考えてきました。そういった埋まらないギャップを素直に賞賛し、褒め讃えるだけの能力と余裕を養成するのが自分の中の課題であった。

世界最高峰の、本当のナンバー1を除いて、必ず自分以上の才能が存在することを認めねばならない以上、競争が義務づけられている世界に生きている人間にとって、「他者の才能を認め、自分にできないこととできることを認識し、過信せず、また過小評価せず、自分ができることを精一杯に勤める」能力を養成することは、生存するために必要不可欠であるように思える。

実は、この週末の学会で、そういった人材に出会いました。

似たようなトピックを扱い、似たような結論に至り、似たような話をしました。

しかし、残念ながら、彼は私とは決定的に「質が違います」。

その場の話だけを聞いたならば、差はなかったでしょう。

実際、字句通りには似たような内容を話していたわけですから。

しかし、その結論に至るまでの考察の「深さ」は比べるべくもありません。

同じ課題曲の演奏をしたのに、同じ球速標示の球を投げたのに、でも、「質感が違う」という部分が言語学にもあるわけです。

そういった自分にできないことができる人間を見ることは、自分の卑小さに向き合わなければならないことを意味しますから、つらいことのはずなのですが、何か妙に楽しかったです。

わくわくするというか。

というわけで、学会はさぼりまくって(遊んでいた)いたのですが、知的には得る所が凄く大きく、ちょっと痺れた経験をしてきたのです。

また、彼とはちょっと(てか、かなり)遊び回って来て、なかなかいい感じでした。

尊敬できて、刺激を与えてくれる友人ができるということは、人生の醍醐味の一つであると思う。今回は、いい出会いをした学会であった。

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2008年5月13日 (火)

コンディションの保ち方

朝、目が覚めると身体がだるーいって感じがしますよね。

頭も身体も寝ぼけているというか。

いつも、朝ご飯と一緒に珈琲をがぶがぶと飲んで、目を覚まさせるのが日常です。

その後、淡々と、「だりー」とか「しんどー」とか思いながら机に向かいます。

頭もあんまり働かないし、思考回路もネガティブなことが多いです。

しかしながら、昼前になるとぽちぽちと活動を始め、昼食後はそれなりに、というのが大体の一日の頭の働きの様子です。

うーむ。

なんか、のんびりとはできているのだけれど、あまり健全な感じはしないですね。

それで、毎週土曜は朝からバトミントンをやっています。スポーツセンターのメインホールなので、他の時間帯は確保できません。朝の9時から11時ってのが定刻です。

「参加したいんだけど、朝の9時は早過ぎる」という苦情をよくいただきます。

しかし、最近、この時間帯が心地よいのです。

なぜかというと。

バトミントンをした日、つまり、土曜の昼からのお仕事なのですが、基本的にめちゃくちゃ捗るのです。

夕方に眠気が来るのが問題ですが、それ以外はとてもよいのです。なんか、頭の活動が活発で、ものすごく集中できるのが分かります。

特に理論を扱う学問なんかをやっていると、難解な箇所は頭の活動が鈍い時には、「やってらんね」とか、「頭の悪い俺には分かりません」って気分になって、素っ飛ばして、ため息をつくことすらあるのです。

しかし、頭の活動が活発な時には、すらすらと頭の中に入ってくるし、プラスアルファのこともがんがん考えられるし、それより何より、「おもしれー」という感覚が沸き起こって、ドーパミンががんがんと噴出してきます。

こういう状態は、ちょうど麻薬中毒患者がおくすりをやっている状態に近いのだと思う。気分がハイになりすぎて、落ち着かなくなることがあるくらいだし。

というわけで、ですね。

朝型から運動をしてみたわけです。

今日は晴天なので、朝イチで自転車でスポーツセンターに行って、トラックでダッシュその他、その後、筋トレ。

家に帰って、髪を切って、シャワーを浴びて、洗濯物を回して、部屋の掃除。

さてさて、それでLaTeX用のエディターを立ち上げて、業務開始。

がんがんがん。

すっごいです。体調だけじゃなくて、頭の調子が凄くよいのです。

気がついたら、6時過ぎ。

朝は身体も脳も寝ているって感じなのだけれど、ストレッチや筋トレで伸ばし伸ばし、無理矢理叩き起こしたって感じになるんですね。

こらええわ。

毎日やってもいいのだけれど、さすがに筋トレは毎日するのはあまりよくないし(1日インターバルを置くのがいいのです。筋肉はトレーニングによって組織が破壊され、再生されることによって鍛えられるのです。だから、休めないといけない)。

まぁ、近所をちょこっと走るだけでもいいのかもしれない。

えと、夜になって眠たくなっているのが難儀ですが、朝にトレーニングするのはいいですね。今後は朝にスポーツセンターに行くことにしよう。

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2008年5月11日 (日)

小確幸とクラッシュスペース

夏になると、完熟トマトが安くなります。

M & SやSainsburyでバラ売りで売ってあるのを適当にピックアップして、重量に見合った値段を支払うことになっています。

完熟の熟熟が、ちょうどいい量で選べるのでなかなかに便利なのです。

旬のヨーロッパのトマトは、フルーティーで甘みがあって、味が濃くてとにかくおいしい。

トマトをスライスして、モッツァレラチーズをスライスした物を挟み、挽いた天然塩をまぶしてからエクストラバージンオリーブオイルをかけると、トマトとモッツァレラチーズのサラダの完成です。

とにかく美味。風味も抜群。

赤ワインとの相性も素晴らしく、安いし、一時の幸せを感じることができます。

トマトを持って帰って、日本のいろいろな人たちに振る舞いたいと思うくらいなのですが。

当分、ワインのお供はこれに決まりですね。

ところでところで、みなさんはクラッシュスペースというのをご存知でしょうか?

アカデミックの学会と言えば、西欧では基本的に学会によって割合も変わりますけれど、ファカルティーの、所謂、ポジションを得た先生方の発表の方が数が多い訳です。

そういった人たちは別として、ですね。

もちろん、若手の、学生なんかも発表することはあるわけです。

学会はアメリカであったり、ヨーロッパであったり。

たまにお金持ちの大学の大学院生は、たーくさんお金をもらえるそうなのですが、基本的に大学院生は食うや食わずの生活ができる程度のお金しかいただいていないか、もしくは全くいただいていないかのどちらかなので、海外に出かけるのはけっこう経済的に苦しいのです。(Hーバードや、M工大ですら例外ではない)

しかし、大学でポジションを得ようと思えば、学会で発表し、査読つきの論文に発表し、という実績をたくさん重ねなければ、仕事は得られないわけです。

というわけで、先立つ物はなくとも、なんとかしないといけない。

こんな状況ですから、大学院生は時に、悲惨な生活を強いられることがあります。

私はまだ贅沢して、雨風が凌げる程度の宿を取っていますけれど、時に、宿代すら工面するのが苦しいという経済状況にいる院生もたくさんいるわけです。

でも、実績を積まないと金を稼ぐ目処が立たないので、無理をしてでも学会には参加しないといけない。

学会に参加することで、多数の研究者との交流やコネも生まれて、それがきっかけで研究が向上するアドバイスももらえ、仕事の情報がもらえることも多々あります。学会の参加は必然みたいなもんです。参加できていない学生は、それだけでアカデミックポジション獲得の生存競争から落ちぶれていると断言して過言ではない。

そんなこんなで、最後の手段として、クラッシュスペースという文化がこの業界(アカデミック、ね)には存在します。

クラッシュスペースというのは、要するに野宿みたいなもので、「泊まる宿がないので、学会会場(だいたい、大学)のどっかで寝かせてくれ」というものです。

大学施設ですから、水道にトイレも揃っていますし、どっかにシャワー設備もあります。

寝床はその辺の、ソファーなんかでまかなうわけです。要するに、宿無し。ホームレス状態。

大学の博士課程は、だいたい20代後半から30代前半のお年の人たちが多いわけですが、そんな年になっても「宿を取る金がない」というジレンマに苦しむことは多い訳です。

一応、業界関係者の人たちは、こういう悲惨な状況をお互いに理解しているので、学会会場近辺に知り合いがいれば、運良く泊めてもらえることもあるわけですが。

しかし、妙齢になっても、「宿無し」状態って、情けないものがありますね。しかも、これだけハングリーに苦しんでいても、見返りが得られる、つまり、職に就ける可能性は低いわけだし、時に、なんのために苦労しているんだか?と空しくなることがあるのは事実です。

私も、人ごとみたいにそんなことを言っていますけれど。

たぶん、近いうちに東京近辺をうろつく可能性がけっこう高いのですが。

大学時代みたいに、友人に連絡して「泊めてくれ」とか言えたら楽なのですが、東京にいる友人たちは基本的に忙しいし、結婚していたり、同棲していることが普通なので、週末に1日、2日、とかいうレベルでなければ、とてもじゃないけど、そんなことは言い出せないわけですよね。

人によっちゃ、月休2日とかいう知り合いもいるし。(よーやるわ、と思いますけど。会社や国家が従業員を守ることなんて基本的にないのだから、ほどほどにして欲しいものだと思いますが)

泊まる場所として、私に必要なのは、

1.安いこと

2.雨風が凌げること

3.ネットが使えること(emailをチェックする義務があるのと、やっぱり仕事上、必要)

の3点です。身体が洗えるのなら、季節柄、行水でもかまわないし、日本には銭湯なるものがあるので、なんとかなるのですが。

というわけで、その3点を東京近辺で満たす施設って、ずばり

ネットカフェ

ですよね。

しっかし、この年になって、ネカフェ難民になる可能性があるとは思わなかったな。

しかも、住所不定(海外なもので)無職(奨学金はもらっているけど、学生だし。しかも、海外の)というおまけつき。

自分は人間産業廃棄物なのかと思わないでもない今日この頃。

ま、「悔しかったらさっさと脱出しろ」ということなんだろな。なんとかしてやろうかと思ってはいますけれど。

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2008年5月10日 (土)

初恋にまつわる話

夢を見る時には、以下のような区別があります。

まず、

(1)日本語か英語か

という問題がある。

もちろん、登場人物が日本人である場合には、日本語で会話しているわけだけれど、登場人物が実際に日本語を話さない場合には原則、英語で夢を見ております。

原則、というのは、たまに彼らが日本語を喋っていることがあるからです。夢の中でも、「あれ?こいつ日本語話せたっけ?(ま、いいや。夢だし)」とか思いながら、日本語で話の辻褄を合わせていることがあります。

夢だから別にいいのだ。

次の区別が

(2)カラーか、モノクロか。

人によっては、カラーの夢ばっかり見る人や、モノクロの夢ばっかり見る人がいるみたいですが、私は両方見ることがあります。

カラーの夢の時だと、妙に現実っぽい感覚が残ることが多くて、あまりにリアルなので、時に現実と混同してしまうことがあるのではないかと思うくらいです。(たまに、真剣に考えないと夢か現実かの区別がつかないことがある)

モノクロの時は、なんかアナクロというか、妙にサイコっぽい話が多いです。ちょうど、マトリックスの世界に入り込んだような、深くて、妙な話であることが多い。

夢占いというのはあまり信じないのだけれど、夢を通して潜在意識を分析するという話はけっこう好きで、その手の心理学の話はいろいろと読んだことがある。正直に言うと、話半分で読んでいて、納得しているわけじゃないんだけれど、なんとなく興味があって読んでいるのです。

夢解釈って、実際に、夢という形で投影されているので、それに意味付けを与えるという行為はそれなりに楽しい知的行為だと思うし。(ただし、科学とかそんなんじゃないですよ。単に考えているだけ。文学解釈みたいなもんです)

今日はですね。とっても久しぶりな人に夢の中で会えて、ちょっと嬉しくなっちゃったのです。

このブログの読者には、どうも私の中学時代の同級生がいらっしゃるようなので、滅多なことは言えないのではないかと思いますが、まぁ、単なる昔話であるとことわっておいて。

夢で出会ったお相手はですね、初恋の人です。

夢はもちろん、カラーで、日本語で会話をしておりました。

場所は、ちょっと分かりません。日本なのか、イギリスなのか、アメリカなのか、それとも全然違う場所なのか。

ただ、小高い丘の上にあるイタリアンレストランで一緒に食事をしていて、帰りにゆっくりと小川の近くを下っていったということだけは確かです。

感覚的に凄く現実的だったわりには、実在する場所というわけでもなかったらしい。

実はレストランでの食事後、ちょっと別々に店を出て、帰り際に小川の近くで合流したということだけ覚えています。

その経緯は分かりません。(どうでもいいですよね。どうせ、夢だし)

会話なのですが、それなりにきちんとしていたというか、楽しく弾んでいたのではないかと思います。

ただ、表面上はそう見えたとしても、私の心理としては「ドギマギ」といった感じが拭えません。ちょうど

テンパっている

という言葉がしっくりくるような感じ。時々、緊張しすぎて、頭の中が??!!???となっているのを冷静に分析して、それに対処しながら話しているという感じです。

まぁ、その人を思い浮かべることはここ数年全くなかったし、今、何をされているのかは分からないし(6, 7年前くらいに保母さんをしているということは、本人様から聞きましたが)、本当に全く何にも思い出すきっかけは分かりません。

あえて言うなら、原田知世さんがベストアルバムをリリースするというニュースを目にしたことくらいか。(その人は原田知世さん似だったのです。今もそうなのではないでしょうか。たぶん)

初恋はですね、なんと幼稚園の時だったんですね。

一応、一緒にママゴトとかしたことを覚えている。

その頃はそれなりにちゃんと会話できていたのだけれど、思春期の頃は完全にアウトでしたね。のぼせ上がっていたというか、その人の前ではまともに会話できてなくて、頭が蒸発していました。

たぶん、「えー、あー、うー」とかいう間投詞くらいしか発せていなかったのではないだろうか。

高校だとか、大学に入ってから、時に電車でお見かけすることがありましたが(何せ、大阪の辺境に住んでおったもので)、その頃にはわりとちゃんと会話できるようになっていました。特に、大学生くらいにもなると。

「明るくなったね」だとか、

「雰囲気よくなったね」だとか言われたのだけれど、なんてことはない、

あなたに対する免疫ができただけの話です。

特別、誰かと会話するのに不自由していたわけではない。(こんなところで、今更、弁明するが)

しかし、それでも、会話しながらも、テンパりそうな自分を抑え抑えしているのは意識しているのです。さもないと、まともに頭が働かないし。

この手の、その人の前に出ると、妙に恐縮するというか、テンパってしまうという人は、もう一人存在します。

その人に対する言及は、さすがにやばいと思われるのでやめておきますけど。(時に二人で会話がぶっ飛んでいることがありましたけど、あれって、何だったんだろ?時々、周りに指摘されて気付いていたのだが)

ちなみに、その人はもう人妻です。(残念。って、何が?)

しかし、この手のコンプレックスを助長させてしまうような魅力的過ぎる存在の人って、一般的に誰にでもいるもんなんでしょうかね?正直、私はこの人たちの前に立つと、「こんな魅力も能力もない人間でごめんなさい」っていう、生きていてすみませんとかいう気分になって、存在しているということ自体、恥ずかしく思われてしまうことがあるのだけれど。

もちろん、こういうコンプレックスは嫌いなので、なんとか払拭すべく精進しているという部分も多々あります。ある種、日々の成長の糧というか、モチベーションになるので悪くはないのではないかと思うのだけれど。

この人たちに「かっこいいね」って言われるような人間になれればいいなと思います。

ハードルは、高いんじゃないかなって思うのだけれど。

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2008年5月 9日 (金)

正直、中国に腹が立つわけではない

胡錦濤国家主席が来日しているということもあって、日本語ニュースを見ると、中国関連の記事がたくさんある。

なるほど。

一般的な日本人の国民感情を、ネットの意見から勝手に集約すれば、「中国嫌い」だとか、「中国むかつく」だとかそういうことになるのだろうけれど、正直、私は中国が嫌いだとは思わないな。

というか、好きだとか嫌いだとか、好みの問題ではないと思う。

日本の外交下手は、特に戦後、よく知られているわけだけれど。

北京五輪を控え、日本と中国の領海をまたいで存在している油田が存在し、留学生の交換や、中国からの国際犯罪の増加、国連の常任理事国承認の交渉など、中国と譲歩し合わなければならないこの節目とも言える時期に、日本が福田康夫という、近年でも稀に見る最低最悪の無能な人間を政治上のトップに据えているということは、大いなる不幸であるように思える。

まぁ、民主主義という政治体制を敷いているわけであるから、その責任の大本は国民全員にあって、「みんな悪いんやけんね」という状況であるということは意識しなければならないのだろうけれど。

今更、取り立てて述べるまでもないが、外交交渉というのは、はっきり言って牌の奪い合いなのである。お互いに満足するなんていうことはない。

こういう状況下では、自分たちに一番必要な物だけは最低限、確保し、欲しい物をできるだけたくさんいただくことが重要な課題であるわけである。

中国が恫喝気味の交渉で日本に向かってくるのは、それが戦略上、最も効果的に自分たちの利益につながるからである。

国際裁判に持ち込まれたら「負ける」ということを認識しているので、油田を勝手に開発し、日本が抗議しても、「さぁ、知らんねぇ」とシラを切ることによって、開発が進められている。

実際、日本はちょっと文句を言ってくる以上のことはしてこないのである。国際裁判であーたらこーたら言われる前に、できるだけのガスを開発して利益を開発するのは当然であろう。あわよくば、何か言われても、「元々、我々が開発していたものだ」とシラを切ることもできる。

日本は所詮、「遺憾である」と表明する程度で、武力で脅しをかけてくることもないわけだし。

常任理事国の承認はまだまだ使えるカードなのだから、認める理由もない。

毒餃子はいつの間にか、日本の責任にされているし、福田首相を手篭めにしているので、日本の警察に捜査させないよう圧力もかけられている。

聖火リレーも報道規制をかけさせることができたし、今日は早稲田大学の講堂で、中国からのサクラを集めて胡錦濤国家主席の講演が行われたそうである。

何せ、学生や教職員が講堂に近づくことを許されなかったそうであるから。

一応、パンダのレンタルだけは認めたようであるが、これもパンダを利用した「友好の象徴」みたいなものに使用するだけの話であろう。

はっきり言って、日本の完敗である。有利な材料はゼロ。ナッシング。

腹が立つのは、その全てにおいて、日本に落ち度がなく、アプローチ次第では、全て黒だった図版を白に塗り替えられる可能性が十二分にあったということである。

日本が中国から得られる利益の大きさと同じくらい、中国も日本から多大な利益を受けているという現状を正しく把握することから始めれば、日本にいくらでも有利なカードは揃えられていたはずなのだが、恫喝外交に尻尾を振って、中国様の足先を舐め舐めしているのが日本の政権与党の現状なわけである。

こういう状況は、日本の政治家のふがいなさに腹が立つというだけのことであって、別に中国に腹が立つとかそういうことはない。

実際、自分が中国の側に立てば、間違いなく恫喝外交を行っていたであろう。何せ、それが一番効果的で有用なのであるから。

そういったことは当たり前過ぎて、疑問にもならないのだが、問題は、「なぜ日本が低身低頭しなければならないのか」という部分にあるように思える。

ま、何かあるんだろね。

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2008年5月 8日 (木)

自分に対する注意書き

えと、今日も日差しが暖かくて、ちょっと暑いくらいだったのです。

でも、日陰に入るとちょっと寒いくらい。

外でちょっと走ってから、筋トレしたのだけれど、けっこう疲れる。炎天下で動くのは、10代の頃は得意だったはずだが?

そういうわけで、汗をかくとですね、ビールが欲しくなるわけですよ。

汗をかいた後で飲むビールって、最高に気持ちがいいわけですよね。

でも、ビールってカロリーが高いのです。

プリン体。

私は顎の周りに肉がついたり、ほっぺたが膨れたり、腹が柔らかいのが許容できないので、太るわけにはいかないのです。これは自分に対する美学みたいなもんだと思う。

頬はちょっと痩けているくらいで、ウェストは両端から手で挟めるのではないかという細さなのに、筋肉質であるという体型は保たねばならない。新陳代謝が活発ではない年齢なのだから、妥協は許されないはずである。

というわけで、ここに自分に対する注意書きをまとめるものである。

1. ビールの解禁時期は6月からである。

2. ただし、週に1本しか飲んではならない。

3. 7, 8, 9月は週に2本飲んでよいものとする。

4. パーティーや他の人と食事をする時には例外的に飲むことを許容する。

5. 雨模様が続く等、比較的涼しい週はビールを飲んではならない。

の5か条である。

どうせなら、ビール禁止ぐらいまで徹底すればいいのだろうけれど、夏場のビールが喉を通る心地よさは小確幸どころか、大確幸の一つであると思うので、この文明の偉大なる発明を口に出来ないとするのは、ちょっと人生を損している気分になるので、まぁ、いいことにする。

何より、安いし。

しかし、一応、自分の中で禁止していることはあるんですよ。例えば、アイスクリームは基本的に食べちゃいけないというか、食べられないことにしているし、挙げ物は極力避けていて、月に一回、食べるか食べないかだし、料理に使う油はオリーブオイルだし、肉なんかもほとんど食べない(られない)し。

まぁ、自己節制できない人間に、他人を管理したり、注意したり、とやかく言う資格はないと思うので、こんなことは当然だと思うのだが。

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2008年5月 7日 (水)

やっぱりよく分からない

えと、今日はとてもいい天気でぽかぽかと気持ちよかったです。

これから当分、ずっとこんな感じらしい。天国の夏到来といったところでしょうか。やっぱり、イギリスは夏に限りますな。「あ、こんなに気持ちよかったっけ?」と再確認させられた感じです。空もきれいだし、花もきれい。風も心地よい。

キャンパスを歩いてみると、皆様、外で日向ぼっこをされていたりするわけです。だって、歩いているだけだとか、自転車を漕いでいるだけで気分のいい陽気なもので。

そりゃ、イギリス人の話題は天気ってことになりますわね。

ちなみにこんな陽気だったからでしょうか、例のギリシア人の同居人さんの彼女さんも今日はえらくご機嫌でですね。

なんと、プレートも、ほったらかしにしていた食器なんかもみんなきれいに洗ってありました。

おお!

喋っていても、いかにも調子がいいのって感じで、ノリノリだったのです。なんか、昨日と別人みたい。やっぱり女性ってよく分からないです。10代の頃に、既に理解することは諦めましたけれど。

「理解しようとするんじゃない、感じるんだ」って感覚ですかね。ま、いいや、どうでも。

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