秋葉原で起こった無差別殺人事件のニュースが、かなり取りざたされているようである。
BBCでも、日本のニュース映像を使用して、現地中継が行われていた。恐らく他の国でも何らかの放送はあったのではないかと思われる。
「無差別殺人」というと、やっぱりワケが分からないという印象がまずあり、よく考えてみてもやっぱり「よく分からない」という結論に至ってしまう。
まず、事件が起きた原因についてだが、やはり「社会に原因がある」という論は当らずとも遠からずなのであろう。
勝ち組・負け組論争に代表されるように、現在の日本では格差社会というものが取りざたされており、格差というものが存在するということが事実であると認識されている。
実際、この加害者も自分自身を「負け組」と位置づけ、動機の原因として「勝ち組は皆、死ねばいいと思った」と供述しているという。
事件の背景や分析については、別にこんなところを見なくても、いろいろなところで議論されているようなので、私はちょっと視点を変えた部分について考察してみたい。
というわけで、加害者が事件を起こした動機については「知らない」ということにしておく。
どうせ、いろいろ考えてもやっぱり「分からない」という結論に至るのは目に見えているのであるから、別によかろう。
問題の一つは、社会的立場や周囲の環境を考慮して、無差別殺人を実行に移そうと考えた時に、加害者がそれを実行に移す勇気が持てるかどうかという部分であると思う。
単刀直入に言えば、自己を「負け組」と位置づけている人間に取っては、失うものがない、もしくは失ってもたいして貴重な物ではないという認識があるからこそ、突拍子もない行動を遂行することができたのだという一点に尽きる。
自分の中で起きたどうしようもない衝動を抑えるストッパーが存在していなかったわけである。
どうして、そういう認識になったのかと言えば、加害者が自己を負け組であると認識し、今後も自分が他人に理解されることはないだろうし、受け入れられることもないだろうし、それに今後、自分という人間に等しい見返りを得ることはできないであろうという確信があったからに他ならない。
その不満の原因は、自分に配分されるべき社会的リソースが不当に収奪されているという被害者意識に他ならない。
社会構造上、自己を負け組であると認識している人たちに浮上のきっかけが与えられない以上、彼の犯罪に社会が加担したという考えには一理あるようにも思う。
問題は、彼ら自己を負け組であると認識している人たちにどういった希望を持てるように社会が動けるのかという部分に注目することであると思う。
そのためには、「流動的で、誰にでも平等に競争に参加できるチャンスを」と声高に叫ぶ人たちがいるかもしれない。
しかしながら、そういった機会平等主義という部分には、さらなる負け組を量産する以外の結果が私には見えない。
むしろ、社会的リソースを平等に分け、機会を平等にした上での結果が「負け」ということになれば、負け組であると自己認識している人たちの自尊心を根本から奪い、さらなる希望を持つ機会を収奪するだけに他ならないような気がして仕方がないのである。
こういった主張には、自分に適当な社会的リソースがあれば、勝ち組にのし上がれるはずだという根拠のない希望的観測に支えられている。
誰も、自分が予期せぬ事故に遭い、自分が能力を発揮できないかもしれないというリスクを考えることができない。
誰も、自分の身内に不幸があり、能力を発揮する機会がなくなるかもしれないというリスクを考えることができない。
誰も、自分の能力は他者のそれに比べて劣っているかもしれないと想像することができない。
だいたい、今の日本はなんだかんだで、まだまだ、所得水準が低い状況にあっても浮上のチャンスをつかめる社会であると言って差し支えないと思われるので、そういった競争原理を煽っても、百害あって一利なしであるような気がして仕方がない。
そもそもの勝ち組の定義としても、何をもって、他の人間と優劣を決めているのかが分からない以上、非常に世俗的で本能的な部分に比較基準が定められているような気がして、個人的にも全く興味がわかない。
一位になれる基準は何なのであろうか?
どんな仕事をしてもいいから、とにかくお金を稼ぐことが正義だと言われ、男女共、自分の尊厳すら売ることを厭わないような風潮に私は賛同することはできない。
男女共、異性経験の数が多い程、「モテる」という証明になり、オスとして、もしくはメスとして優秀と見なされる。
学歴社会などというものの、偏差値が高いという一点のみが正しい基準とされ、東大か京大の医学部に入ることこそが最高峰であるともてはやされる。
私個人としては、こういった風潮に、「だから何?」という姿勢を只管貫き通しているのであるが、もっと「だから何?」と声高に言える人たちが出て来てもいいのではないかと思う。
万人が賛成する基準なんてないのだから、自分と、後はこの人(たち)に認めてもらいたいなという人たちに評価されることができればそれでいいのではあるまいか。
人間が人に評価されたいという社会生物であるという事実から目を背けるつもりはないが、常に他者の評価に自分を縛り付けることで得られるメリットがないというのであれば、そういう視点を捨てる度胸も必要だと思うし、捨てることが評価される風潮があってもよいのではないかと思われる。
「身の程を知る」と言えば、ちょっと聞こえが悪いのだが、自分にできることを正しく認識し、自分の能力を最大限に発揮することができる人こそが精神的安定を保てるのではないかと思う。
人生を生きて行くうちに、いろいろと壁に当たり、乗り越えられる壁と乗り越えられない壁をある程度経験して、「ま、こんなもんか」と、悪く言えば見切りをつけることは、決してネガティブなことではないと私は考える。
つまるところ、格差なるものはこれまでも存在し、これからも存在し続けるのであろうが、そういったものを過度に取り上げ、過度に評価せず、過度に問題視しないということは生き方の指針として重要なことであろう。
むしろ、自分にどんな利点があり、どんな貴重な物を所有しているのかと認識させることが、犯罪抑止の鍵の一つに他ならないのだと思う。「失う物がない」と認識する人たちが増える社会は、そのまま犯罪の増加につながるわけであるから、これは偏に自分の身を守る共同体の知恵とも言うべきものなのではあるまいか。
これが一つ。
もう一つは、加害者に対する刑罰について。
被害者の気持ちを鑑み、状況を考慮すれば、極刑は免れないと思われるのだが、なぜ刑罰が行われるのかという重要な部分において、昨今の司法は決定的な視点を欠いているように思えて他ならない。
聞こえて来るニュースから判断するに、加害者が更正できるかという部分が強調されているようである。
これはこれで一理あるのかもしれない。
しかし、「被害者の気持ちになって」、「反省して」という文言が使用される傾向があるが、こういった言葉には恐ろしく説得力がないということには気付いた方がいいのではないかと思う。
なぜなら、人というものは、他人のことについては恐ろしい程に想像力が働かないことが多い生き物だからである。(かといって、他の生き物がそうだというわけでもないと思うけど)
司法、つまり国家に人を裁く権利を与えているのは、国家というものが恐怖・畏怖の対象であり、抗うことができないという道理があるからである。
日本政府の決定に逆らえる国民なんていないわけである。逮捕令状が下っても、それを無効にすることはできない。
そういった恐怖を与えることができるのは、国家が生殺与奪の権限を握っているからである。
そういった権力を畏怖するからこそ、ある種の治安は守られ、人の財産、生命を奪おうという発想を抑止することができるわけである。現代における国家は、ちょうど中世ヨーロッパにおける教会のような役割をしているのだとも言えるのかもしれない。
神に対する畏怖が国家権力に対する畏怖に変わったと置き換えればよかろう。
こういった畏怖が効果的に機能するためには、生殺与奪を決定されることが加害者に取って望ましくない状態でなければならない。
死刑を望む加害者に、極刑をちらつかせても効力はない。むしろ、極刑が効力を持つためには、死刑を望む被害者に、死刑を望ませない心理状態におくことが非常に効果的なのではないかと思う。
別に死刑を回避しろと言っているわけではない。死刑を望む加害者に死刑を執行するのではなく、死刑を望む被害者に、死刑を望ませないようにし、その上で厳罰に望む姿勢を貫くことによって、国家に対する畏怖心が生まれるのではないかと思う。
そういう姿勢を貫く司法によって、さらなる犯罪の抑止力を高めることができるのではあるまいか。
少なくとも、加害者はオタク、きもい、最低、人間じゃないと思考回路を停止することからは、さらなるリスクを回避することはできないように思う。
逃れられる危険を予期し、回避すること、また、格差社会を強調することで得られることと失うものの比較を真剣に考慮すること。
そういう視点があってもよいのではあるまいか。