学問・資格

2009年10月15日 (木)

ポッドキャストを活用する

通勤途中に音楽を聴くというのなかなかいいのだけれど、最近はiPhoneにポッドキャストの適当なのを入れて聴いていることが多いです。

だいたい、BBCのGlobal NewsとScientific Americanがあれば間に合うのだけれど。(前者はweek dayのみなので、隙間合わせって感じで後者を利用する)

まぁ、ラジオってのも聴いているとなかなか楽しくて、いろいろと役に立つ情報も流れてくるのでいいのだけれど、とうとう最近はMIT PressもPodcastを利用するようになったらしい。

一昔前は質のいいジャーナルを連発していた、我々の業界では有名なLIという雑誌なのだけれど、編集長のケイサー(ぶっちゃけ、こいつが老が、あ、いや何でもないです)とチョムスキーの対談も配信しているようです。
MIT Podcasts

今週末はこいつでも聴いておくか。

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2009年4月26日 (日)

研究者モード

えと、久しぶりにこの週末は研究者モードに完全変換して生活してみました。

それと主要言語が英語。

まぁ、今では言語学に限っては英語で喋る方が楽だし、そもそもここんとこずっと英語の学会でしか喋っていないので、英語で喋ること自体、別になんてことないって感じになっちゃいました。ま、場数踏んだし、いろいろ失敗も、それを乗り越えるプロセスも経たからこその心境だと思います。

学会会場では旧知の方々と再会って感じでした。数年ぶりに会うと変わる人もいれば、変わらない人もいる。私もそのうち「老けたな」と思われるのかもしれませんが。

会場までは家から電車で30分弱、徒歩で20分といったところなのだけれど、ここもなんだか「懐かしい」場所。いろいろと思い出すこともあるものです。(せんとくんがあちこちにあるのだけれど、なんだか気味が悪い)

研究モードに切り替わったものの、正直、脳が汗をかくというか、痺れるような体験は基本的にはありませんでした。まぁ、世の中そんなものなのかもしれない。やはりいかにも競争率の激しそうな学会に参加しないといけない。

だんだん、若くて活気のある人たちと一緒に過ごしている方が充実しているのではないか?という気がしないでもないですが( ̄▽ ̄;)

日本の学会に参加するのはかれこれ4年ぶりとかいうことになるのだけれど、やはり地域性というか、同じフレームワークで同じ問題意識を持っていても分析の方向性が随分と違うのだなと思うことは多い。

日本の理論言語学、特に生成系は北米の東海岸の理論に影響されることが非常に多くて、特に最近はユーコン、メリーランド、ハーヴァードが御三家といった感じになっています。

この辺にいる人たちは、今こそ自分たちが最先端の理論を作っているのだという自負があるみたいだし、日本でもこの近辺の研究者を目標に追いつけ・追い越せといった意識を持っているような感じです。

この辺の人たちの最近の議論は、もう経験的データなんか基本的にあまり問題にならなくて、概念的な問題にのみ随分と焦点を当てているようです。

ただ、一方で、よりミニマルというか、極小的、経済的な理論を作って行こうというスローガンを持っているわりには、けっこういろいろと新しいメカを登場させているなぁという印象が拭えないのと、過去の理論と比べて何がどう優れているのかイマイチよく見えない印象があります。

過去のメカを今に移し替えているだけというか。

まぁ、それにより経験的データのカバレージが広くなるとか、メカがシンプルになるとか、メカをある種の原理から引き出して来るとか、そういう「いいこと」があるといいのだけれど、特に現時点ではそういうことはないようにも思える。

ヨーロッパでは、特にデイヴィッド・アジャーやイアン・ロバーツなんかは概念的な理論を作っていくタイプの人間なのだけれど、一応、議論の基になるデータはかなり経験に依っているというか、やはり「データありき」の立場は崩していない感じです。

北米の人たちから見ると、ヨーロッパは保守的って印象みたいなのだけれど、でも、言語学が経験科学である以上は経験的データから隔離するべきでないように思えるし、着実なデータに基づいた一般化や理論はそれ自体が被説明項として長く生き残り、人の注意・関心を引き寄せるきっかけにもなる。それにその種のデータは言語の生の部分をより反映したものでもあり、特に他言語話者からの関心のきっかけにもなり、それ自体が興味深い観察でもありうる。

「イギリスって今でも経験主義っぽいところから脱却できてないよねー」と言う人もいたのだけれど、自分が突出した頭脳の持ち主でもない限りは、経験科学的手法に則り、地道に現象観察を続けるタイプの研究は「あり」だと思う。もちろん、そこからブレークスルーに至る可能性のある理論形成をしてやるという野望自体は忘れてはならないのだけれど。

一攫千金を狙って、只管、概念的理論だけを扱うのもいいのだけれど、その大半は徒労に終わっているという現実もあるし、それにその種の概念的理論は本当にセンスのある少数の人たち以外にはなかなかうまく扱う事はできないのではないか、という疑念もあります。

まぁ、最終的には出て来た仕事の質が全てだと思うのだけれど。

自己満足ができ、他人も納得させられる理論を作るのは難しいですね。学問ってのは、どうしても独りよがり、学派よがりになってしまいがちだし。

ところで、今日は帰り道で立ち寄った銀行のATMで、困り果てていたフランス人のカップルの観光客の手助けをしてみました。

クレジットカードでお金を引き出すのと、絵葉書をフランスに出す作業が必要だったみたいなのだけれど、確かにややこしいのかもしれない。

日本の銀行ではクレジットカードでお金は引き出せないし(ヨーロッパではできる)。

事情を説明して、隣りのコンビニに案内し、ATMを操作する。

一応、英語案内はあるのだけれど、日本の英語案内の基本ってアメリカ英語ですよね。

ヨーロッパの英語はやはりイギリス英語が基本になっているので、意外にややこしいんですよね。日常的なボキャブラリーからしていろいろと違うことも多いので、イギリス英語の初学者にはアメリカ英語が分からないことも多い。(逆も然りだと思うけど)

このカップル(老夫婦だった)は少々の英語が話せたので、多少は英語で話して、それと私の必殺片言フランス語でなんとか事情をいろいろと説明しました。

まぁ、基本、うまくいったし、それにとても喜んでくれたのでよかったです。やっぱり旅先では楽しんでいってもらいたいし、私も世界各国でいろいろと親切な人たちにはお世話になったことがあるし。

人が暖かいと楽しい気分になれるし、また来たいとも思えるようになる。

私は自分では愛国心たっぷりの日本人だと思っているので、やはり他の国の人たちにもいい印象を持ってもらいたいですね。押し付けがましいのは嫌なのだけれど。

まぁ、そんなこんなでちょっと非日常的な週末でした。明日からはまた仕事ですな。

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2009年2月25日 (水)

英語って要るのかな?

嘘のような本当の話で、英語教育学なる「学問」において、「動機のある学習者の英語学習の成果が高いということが判明した」という主張が載せられている論文が、ちゃんとした「業績」としてカウントされるという現実があります。

・・・

英語教育を専門にしていない私のような人間に言わせれば、「当たり前やろ」という感想しか出てきません。なぁーんにもおもしろくないし、実用的な結果とも思えない。

まぁ、百歩譲って(最近、「一歩譲って」という表現が使われなくなりつつありますな)この前提に沿って、「いかにすれば日本人の英語学習の動機が高められるか」という問いにシフトしてみると、ちったぁ生産的な議論ができるかもしれない。

しかし、これも眉唾だな。

まず、第一に、こんなことを言うのもなんだが、「みんながみんな、本当に英語を使えることが必要なのだろうか?」という素朴な疑問がある。

英語を一通り使える人間として、ちょっと偉そうなことを言わせてもらうと、確かに異文化の様々な興味深いことを知る機会が増えるし、それに非常に質の高い学術論文が読めるし、それに国籍を問わず広く優秀な人たちと交流が出来るというなかなか貴重な体験ができるというメリットはあります。

それに、一応、就職にも有利だという俗物的な面もある。

これらのアドバンテージは、確かにあれば生産的で非常に実り豊かな物になりうるのだけれど、別に生存上、必要不可欠であるというわけでもない。

何より、日本にいる分には、別に英語なんて話せなくても不自由する事はないのである。

これは巷に英語が流暢な人がほとんどいないとか、高校や場合によっては大学の先生においてもたいして英語ができないという現実が物語っていることである。

別に日本にいる分には、英語が使えなくても生きていける。

そりゃ、英語力はあった方がいいと思いますけど。

当然の事だけれど、より多くの学習者に英語学習の動機付けをしたいと望むのであれば、まず「英語が使えないと生きていけない」という社会が存在しないといけないという前提が必要になる。

他言語社会の、例えばシンガポールなんかで英語が使える人たちが多いのはこういう周囲の、環境による要請が非常に大きい。

日本でも、英語が使えないとまず生存に不利という状況が実現できれば、多くの学習者に英語学習の動機付けができ、より多くの人たちが英語に関心を示し、英語を学習し、そして身につけるさせることができるようになるであろう。

しかし、現実問題として、別に英語はいらないのだから、それはそれでラッキーなことと片付けてしまってもそれはそれでいいのではないだろうか。

さらに、現代日本語が実にflexibleであるという有利さも日本人の英語下手に拍車をかける。

母国語で高等数学やら物理学がそのまま学べるアジア諸国は日本のみなのである。

他の、アジア諸国では、例えば朝鮮語やインドネシア語、タイ語ではそのまま西欧学問は学べないので、普通は英語でそのまま学習するのである。

日本語はうまく外来の文化を吸収する能力があるので、高等数学ですら日本語で学べてしまう。

先日、ノーベル賞を受賞された益川さんが極度の英語下手なのにノーベル賞級の研究ができたという現実を見れば、それは明らかであろう。

こういったことをいろいろと考えてみると、「より多くの学習者に英語学習の動機付けを行いたい」という欲求は、そのまま「英語が使えないと生存に不利」という社会の実現にダイレクトにつながってくるということが分かる。

それはそれで、なんだかナンセンスだなぁという気がする。

私自身は英語が使えて得になったことは枚挙に暇がないし、それに様々な情報を得るきっかけにもなっているし、英語が使えると「有利でっせ」ということは声高に言えるのだけれど、別に英語が使えないと生きていけないのですか?と聞かれて、「そう、無理」とか断言する事はできないな。

使えなければ、別にそれでいいんじゃないかって思うのだけれど。

極論だけれど、日本人の過半数に英語を使えるようにさせたければ、日本を正式にアメリカの51番目の州にして、NHKをCNNかABCにしてしまうのが一番なんじゃないかと思うし、それはそれで当を得た意見なのではないかと思う。

って、別にそんなことする必要なんてないですよね。

こう考えると、所謂低学歴層の人たちに英語を学習する動機付けをするのはなかなか困難な問題でもあります。

まぁ、学問なんて「役に立つかどうか」という観点から分析するのが、そもそもナンセンスなのではないかって気がしますけど。

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2009年2月 6日 (金)

研究評価

えと、イギリスの大学は研究機関という性格が強いというか、大学は研究機関なので(日本ではそうではないらしい。寂しいが)、研究成果をあれこれと評価されることになります。

世に出る所謂、新聞社なんかが発行するランキングというのは、そもそも発表する新聞社に勤めている人たちが自分の母校を高く評価したり(早慶の人たちがやたらと自分の母校を持ち上げるのと同じ)、大学からの寄付金だのなんだので、持ちつ持たれつのしがらみなんかがあったりして、イマイチ信用しきれないところもあります。

だいたい、大学の特色っつうもんがあるのに、一概に「ランキング」なんかにできないだろうという根本的な疑問がある。

だからこういうのは金持ちの道楽というか、自己満足みたいなところがあるので、上位校は基本的に動かせないようになっています。

だから新聞社によってランキングにばらつきがあったりすることも多い。

こういうのは出来レースっぽいところもあるので、だいたい世界ランキングだと、上位5校はアメリカのプリンストン、イェール、ハーバードの御三家に、イギリスのオックスブリッジ、それに申し訳程度にUCバークレー、ミシガン、スタンフォード、MIT、カルテックを混ぜるというのが基本ですよね。

イギリス国内のランキングも似たようなもんです。

上位2校のオックスフォードとケンブリッジは動かさないという不文律みたいなものがあるし(日本の東大・京大みたいなもの)、3番目に寄付金がたんまりもらえるLSEとインペリアルを揃えて、後は適当に並べる、と。

まぁ、こういうのは「さいでっか」って感じです。ヨーロッパの人たちにはオックスブリッジの名前は確かに有効ですが、後はどうでもって感じです。

ただ、中国や韓国の人たちはやたらとランキングを気にしているようです。(学部生と修士生の話)

まぁ、この国々は大学の序列なるものを激しく意識しているところですからね(日本以上に)。

個人的には基準が曖昧模糊としているものに一喜一憂する気にもならないし、だいたい一位になれないことが分かっているのに(なれるのなら気にすると思う)そんなものに気を揉むのはナンセンスだなぁと思う。

まぁ、PhDは自分のリサーチが第一ですからね。どんな名門を出ていようがdissからプラスαがなければ「So what?」ってなもんです。逆も然り。

しかしながら、イギリスで8年に一度行われるResearch Assessment Excerciseというのはちょっと別です。

これは各分野のエキスパートのベテラン先生を数人ピックアップして、各研究機関から該当する年度に出された研究成果、つまり論文だとか、研究資金だとか、優秀な研究者や学生を集めているか、そういうものをぜーんぶ文字通り目を通して評価するけっこうシビアで正確な研究評価であったりするのです。

フェアな採点をしますから、これはオックスブリッジの牙城を崩せる可能性ももちろんあるし、それに新聞社のようなちゃちい機関じゃなくて、専門家たちに評価されるわけですから、随分と信用のおける評価であるわけです。

今、うちの大学のホームページでも大々的に宣伝していますけど、ヨーク大学の評価はけっこう高かったようです。

これは誇っていいのではないかと思う。

大学毎のランキングだと、1位から順にケンブリッジ、オックスフォード、LSE、インペリアル、UCL、マンチェスター、ウォーウィック、ヨーク、エセックス、エディンバラのようになっています。

上位校はおなじみの面子ですが、エセックスが9位に入っているのはおもしろいですね。エセックスはヨークと同じで歴史が浅いので「レッドブリック(レンガが赤いということから転じて、歴史がなくたいした大学ではないというニュアンスがある)」に思われる傾向があるのだけれど、リサーチの質は決して低くはないと思われるので、こういう研究機関が高く評価されているのを見ると、評価はなかなか公正に行われているのではないかと思う。

学部毎の評価を見ると、なんとうちの言語学科は2位だったりします。まぁ、最近、有名どころの先生とか引っ張ってきたし、多彩に実力者が揃っている感じなので悪くはないんじゃないかと思う。1位は数年前までうちのファカルティーだったデイヴィッドのいた所。

他にも元々評価は高かったのだけれど、生物学が1位、English(英文学とか含む)も1位でなんとオックスフォードより上、Health Economicsも1位だったりします。心理学は評価を下げて6位になっていますね。だったら、研究資金の一部をよこせと言いたくなりますが。(注:ちょっと嫌な思いをしたことがあるので、根に持っている)

言語学科の評価が高いのだけれど、なんか評価委員のchairってよくみるとうちの人なんですね。なんか下駄はかせたんじゃないかと思わないでもないけど、まぁ、いいか。

って偉そうな事を言っていますが、評価委員みたいに「評価期間に該当する間に発表された全ての研究成果」に目を通さなきゃいけない仕事なんてやってられませんよね。世界で一番やりたくない仕事の一つかもしれない。

ここ数日、ちょっと「おっかない」ペースで論文を読まなきゃいけない用事があって、それが今日の昼で一段落着いて、それでようやく落ち着いている私には思いもつかない仕事量だと思います。

まぁ、世の中、雑用の方が多いですからね。

むしろ、こういうのにお声がかかる研究者を目指さないと。(それで断れたらいいのだけれど)

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2009年1月20日 (火)

内向きじゃいかんだろ

我々が日本人である以上、恐らく我々は自分たちが一番、日本語の分析に長けており、日本文化や歴史に通じていると思いがちである。

これは、ある一面では妥当だと思う。

母語の獲得は自然とできるものだし、生まれ育った感受性の一番強い時期に日本文化にどっぷりと漬かる事で、自分たちを形作ってきた感性を骨の髄まで染み込ませることができるからである。

実際、H大の日本史をやっている人たちが、「外人に日本史が分かってたまるか」と発言していたこともある。

しかし、一方で、こういった言語や習慣が自分を形作っているという経緯があるせいで、我々は自分たちの言葉や習慣を客体化できないという点があるのも見逃せない。

自分に、自分はなかなか分からないのである。

特に学問という分野は、日本語、日本史、日本文化などの個々、特殊な言語や文化、性質などを分析することによって、人間というもの、人間が作り出すものの普遍性に迫るという目的があることが多い。

普遍文法、すなわち人間言語であれば、全ての言語に共有の性質を解明しようとするジェネラティブ・グラマーはまさにそういった目標を掲げているわけであるし、各種、フィールドワークに赴く民俗学者にもそのような欲望はある。

レヴィ・ストロースが贈与という行為を通して、人間共同体の普遍性に迫ったというのも実に示唆的なものである。

そういった普遍性は、目に見えないものであるから、必然的に、個々の言語や文化の研究を通して一般化を重ねていく作業が欠かせない。

また単一の言語、単一の文化から普遍性は見えてこないわけであるから、必然的に比較するという作業が必要になってくる。

それより何より、自分がどっぷり漬かっている言語や文化の特殊性は当の本人たちにはなかなか分からないことも多いのである。

ある文化、ある言語の特殊性は、そういった性質とは違う背景を持つ人たちによって、新たな側面が「発見」されることが往々にしてある。

自分たちが「常識」であると考えている事、そのことこそが研究するに値する重要な特徴であるということは、アカデミズムの業界でよくあることである。

常識を常識だと捉えない感性、と言い換えてもいい。

こういう意味においても、自分たちとバックグラウンドが違う人たちによる日本語分析、日本史分析、日本社会分析、日本文学分析といった作業に耳を傾ける価値は十二分にあると言える。そういったものを「ガイジンには分かるめぇ」と頭ごなしに否定する人たちの知性を、私は信用することができない。

我々の業界はせいぜいが半世紀ほど(生成文法のルーツはもっと過去に遡ることができるのだが)の歴史しかないが、それでもこれほどの隆盛を誇っているのは、こういった「比較」という視点に常に目を向けてきた経緯があるのである。

どこの誰が言い出しっぺなのか全然分からないのだが、国語学(伝統的な日本国内の方法論によって日本語を分析している人たち)の人たちの多くが「生成文法は英語のみに通用する理論」とよくのたまわれる。

しかし、生成文法の理論の発展、特にパラメータという概念の導入に当たっては、日本語や中国語、イタリア語、ドイツ語といった言語の分析が必要不可欠であったという歴史がこの業界にはあるのである。

こういった研究を頭ごなしに排除していれば、チョムスキーの発言に耳を貸す人たちはそれほど多くはなかったであろう。

母語話者の母語に対する直感は、時に重要な性質を非常に見えにくくさせてしまうことがあるのである。

国内や足元に注意を配る必要性があるのはもちろんであるが、日本語、及び日本文化、歴史などを骨肉としていない「外部」の人間の視点を意識しない研究が、普遍性につながる可能性があるとは私には思えない。

ユニバーサリティーを追い求める幻想は、アカデミズムに必要不可欠な要素なのではあるまいか。

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2008年12月27日 (土)

迷走する英語教育

『文部科学省は22日、13年度の新入生から実施する高校の学習指導要領の改訂案を発表した。「英語の授業は英語で行うのが基本」と明記し、教える英単語数も4割増とする。理数でも前回抜いた項目を復活。卒業必要単位数を74のままとしつつ、全体で学力向上を目指す内容だ。義務教育の学習が不十分であれば、改めて高校で学び直すことも初めて盛り込んだ。

 高校の指導要領改訂は03年度以来10年ぶり。理数は前倒しで12年度から実施する。

 高校の改訂案では英語で教える標準的な単語数が1300語から1800語に増加。同様に増える中学とあわせて3千語となる。中高で2400語だった前回改訂の前をさらに上回り、「中国や韓国の教育基準並みになる」という。

 改訂案は「授業は英語で」を初めてうたった。長年の批判を踏まえ「使える英語」の習得を目指すという。文科省は「難しい文法までは英語で教えなくてもよい」というが、生徒や教員が対応できるか、教員養成のあり方とともに議論を呼びそうだ。』引用 12月22日朝日新聞

英語教育の充実が持つ意味は非常に多義的であり、その議論は一言で語り尽くせるものではない。今日は英語教育が持つ意味について多少、議論してみたい。

今更だが、日本における英語信仰が私は苦手である。

英語ができるということがなんだかとても素晴らしい能力の一つであり、趣味が「英会話」であることは生け花や茶道と同じく高尚なものと見なされる社会はなんだか奇異にも写る。

非常に逆説的な話に聞こえるのかもしれないが、英語ができなくても日本で暮らす分には特に不自由することはない。

巷には文法的にも表現的にもおかしな英語が並べられ、多くの歌手がメタメタな英語の歌詞を散りばめているという事実だけで、多数の日本人が英語を分かっていないということの証左になるであろう。私自身、時に恥ずかしい思いすらする。

それは日本にいる以上は、日本語さえできれば事が足りるということであり、実際、先人たちの様々な工夫によって我々は日本語という言葉が持つ柔軟性の恩恵を受けて来ているということが重要な要素なのである。

古来より、中国から多くの文物を受け入れ、明治初期の大きな日本語改革を通して、日本語は非常に柔軟性に富む言語へと変化してきた。

日本にいると気付かないが、そもそも高等数学や物理等は西欧諸語でなければ教育不能なものなのであるが、日本語はそれすらも日本語で学ぶことを可能にした言語なのである。

アジア諸国で、高等数学を自国語で理解する事は不可能なのである。彼らは普通、英語で書かれた文献を使用する。

それだけではない。

帝国大学の時代より、日本の大学においては、日本語の文献を使用することによって、英米文学、フランス文学、ドイツ文学といった様々な文学や、西欧哲学、歴史を日本語で学習する事が可能という状況にあったのである。

当時の大学教員にとっては、西欧の文物を日本語に翻訳することが仕事、研究成果として認められていたわけである。

この慣習は現在でも根強く残っている。

自分たち独自のオリジナルの理論や研究成果を英語で発表し、世界で自分たちの研究成果が引用されている「理系」研究者にとって、こういった「文系」研究者の研究成果は物足りないものに写るであろう。実際、彼ら「文系」研究者の成果が日本以外の国で評価されることは絶対にあり得ないし、また彼らが研究者として認識されることは実際にない。

これは、海外の博士課程に留学する時に分かることである。

日本では馴れ合いになることが多いため、「コネ」があまり好意的に評価されることはないが、欧米では、優秀な研究者と人脈があるかどうかという部分も、優秀な研究者になるための資質として評価される。

学生として留学するにせよ、仕事を得るためにせよ、欧米で実績のない人たちは紹介状を英語で用意する事が求められる。ここで、実績のない研究者に紹介状を書いてもらっても意味がないどころか、時にマイナスポイントに換算されることになる。特にDrを取っていない教師からの紹介状は、その人が名の知れた論文を書いていない限り、致命的な欠点として捉えられる。

適切な研究者をアドバイザーに選ぶ能力があるかないか、というのはけっこう大事な評価ポイントなのである。

私の業界は、1950年代のアメリカ由来という経緯があるせいか、元々、西欧の流儀に習っていることも多い。

日本だけではなくて、世界で名の知れた日本人研究者というのもけっこういる。

そういうこともあって、我々の業界では海外でPhDを取るということが珍しいことではない。

個人的な感想を言わせてもらえれば、オリジナリティーのある研究ができない研究者に全く意味はないと思うし、また、10年も20年も研究者を自称しておいて、人に引用、批判されない論文しか書いていない人間に存在価値はないと考えている。

日本の大学で、年配の先生方と話をさせていただく時、チョムスキーの著作を1年ないしは数年かかって読み込む事が「研究」であるという説教を受けることがある。彼らの授業では、チョムスキーの言っていることを時に分かりやすく、時に小難しく学生に説明し、自分がいかに難解な概念を理解し、高尚なことをしているのかというアピールをして自己評価を高めるということが行われているようである(話に聞いただけで、受講したことはないから知らない)。

こういう価値観は、正直に言って、「いい」とも「悪い」とも思わない。ただ、現実、「そうだ」と述べているに過ぎない。

つまり、一時代前はチョムスキーの言っていることを日本語で説明すれば、それで「仕事」として評価されていたことが確かに事実としてあったわけである。

研究の国際化が叫ばれるようになり、オリジナリティーのある研究成果を出す事が求められるようになってきた昨今、学会発表は英語で行い、論文は英語で書く事が普通になってきている。

実際、私も言語学に関しては英語でやり取りする方が楽だと感じられるくらいである。

こういう国際化が推進されるようになれば、そのうち日本の大学の授業でも英語で行うことが一般化することになるであろう。

英語で議論し、英語で物を読み書きすることが一般的になる。

こういう状況に大学教育がシフトする事は、我々、PhD組にとっては確かにアドバンテージであり、恐らく就職や転職にも有利になるであろう。

しかし、一方で。

自分が日本における英語侵略の片棒を担いでいるのにも関わらず、日本にいるのに日本語で用を済ますことができないという状況を多少危惧する向きもある。

高等教育の何もかもを英語で行うこと、それは日本の大学が独自性を失うという意味も含むわけである。

恐らく、言語学を追求したければ留学する以外にはないという傾向に拍車がかかることになるであろうし、西欧の文学や哲学を追究したければ、やはり留学する以外にはないという風潮が作られることになる。

その時、日本の大学で学ぶことはなくなり、海外の大学へのステップアップでしかないという価値しか日本の大学に求めることがなくなるのではないか。

もしくは、学歴を手にするための就職予備校。

そういった状況を、我々は望んでいるわけではないということは申し添えておきたい。

日本の大学が研究機関として、独自の価値を生み出し、世界各国から優秀な人材を集める事ができるようになること。

そんなことは可能なのであろうか?

一介の学生に過ぎない私は、単に英語力が求められるようになってきたという現状を理解し、うまく自分の出自をアピールする以上の事をするつもりはないが、私がアメリカやイギリスで学んで来た事をうまく日本語で伝えるということも自分の重要な仕事の一つなのではないかと思う。

英語で授業をすることによる英語力の向上の期待(もちろんそんなものはないと思うが)について、及び外国語学習の意義については、また近いうちに書きたいと思う。

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2008年11月28日 (金)

モダリティの可視性ガイドライン

幼児が第一言語を習得するに当たって、当面、言語能力というものを仮定してみましょう。

要するに視覚能力や聴覚能力みたいなもんだと思っていただいて、けっこうです。

それで、英語圏に生まれた幼児は当然、英語の言語刺激を元に英語を習得し、日本語圏に生まれた話者は日本語刺激を元に日本語を習得することになります。

語彙の差ももちろん大きい(というか、具体的なレベルでは共通点がないほどですが)わけですが、文法体系ももちろん異なります。

英語はSVO言語だし、日本語はSOV言語。

英語では、「What did John buy?」と、wh要素を用いる疑問文ではwh要素を文頭に持って来るという規則がありますが、原則、日本語ではそういう制約はありません。

「ジョンが何を買ったの?」

でも、

「何をジョンが買ったの?」

でも、どちらでもオーケー。

日本語は元々、語順が緩やかな言語なので、どちらの語順も幼児は耳にするのでしょうし、それより何より、SOVという語順なので、wh要素が動いているという根拠が見つけづらいわけです。

英語だと、SVOという語順なので、Vが言わば参照点みたいな感じになっているので、「お、wh要素はいっつも動いているな」という規則性を幼児が見つけることができるわけです。

それに助動詞を動かして疑問文を形成するという部分も大きい。

こういう習得プロセスを、言語学で「+whのスイッチが入る」というような言い方をすることがあります。

つまり、人間言語としてはwh要素を動かすか動かさないかという2つのオプションがあって、言語刺激を元に、どちらのオプションを選択するのか幼児が判断し、身につける。

ということを仮定しているわけです。

人間言語ならありえる規則群、つまり原理のようなものがあり、それぞれの原理はパラメータのセッティングがあって、融通が利くようになっていると考えているわけですね。

それで、日本語と英語を比較して、より抽象的で一般的な規則郡の性質の解明をしようとしている言語学者の多くは、よく日本語の文法規則の「貧弱さ」のようなものを仮定しています。

さきほどのwhのパラメータでいけば、当然、「マイナス」になるわけですし、英語と比べると、冠詞のようなものもないですし、時制を表すような文法要素もちょっと貧弱。

凄くクレバーな人なのですが、N・F(業界の人はすぐ分かると思いますけど)という日本人言語学者がこの手の差異に特に注目し、所謂、機能範疇と呼ばれるような、時制、冠詞のような要素は幼児が習得するに当って、言語刺激として与えられなければ発現できないという話を展開されています。

要するに、これら機能範疇の発芽には、言語刺激が必要であり、そういった刺激がなければ発現しないので、各言語間に見られる文法の差異の源は機能範疇に還元できるという話です。(もちろん、単純化して喋っています。詳しくは、大修館から出ている「自然科学としての言語学」をご覧下さい。たぶん、どっかの図書館にあるはず)

しかしながら、一方で。

日本語では刺激が強いのに、英語ではあまりないという部分もあってしかるべきです。

そういった日本語での「豊かさ」の一つの指標に、モダリティ表現というものがあるのではないかと思います。

モダリティというのは、文の内容に対する話し手の判断や心理を表現するもののことを言います。

例えば、「今日はいいことがあるだろう」という下線部表現がそれに当たります。話し手の予測を表現しているわけですね。

人の心理を表現する場合、日本語では、主観的な感情の場合、特別なモダリティ表現を必要としませんが、客観的な感情の場合、何か特殊な表現が必要です。

例えば

(1) 私は悲しい。

(2) ??あなたは悲しい。

(3) ??彼(女)は悲しい。

という例が挙げられます。一人称主語の場合、「悲しい」という感情を表す形容詞だけがあって、それだけでオーケーですが、二人称、三人称の場合、「悲しそうだ」のような表現でなければすわりの悪い文章になってしまいます。

この手のモダリティ表現がけっこう日本語では豊富ですが、英語にはあまりないですよね。

先日、日本語を学んでいるイギリス人学生と喋りましたが、

(4) 女の子は悲しい。

という文章を見て、そのすわりの悪さを説明するのにけっこう苦労しました。(ちゃんと説明したわけですが)

英語では、そのまま

(5) The girl is sad.

と言い切ってしまって問題はありません。法助動詞などを使用することによって、モダリティを表現することはできますが、主観性・客観性を区別するマーカーが特別英語にあるわけではなさそうです。

主体性や客観性が言語表現として現れると言えば、ちょっとおかしく思われるかもしれません。

しかしですね。

日本語では「自分」という代名詞の指示性がけっこう特殊で、いろいろな場面で使えるわけですが(英語のselfに対応する、だけでは全然間に合いません)、その機能を記述するのに、「視点投射」なる文法構造を仮定する研究者もいるほどなので、この方向性自体は間違っていると一概には言えないのではないかとも思います。

日本語を第二言語とする人たちと接していると、いろいろなことに気がつく機会があるのはなかなかに楽しい。

なお、理論的な観点から言えば、音形のある要素で直接、モダリティを表現するようなオプションがある場合には、純粋に文法操作(agree/feature checking)を喚起させるスイッチが入るわけではないとされています。(e.g. Fukui & Sakai, 2000)

多少小難しいことを申しますと、英語では抽象的なコンピュテーションで処理する操作を、日本語ではPFやLFで処理する傾向があるのではないか、という立場です。今回の話ですと、モダリティを語彙的に表現するオプションが豊富なので、文法操作の貧弱性を語彙で賄い、一つの文法システムとしてのバランスを取っているということでしょうか。

最後に専門的な話になってしまってすまない。

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2008年11月21日 (金)

code-switching

こっちで日本語と英語の両方のリテラシーのある人と話をしていると、英語で喋ったり、日本語で喋ったりと、言語をチャンポンすることがあります。

こういうのを一応、言語学用語でcode-switchingと言います。

まぁ、英語で話した方が分かりやすい場合もけっこうあるし、話し相手の第一言語が日本語でない場合にはコードスウィッチしちゃうことがちょこちょこあります。

一応、外国語リテラシーのある人の話なので、元巨人の長嶋茂雄さんの変な英語混じりの日本語は、基本的にcode-switchingの例ではない、はずです。

code-switchingは日本語と英語のように全然違う言語でも起こりえますし、同一言語の方言間でも起こりえます。

例えば、大阪弁を第一言語にしている人が、東京弁混じりに喋る、とか。

私は日本語と英語ではcode-switchingを起こしますけど、日本語ではあまりないですね。たぶん、大阪弁以外よう喋らん。

無理して東京弁を喋ると、「なんか変」と言ってみんな笑います。

ふん。(-゛-メ)

個人が喋る言語も年とともに変わっていくのは、言語学ではよく知られた事実ですが、周りの言語刺激が自分の第一言語と似通っている場合には、微妙にチャンポンされてしまうようですね。

まぁ、言葉なんて全部方言なんだし。

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2008年11月17日 (月)

価値観の構築

最近、同志社だの慶応義塾だのといった名門私立大学で大麻を栽培していただの、常習していただのといった理由で捕まっていることが多いようである。

俳優の加勢大周さんもそれで捕まってしまった。

医学的見地から言えば、大麻の症状なんてたいしたことはないのであろう。実際、合法な国もけっこうあるし、煙草よりよっぽど安全だという見解を取る医者は随分と多いようである。

高校生の頃に村上春樹さんのエッセイを読んでいていて、春樹さんがアメリカ滞在中に大麻を経験したという事がエッセイに書かれてあってちょっと驚いた経験があったのだけれど、確かにアメリカで大麻の取り締まりはそれほど厳しくなかったということを記憶している。

実際、UWの学生さんたちの少なくない人たちが大麻をやっていたということを知っているし、一部の日本人留学生に「ハッパ(要するに大麻)やらない?」と誘われたことが何度かある。

全て「興味ないからいいや」って返事で断っていたのだけれど。

この手のハッパをやっている人たちのパーティーって、一種特殊な所もあって、まぁ、ぶっちゃけて言えば乱交パーティーみたいなことをやっている人たちも少なくなかったです。

偏見が助長されるかもしれませんが、私の当時の英語力が正しかったとすれば、同性愛者同士でシェアしているフラットや家なんかでは、毎週末に大麻とお酒と乱交パーティーをやっているという噂話をよく耳にしました。まぁ、聞き違いはなかったのではないかと思っているのだけれど。

一般的にシアトルという場所は安全な土地ということで知られているし、よっぽどでなければ犯罪に巻き込まれることもないのですが、パイオニアスクエアなど一部地域では夜になるとバイヤーさんたちが暗躍するということは地元の人たちなら誰でも知っている事実。

ここから想像するに、もっと治安の悪い地域なら推して知るべしといったところなのではあるまいか。

私自身の懸念としては、麻薬のバイヤーのルートが確立されるということがある。

大麻自体はたいしたことがないかもしれないが、大麻に飽き足らない人たちが次のステップに進みたがるであろうということは想像に難くないし、違法行為が罷り通るようになれば、その後どうなるのかということはどうなるか分かりそうなものです。

深読みのし過ぎなのかもしれないけれど、この手の麻薬犯罪に非常に「幼稚な」香がするのは気のせいなのだろうか。

麻薬常習者たちの顔は知らないですが、なんか、

「麻薬をやってる俺たち、私たち、かっこいー」

という言葉がどこからともなく聞こえてきそうな気配すらする。

言うなれば、「今時、ハッパの一つくらい経験ないと」といったような、妙な方向への背伸びのような状況があるような雰囲気がある。それはちょうど、中学生で喫煙の経験があればちょっと背伸びができたようなそういう感覚に近いのである。

伊集院光さんがラジオで言って、その後、ネットで定着したらしいのですが、こういうやたらと背伸びをしてイキるような態度のことを「中二病」と呼ぶことがあるそうです。確かに言い得て妙なところがありますね。中学生時分だとけっこうイキりたくなることはあるものです。

問題なのは、そういう中二病を20歳を過ぎた大人である大学生がまだ煩っているところでしょうか。

思えば、学力低下、ゆとり教育が叫ばれて久しいですが、私個人としては「中二秒の蔓延」がけっこう問題なのではないかなって思います。

学力に伴う一つの価値観の構築だと思うのですが、どうも「勉強しないで肩書きを得る」ということが昨今のステータスになっているような気がしてならない。

なるべく勉強しないで、模試でいい成績を収め、それで東大や京大に受かる事が素晴らしい。勉強して難関大学に入るのは大したことではない。

この風潮は別にゆとり教育世代だけでもなくて、私のような氷河期世代、見捨てられた世代でも共通の価値観みたいなもので、いかに勉強しないでいい成績を収め、いい大学に受かるかという部分がある種のステータスでもあるかのような幻想があったような気がする。

テスト前でも、「やべー、俺全然勉強してねー」とかいいつつ満点を取るとか、「(自称)受験勉強ちゃんとしてない」のにも関わらず、高学歴とされる大学に受かるということが「地頭がよく」、「要領がよく」、かつ「頭がいい」とされていたような風潮ですね。

当然、大学でもいかに効率的に優秀な成績で単位を収めるかという部分に価値基準が置かれていたような雰囲気があります。要するに、「勉強していないんだけど、成績はいい」といういうことが賞賛されることであるかのような空気が蔓延していたような感じがある。

ついでに、いかにアウトローに進み、法を犯し、なるべく多くの異性と経験がある事が優秀な人間であることの証明であるかのような雰囲気は、確かにありました。

夜にクラブに行って、麻薬をやって、それで行きずりの女(男)と寝るということが「かっこいい」ことであると思っている人たちが多かったように思います。

これこそ、なんか「中二病」の最たる物って感じですよね。なんか、いい大人のすることではないような気がする。

私個人の話としては、なんか受験勉強をしていないetcと言うことに抵抗感があったので、堂々と「勉強したよ」と言っていました。正直に言って、高校時代は野球ばっかりしていてまともに勉強していなかったので、野球を引退して、勉強に打ち込んでいるということ自体は全然恥ずかしいことだとも思わなかったし、自分が勉強しているのでいい成績を取るのは当然の事だという自負心のようなものもありました。

俺は勉強しているんだから、勉強してない奴なんかにゃ負ける気がしねー。

という気持ちですね。実際、公言していましたが。

遊びは、まぁ、全然遊んでいないと言えばウソになりますけど、クスリの類いに手を出すことはなかったですね。そんなことがかっこいいとは全然思えなかった。

一度、ここでもカミングアウトしましたが、けっこう若い頃にタバコに手を出してしまいましたが、自分でろくに金も稼げないのにタバコを吸っているという行為自体が許せなくて、すぐに止めました。今では嫌悪感しか残っていないです。

そういった経緯を経て、大学生になった時期にいろいろと刺激を与えてくれたのは、当時、阪大の院生だった人たちでした。

彼らは優秀な人たちだったので、今では無事に大学で教員職に就かれていますが、彼らと話をする事は楽しかったです。

みんな一様に、自分の好きなことに対する貪欲な知識欲は凄かったし、そういった知性と一緒に話をするのは10代後半だった私にとってはとても刺激的な体験でした。

昼間っから、(授業はサボってましたが)あーだこーだといろいろな議論に白熱し、そのまま石橋駅前でお酒を飲みながら(未成年でした。ごめんなさい)終電近くまでいろいろと喋れたのはとても楽しかった。

そういう知的興奮は今でも自分の価値観を支える一部でもあるし、この感覚はUWでよりいっそう強くなりました。

特にフォーマリズムに基づく言語学に関する話は、私にとっては未知の世界だったので、毎日が刺激的であったことを覚えています。英語の大量のreading assignmentが全て興味深かったし、私のresearcherとしての下地はここにある。英語というツールの強さを実感した経験は、今でも強く強く覚えています。

知識を増やすこと、また自分の知性を活用すること。さらには、知的で魅力的な人たちと交流すること。

これは、素敵な女性(もしくは男性)とデートするとかいったことと同列の、とても意義深くて楽しい体験なのではないかと思います。

しかしながら、今の日本の教育制度において、知性を活用し、知識を吸収するということ自体の意味が軽視されているような気がしてならない。

料理に味をつけ、調理法を模索しておいしくて見栄えのする料理を作り、自分の気の合う異性と愛を育むという経緯自体に繁殖上必要なことがなくとも、その行為自体に意味と意義が見いだせるのと同じく、人間は知性を活用するということ自体に喜びを見いだせるものなのではないかという信念が私にはある。

栄養が取れれば、子孫が繁栄すればそれでいいというわけではなく、そのプロセスに意義を見いだすことのできる生物がホモサピエンスであるという確信である。なんなら「幻想」と言い換えてもいい。

もちろん、この信念は、全ての研究者に共有されているものであると信じたいし、あわよくばより多くの教育者、または学徒に共有されることが可能であると私は思う。

「学ぶ」という行為自体が意義深く、また楽しくて、かっこいいことであると公言することのできる大人を一人でも増やす事。

それが、今の日本に必要とされる教育改革の一つなのではないかと私は考える。

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2008年11月14日 (金)

失読症

太郎くん、じゃなかった、麻生総理大臣に漢字の知識がないのではないかということがニュースになっている。

どうも「頻繁」や「踏襲」といった漢字が読めなかったらしい。

まぁ、漢字なんて思い違いなんかもあるだろうし、それに多少なら誰でも間違うこともあるんだろなって私なんかは思うのだけれど、世の中では失読症と呼ばれる病気もけっこう有名です。

俳優のトム・クルーズさんがカミングアウトしてけっこう有名になったけれど、ある種の単語を見ても意味が分からないだとか、読めないだとかいった症例が観察されています。

ちなみに英語ではdyslexiaと呼ばれます。

一般的学習機構には特に障害がないということもあり、言語学をやっていると、入門なんかでこの話を耳にすることがあります。(少なくとも、UWではやっていた)

現在のアメリカ大統領ジョージ・ブッシュもこの学習障害にかかっていると考えられているので、もしかすると一般的な学習障害かもしれないと思われる向きもあるかもしれませんが、けっこう著名で頭がいいと考えられる人たちもこの症例であったと考えられていることがけっこうあります。

例えば、有名な俳優ではキアヌ・リーブスやオーランド・ブルーム。

起業家のヘンリー・フォードに、技術者のブラハム・ベル、トーマス・エジソン。

アメリカ大統領で言えばジョン・F・ケネディ、ジョージ・ワシントン、ネルソン・ロックフェラー。それにイギリス首相でウィンストン・チャーチル。

漫画家のウォールト・ディズニーに、科学者のマイケル・ファラデー、アンリ・ポアンカレ、ウィリアム・ジェイムズ。

それに言葉を生業にしている作家でもジョン・アーヴィングやアガサ・クリスティといった面々が失読症であった(る)と考えられています。

まぁ、故人もいるのでどこまでが事実だったか分かりませんが、文字が読めないということだけを盾に只管「無能」だとか、「バカ」だとかいったレッテルを貼るのは少々お門違いなのではないかと思います。もうちょっと理性的な部分で叩いて欲しいものだと思いますが、大衆は分かりやすいことを理由にレッテル貼りをするのが楽だという部分があるのかもしれませんね。

個人的な意見を述べると(理由はまた気が向いたら書きますけど)、麻生総理はちょっと総理の器ではないなと思う事は多いです。まぁ、今の所は、ばらまきを除いて及第点といったところですが。

ちなみに私個人は、意外と漢字の読み書きに弱い面があります。若干、失読症の気はあるのかもしれない。

ってか、単に抜けているというか、天然ボケの部分が大きいだけなのかもしれないけれど。

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2008年11月 8日 (土)

文法、中枢?

えと、知り合いがやっているのであんまりきつい(?)書き方はしたくないのだけれど。

長期学習者は英語を省エネ脳で理解 文法中枢調べ判明

『東京大、宮城学院女子大などのグループは、英語を学ぶ際に重要な働きをする脳の部位を突き止めた。英語力を定着させるには、短期間での習得よりも、6年以上続けて英語に接する方が重要なことがわかった。米脳科学誌電子版に発表される。

 東京大の酒井邦嘉准教授(言語脳科学)らは、中高生に英文を見せて文法の正しさを判断してもらい、その際の脳活動を調べた。すると、母国語である日本語を理解するのに使われる左脳前部の「文法中枢」と「文章理解の中枢」と呼ばれる部位が、英文を判断するときに日本文のときよりも、より盛んに活動することがわかった。

 また、習熟期間の違いについて検討。英語の学習期間が1年以上6年未満の短期習得者と、6年以上学習を続けている長期習得者を比べた。すると、短期習得者は文法中枢の活動が盛んな人ほど成績がよく、長期習得者は逆に活動が低いほど成績がよかった。

 この結果、短期習得者は英文を理解するために文法中枢に蓄えた知識を総動員しなければならないが、長期習得者は文章を理解する回路がすでにできあがりスムーズに思い出せるようになっていることがわかった。熟練により英語力が定着すると、省エネ型の脳になるらしい。(鍛治信太郎)』

えと、具体的な記述がなさ過ぎて、ある程度、推測で内容を埋めていかなければいけないのだけれど。

遺憾な事に、この手の実験をしている人たちの理論的バックグラウンドは生成文法です。

すんません。

というわけで、生成学徒の一人としましては、この手の短絡的と言いますか、ちょっと楽観的に過ぎるお伽噺の経緯をきちんと説明して、ちょっとでも世間様の誤解を解く義務があるのではないかと思うわけです。

もちろん、こんなサイトでちょっと一言二言言ったところで、天下の朝日様の購読者数に対しては焼け石に水ということは重々承知いたしておりますが。

しかしながらですね。昨今の、短絡的で、アカデミズムの性質を全然理解していないし、理解しようともしない人たちが主導している「教育改革」なる錦の御旗の元では、この手の「ウソ」も必要になるというジレンマがあるのです。

最近の教育では、それこそノーベル賞やフィールズ賞につながるような大きな研究分野を開拓する余裕が奪われていて、もっと短期的に目に見える形で、実用性のあると思われるような研究だけが評価されるようになっているので、研究費をせしめようと思えば、それこそ流行廃りを適格に読まなければいけないという状況になっておるわけです。

バカらしいですね。

それで、言語研究なんかになると、「脳」と「外国語学習」というキーワードがあると、内容はさておき、優先的にお金がもらえることもあるので、けっこう割り切って法螺を吹くこともあるわけですね。

そういう観点から言えば、この「研究」は重要なキーワードが散りばめられているので、なかなか狡猾なテーマでもあるわけです。

まず、彼らの結論の「長期的に英語学習をした方が重要だ」という箇所はなんだか「当たり前」過ぎて、箸にも棒にもかからないということはお分かりでしょうか?

当たり前ですよね。長期間学習してるんだから、それだけ単語量も熟語量も増えるだろうし。

これって何か新発見なんだろうか?

一応、(第一、第二を問わず)言語習得に対しては、学習という要素が重要だという事に関して、言語生得説をとる人たちもとらない人たちも意義は唱えません。

自明の理に過ぎるからです。(もちろん、その自明の理のメカニズムを解明することは興味深いトピックだと思いますけど)

それと左脳前部の「言語位」というのは、おそらくウェルニッケ野のことを言っているのだと思いますが、これにも多少付け加えを。

脳機能局在論という考え方があります。

平たく言えば、人間の知的活動、生命活動を司る部位が脳の異なる箇所でそれぞれ行われているという話です。

ウェルニッケ野はブロードマンの脳地図という有名な脳機能の区分けにおいて、22野という部分に当たり、左半球に存在するということが知られています。

なぜこの箇所が言語中枢として知られているのかと言えば、この領域の障害がウェルニッケ失語という特有の失語症を起こすということが、ドイツの外科医のカール・ウェルニッケによって発見されたからです。

それで酒井さんたちの実験チームでは、fMRIという脳の活動を測定するおもちゃを使っているのですが、言語処理の際に、この部位が活動的になるということが知られているわけですね。

長期的に外国語を学習した人が、短期的に学習した人よりもウェルニッケ野の活動が比較的少ないということが分かったということですが、そりゃ、ある種の単語や言い回しをほぼ機械的に覚えてしまって、えーっと、「deduce」の意味ってなんだっけ?あ、「演繹する」か!などというプロセスを一々経なくていい人と、経なければいけない初学者とで脳にかかる負荷が異なるのは当然ですよね。

何が新発見なのかほとほと疑問ですが、まぁ、「言語遺伝子」だの、「言語中枢」だのといった言葉を使って、脳の活動を測定した結果を見せれば、それで「研究成果」として認められるんですから、楽なものです。

この実験では、これまで知られていたことを単に鸚鵡返ししたという以上の意味はありません。

これで何か科学的に重要な新発見があっただとか、そういうことを言っているわけでもないので勘違いしないでやってください。

それともう一つ。

一応、生成文法では言語に特化した生得的な言語能力の存在を仮定しておりますが、別にそれは言語能力に対応する部位が脳の中にあると言っているのではないです。

経験科学ですから、ある種の現象等から推測していって、「あると仮定すると説明がつくもの」としてUG仮説というものを立てているだけです。

今後、なんらかの実験により、言語中枢なるものが発見される可能性はなきにしもあらずですが、基本的には、生得的な言語能力の(ソフト面の)モデル化を計っている以上の事をやっているわけでもありません。

言語処理の際にウェルニッケ野が活動的になったからといって、「ここにUGがある!」とか、そういう話でもない。両者に直接的なつながりがあるという理由は基本的にないです。

まぁ、ピンカーのように確信犯的に「ウソ」をつくこともよくありますけど。

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2008年7月30日 (水)

言葉に非寛容な言語研究者たち

過去にも書きましたが、言語学は「正しい言葉」を研究する学問ではありません。

自然現象としての言語を記述するわけですから、存在している言語使用をそのまま「事実」として記述します。さもなければ、国語教育になってしまう。

先日、国語世論調査があり、いくつか言葉の誤用が指摘されたようです。

例えば、「憮然」の意味に、「腹を立てる」の意味が含まれていると答えた人が7割ほどいたそうです。

へぇー。

正直、私の語感にそのような意味は含まれていなかったので、驚き。

他にも「足をすくわれる」ではなく、「足元をすくわれる」と答えた人が74%いたそうです。

ひゃぁ。

私に言わせれば、どうやって「足元をすくうことができるんだ?」って感じになっちゃうんですけどね。似たような誤用だと、「当を得た」と「的を射る」を混合してしまっているんじゃないかと思うのだけれど、「的を得る」と言ってしまう人も多いですよね。「的を手に入れて」どうするんだい?って思ってしまうのだけれど。

ただ、原文の意味がしっかりと存在していても、多数派が違う意味で使うようになれば、それはもはや「事実」として受け入れざるを得ません。

ですから、本来なら「的を射る」という言い回しで、そう使われていたのだとしても、多数派の人が同義で「的を得る」と言うようになれば、「語源から意味がずれた」としてその事実を受け入れなければならない。

「多数派」というのがイマイチよく分からないのだけれど、とりあえず70% は目安になる数字だと思われます。さすがにこれは事実として受け入れないといけない。

他にも文法システムで「ら抜き言葉」というのもありますが、これもある程度、言語学では「事実」として記述しないといけないでしょうね。あと、「全然」を否定文ではなく(専門用語で否定極性項目と言います)、単なる強意で使用する語法も「事実」ということになるでしょう。

ですから、言語学者にこの手の言い回しを「正しいかどうか」聞くのはナンセンスなのです。全うな言語学者であれば、7割の人が使用しているというデータを見れば、それは誤りではなく「事実でしょうね」という返事が返って来るはずです。

「けしからん」とか「日本語が乱れている」という返事を期待しているのであれば、日本国語協会だか、美しい日本語を守る会だとか、PTAだとか、ご意見番のうさんくさいお年寄りにでも聞きにいけばよろしい。言葉ってのは変わるもんなんです。

とは言うものの。

こんなことを言っている奴に限って、けっこう言語使用に保守的な部分があったりするわけです(この業界は意外と言語使用に対して、頑固で保守的な人の方が多いと思う)。

私も例外ではありません。

きっちりの金額を支払っているのに、「780円からお預かりいたします」だとか、「ペペロンチーノになります」だとか(なってみろ!)、現在の話をしているのに「お二人でよろしかったでしょうか」とか言われると、ちょっと「変なの?」って感じになります。

あとは、「ありえない」という言い回しになると、だいぶ不快感を感じてきます。「実際に起こったんだから、それは不可能ではないということやろ?」と言ってやりたくて仕方がない気分を目一杯抑えております。

そして、「やばい」を肯定的な意味で使われると殺意を覚えます。しかも、関東弁の頭の悪そうな言い回しで(関西人はなぜか関東弁に無性に腹が立つことがあるのです)、「なぁ、おい、このカレー超やばくね?」なんて言われると、握った拳を奮い立たせて、回し蹴りと会わせ技を食らわせてやりたくなります。耐えられない。

やっぱり、言語学者の言うことってワケが分からないですね。

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2008年7月11日 (金)

言語学のはなし(1)

生成文法という言語理論において一番重要なパラダイムシフトは、言語を分析するに当って、言語能力というものが人間の頭の中に含まれているという想定が共有されるようになったことと言えるのかもしれません。

これは共同幻想と言い換えてもいい。

経験主義的という考え方があります(e.g.ジョン・ロックの「タブラ・ラサ(白紙状態)」。

これは偏に、人間の知識は経験の集積であるという想定であり、言語能力というものもその一種であると考えられていたのです。

ですから、言語の分析においては、観察こそが全てであって、我々人間の内観や直感といったものはなるべく排除される事が望ましいと考えられていたわけです。

言語の基本は音声ということになりますから、言語の音に対する観察が広く行われていました。

特筆すべきは、構造主義言語学のプラハ学派ということになりましょう。

この時期の代表的な言語学者にロマン・ヤコブソンという人物がおります。

ヤコブソンの業績は、音韻論の発達に大いに貢献する事となりました。

音韻論というのは、音声言語における知的意味を区別する働きを持った最も小さな音の単位のことです。

簡単に説明しますと、英語ではrightとlightという単語において「r」と「l」という音の区別がそれぞれ異なる意味に貢献することになるので、音素であると言われます。

これに対して、日本語ではどちらの単語も「ライト」と発音しますから、「r」と「l」は異音であると言います。(音自体は異なりますよね。日本語話者は訓練なしには区別できませんが)

こういった音の区別を通して、音韻論、および音声学という分野が大きく発展しました。これらの業績は大変素晴らしいものがあると言って差し支えないかと思います。

ちょっと名前がややこしいのですが、当時、アメリカではアメリカ構造主義言語学という学派が力を握っておりました。代表的な論客がレナード・ブルームフィールドという学者です。彼はアメリカ言語学会の創設に携わることとなりました。

彼は徹底した科学的手法を言語学に取り組む試みを行いました。

彼の依拠する理論基盤は、行動主義心理学というものです。

行動主義においては、人間の主観や内観といった問題を離れて、純粋に観察を通して言語を分析できるという想定が中心を占めます。

ですから、人間の意思というものは徹底して排除することが求められました。

20世紀前半の言語学の研究対象は、あくまで言語は外部から観察するもので、人間から離れて分析するものであるという立場であったということが言えるのではないかと思います。

純粋に観察可能な音の分析はこの時期に飛躍的な発展を遂げたと言えましょうが、言語の構造や意味といった曖昧模糊とした対象は、純粋に客観的分析だけでは通用しない部分があるのではないかと思います。

何せ、意味なんかを考えてはいけないわけですから。

という疑問から、生成文法はスタートしたと言ってもかまわないのではないかと。

生成文法の創始者はノーム・チョムスキーというMITの教授です。

理論言語学が世界的に一番活発な場所がMITにあると言うと、けっこう意外な顔をされるのですが、まぁ、そうなんです。

えーっと、続きはまた気が向いたら書きます(喋るだけなら簡単なのですが)。生成文法の目標、80年代までの基本方針と90年代以降のミニマリズムの目標。それと私が考えていて、ヨークの学会で話してきたUGの負担を軽くする方向性の一つとしての、機能的言語理論の話。

なんか長くなりそうなので、気楽に書こう。

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2008年7月 9日 (水)

がっかいしゅーりょー

えぇっと、初の学会のオーガナイズが無事に終了いたしました。

ご参加いただいた全ての皆様に厚くお礼申し上げます。

学会の当初の趣旨としては、ロバーツ・トレーニング・マネーというのがお金の出所で、基本的に大学院生やポスドクにオーガナイズの訓練をさせるというもので、普通は内輪の会合というか、ちょっと有名人に声をかけて、大学内でちょこちょこと講演をしてもらってetcという程度で終わるのが普通なのです。

しかし、今回はGSBのGeorgeがアドバイザーになってくれるということで、公の学会にしようという趣旨のもと、話が進むことになりました。

うちの院生はもちろん、人によって研究する分野もバックグラウンドも違うので、どこかで「折り合う」点を見つけるのが一番の問題だったのです。

当初は、なんだか学会のアブストラクト原稿の書き方だとか、ジャーナルの編集なんかについての学会をやろうとかいう意見が多数派で、正直、「なんてつまらなさそうなんだ」という感想を持ってしまいました。

だいたい、そんな学会に来てくれる研究者はまずいないと思う。お金をはずまない限り。(だって、しょうもないもん)

というわけで、私が主導権を握って、生物言語学というか、学際的で広い視野を持った人たちに集まってもらって、言語理論と言語能力についてちょっと考え直そうという趣旨のもと、ちょっと新しいテーマで学会を形成していこうということになりました。

エディンバラのハーフォードとカービーが当初から色よい返事をしてくれ、しかもこの二人は近場でお金もかからないということもあって、invited speakerの選定についてはけっこう余裕があったというか、選択の余地がありました。

この二人は必ずしも生成文法のバックグラウンドを持っているわけではなかったので、後の二人は、生成文法の論客を呼んでみようと思って選抜させていただいたのです。

だいたい、畑の違う分野の人たちがぶつかり合うのはなかなか話が噛み合わないというか、うまくいかないということが多くて、日本のこの種の学会では随分と苦労が耐えないようなのです。

しかも、分野的にも新しいし、試みとしても非常に珍しかったので、正直、うまくいくかどうか不安でした。

call for paperを書く時には、なるべく生成文法に偏らないように、しかしながら読む人が読めば、ハウザー、フィッチ、チョムスキーの一連の論文の背景を意図しているということが分かるような書き方にする事を心がけたのです。

僅かながらの少ない文章ですが、一応、手間暇かけて書き上げました。

それと、お金があるのならinvitedで呼びたかったエディンバラのアナ・キンセラにも個人的にラブレター(?)を送っていたりしたのです。

その甲斐あって、文字通り世界中からスピーカーを集めることができ、非常に有意義な学会にすることができました。

議論も非常に活発で、思ったより噛み合っていたし、いろいろな背景を持つ人たちが有意義な意見交換をすることができた刺激的な学会になっていたのではないかと思います。特にハーフォードとカービーは生成もしっかりと勉強されているので、話がしやすいのです。

喧嘩をするでなし、馴れ合いをするでなし、しかしながら、お互いに批判精神を忘れないような方向性を保つことができたのは、偏に知的水準の高い研究者が集まったことによるものだと思います。

もちろん、我々コミッティーも、みんなそれぞれきびきびと動けていたのではないかと思われます。

夏のヨークで、しかも天候にも比較的恵まれたし、いい夏休みになったのではないか、と思えるような期間でした。

ちなみに、この一連の研究発表は、electronic journalのバイオリングイスティックスの特集号で刊行される予定なので、興味のある方はご覧下さい。

学会を組織するというと、比較的面倒な事が多いし、時間も食うのだけれど、人との出会いや知的錬磨の場を与えてもらえる等、労力に見合うだけの見返りを得る事は十分可能なのではないかと思う。個人的には、大変いい経験をさせてもらいました。数年後には、自分がどこかの学会に呼んでもらえるような研究者でありたいと思った次第です。

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コンファレンス・ディナーではスペイン料理を食べに行ったのですが、7時にミンスター前に集まったんですね。時計を見れば時間が分かります。まだまだ明るい。10時前まで明るいもので。ちなみに私はどこかにおります。

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実は1泊2日でエディンバラに行って来たのです。これはホリールード公園から眺めたエディンバラ市街の様子。写真だと雰囲気まで伝えきれないのが残念。ものすごくきれいなのです。エディンバラ城は見えますか?

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マセルインというムール貝専門店にて。キロポットと呼ばれる1キロのムール貝の蒸し物とフランスパンが名物。お値段は2000円ほど。生ガキも食べられます。おいしい。飲み物は冷えたビールや白ワインですね。一緒に食べた気分になってください。

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2008年5月15日 (木)

大人のおもちゃ

最近のインターネットの発達には凄まじいものがあって、場合によっては、昔ながらの商売が成り立たなくなっていることがある。

代表的なのは本屋さんでしょうか。アマゾンなんかのネット書店が一般的になってきたので、最近、多くの本屋さんが潰れたという経済ニュースがありました。

同じようなことが、アカデミックの世界でもありうるのかもしれない。

日本人の言語学者が中心人物の一人なので、言語学界隈ではけっこう有名なのだけれど、MIT OpenCourseWareというものがあります。

単刀直入に言えば、MITで行われている授業がそのままネットで体験できるというものです。

公開情報はタダで、しかも1年で開催される授業のなんと7割が掲載されているということです。

こいつはすごいですよ。本当に。課題だとかシラバスだとか、そのまま参考にできる。(パクリはしませんけど、引用はしようと思っています。今後)

理論言語学が世界で一番有名な学科って、実はMITにあるのだけれど、この事実は言語学関係者以外にとってはかなり意外な事実なのだそうだ。(他にも哲学とか経済学も強いんですよ)

もちろん、私は始めに言語学関連のページが気になってチェックを入れたのだけれど、何せそこは世界でも有名な総合大学(単科大学ではない)のMIT、他の学科もおもしろいおもしろい。

言語学だけ調べるのはちょっともったいないです。せっかくまだまだ思考回路も活発で、英語リテラシーもあるのだから、いろんな分野を渡り歩いてしまうわけです。

一度開くと、1、2時間は離れられません。(今後、慎みます)

情報革命って本当に凄いのだけれど、今後数年の間にインターネットを遊び道具というか、教材・教師代わりにして育ってくる学徒・研究者がバンバン出てくるのはほぼ疑いないと思う。

しかしながら、世界一流の授業がタダで受けられるとかいうことになると、なんかその他大勢の研究者って何のためにいるんだかって気にならないでもない。

日本の大学に進学して、実はたまに世界的に有名な人もちらほらといらっしゃるのだけれど、実は凡人やら、煮ても焼いても食えないような無能な人ってのもかなり多いわけですよ。(てか、そっちの方が圧倒的に多いわけだけれど)

私なんかは、運良く就職できても単なる凡人の一人に過ぎないと思う。

学生の立場からすれば、私なんぞに授業を受けるくらいなら、MITの例えば、IリンさんやDニーさんやDヴッドさん辺りの授業を聴講した方がよっぽどためになるだろうし、権威付けみたいなものにもなるだろうということになるわけです。

こんな感じで、世界一流の講義がネットで受講できるのなら、研究者もそんなにいりまへんという時代になるのかもしれない。

例えば、予備校の衛星授業なんかと同じで、MITになんらかのお金を払って、授業を衛星で流して、その分、人件費を削減しようとかいう大学が出てきてもなんら不思議はない。

講師は非常勤で英語のできる人を雇って、随時、英語の授業やら添削やら翻訳をしてもらえればすむわけだし。

多かれ少なかれ、そういう発想をする大学は出てくるでしょうね。

問題はそうなった時の日本の大学の存在意義でしょうか。

理系の、実験系は別に関係ないでしょう。元々、授業よりは実技の方が大切な分野なのだし、たいして影響があるとも思えない。

問題は、理系の数学や物理等の理論系、そして社会科学や人文科学の方です。

ぶっちゃけ、人の手を借りなくてもいいのではないかという時代になる危惧がある。

実はアメリカという社会は、けっこう人のつながりを重要視する社会なのです。

例えば、就職するにも進学するにもreference letterという推薦書が必須になりますが、これは誰に貰ったかというのがものすごく重要になってくる。

有名人とコネがあるかとか、人とのつながりを大切にできる人間かどうかを確認するわけですね。だから、書類が揃えられる能力というのが立派な能力の一つにカウントされる。

知識は一方的に垂れ流されるべきものではなく、人とのつながり、議論、ディスカッションをすることによって洗練され、向上すると考えられているわけですね。

ユニークなのは、MITでは、部屋の一面ホワイトボードとかいう部屋もあって、いつでもどこでも気が向いた時に気が向いた人と書き込みしながら議論できるとかいうハード面も整っているんですね。

イギリスでもコレッジ制というか、チューター制度というものが重要視されています。つまり、アドバイザーと議論することによって自分の理論を向上させることができるという信念ですね。

英語が母語だというアドバンテージがあるにせよ、アメリカもイギリスも大学の研究業績が素晴らしいということは言を俟たないと思うのだけれど、こういう人のつながりと議論を重要視する風潮は今後、日本の大学が生きていくためのキーワードなのだと思う。

つまり、マンモス大学で人をつめこんで、授業料だけ巻き上げるタイプの大学だけではなく、少数の学生に目が行き届く形でアドバイザーを宛てがうような教育システムというのがあってもいいのではないかと思う。

寺子屋みたいなもんですね。何せ、松下村塾にせよ、適塾にせよ、少数の学生と教師の自由で活発な議論を重んじるという風潮があって、その学力成果が江戸末期に多いに発揮されたという事実は有名な話だし。

明治維新という革命があれほどスムーズに行われたのは歴史的快挙であると申し上げて、あまり異論はないのではあるまいか。

教える側としても、学生の顔と名前が一致するのはなかなかいいもんですしね。顔が分からないくらい大人数相手に喋ったことが何度かありますが、どうも違和感がね。

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2008年4月 1日 (火)

意識を研究する

言語学にせよ、心理学にせよ、人間の「意識」という非常に抽象的なモノを扱っている。

よくよく考えてみると、「意識」というものを「意識する」のは、根本的に解決不可能な問題を抱えているということがわかる。

我々人間は、一応、生物学というか、動物の行動生理学について一応の理解はしているつもりだし、実際、学校教育というレベルでも、生物の行動様式について様々な「説明」が行われている。

単細胞生物のレベルにおいては、例えば、走性というものが知られている。ミドリムシに光を当てると、光源に集まるようになるというやつである。

他にも、蟻のコロニー最適化というのも有名である。

擬人化した物語においては、まるで働き蟻たちが示し合わせて行進しているように見えるが、実は先を歩いている蟻のフェロモンに従って「ただ歩いている」と考えられているものである。

他にも、例えば、高等生物においても発情期になれば、自動的にパートナーを求めるようになるとか、ニホンザルが尻の充血を見て興奮するとか、そういう話は有名である。

こういった、生物の行動学における「説明」は極めて無機的なものである。

蟻が徒党を組むのは、フェロモンの働きに過ぎないとか、動物が交尾するようになるのは、発情期だからとか、そういった説明がなされるわけである。

彼ら生物の行動は、「意識」が関わっているのではなくて、外部の要因に触発されて、それに反応しているのみであるという見解が取られているのが常なのであるが、これをヒトに当てはめても同じ事が言えるのではあるまいか。

仮に私がヒトではない生物であったとして、ヒトを観察し、以下のような結論を下したとする。

(1) ヒトは、夜になったり、疲れたりすると、睡眠をとる。
(2) ヒトは、腹が減ると、食物を口にする。
(3) ヒト、特にオスは、メスの裸を見ると発情し、性行為を行う。

なお、これらの行動の基盤となるものは、脳内物質の活動によるものである。例えば、性行為をするとβエンドルフィンが分泌されるなど、ヒトの行動は神経伝達物質の活動に反応しているようである。

この種のヒトという生物分析の切り方は、ある種、「正しい」のであろうし、何か、決定的に重要な特質を欠いているようにも思われる。

それは、ヒトがヒトであるからこそ、そういったある種の行動に意識が関わっているということを自覚できているからである。

意識それ自体を外部から観察、分析する事は難しい。

しかしながら、意識を研究対象とすることは、意識の持ち主であるヒトには可能なことであるように思える。

何せ、意識があるという事を意識できているということが、少なくとも自分には了解事項として認められているからである。

例えば、疲れれば寝るのは基本ではあるが、急を要する要件があるからということで、睡眠欲を抑え、夜通し作業する事はよくある。

腹が減っても、仕事の会議中だとか、食をとるという行為が望ましくないという環境下にある場合には、空腹を我慢するということがある。

それに、女性の了解を得ないで一方的に性行為に及ぼうとする男性は少ないし、仮に了解を得たところで、「他にパートナーがいるから」という理由により、性欲を抑制するということもよくある。

3大欲求が本能的欲求、大脳辺縁系の活動により刺激されているということに関しては疑いの余地はないが、ヒトは理性や意識によって、それらの活動をある程度コントロールできるわけである。

それはコントロールしている本人が分かっているはずである。

もちろん、欲望をコントロールする理性や意識という働き自体も、何かの脳内物質の働きに過ぎないのかもしれない。

そう考えると、意識があると考えているその意識自体も所詮、化学物質の働きの一つに過ぎないのかもしれない。

ちょっと他の文献に目を移してみよう。

ジュリアン・ジェインズは「脳機能分化論」において、ホメロスの「イーリアス」を分析している。そこでは、人は自由意志によって行動しているのではなく、神々の意志によって「行動させられているのだ」という見解が示されている。

これはなかなか示唆的な考察である。

神々の意志という言葉を、化学物質に置き換えれば、現代の生物学の認識と同じ事である。

ヒトがヒトを分析する時には、超人というか、第三者というか、ヒトの意識を離れたある種、超越的な視野が必要とされる。

その超越的な視野というもの自体、ヒトがヒトである以上、意識という壁を乗り越える事はできないわけである。

さらに一段階抽象度を上げれば、「客観的な分析」と信じているものそれ自体も、意識の束縛からは逃れることができないのではないか。

言葉や心理といった、ある種、五感による観察自体が難しい(言語なんて、単なる音の羅列に過ぎないわけだし)モノを研究対象としている人たちは、どこかで妥協しないとやっていけないのだろうけれど、意識という問題はしっかりと考えなければならない哲学的基盤であるということは間違いないのではあるまいか。

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2008年2月 1日 (金)

脳の快感

えーっと、今日のゲストはRoger Hawkins氏。

第二言語習得の観点から、人間の言語能力についての研究をされています。

細身で長身なんだけれど、どうも見た目が吉本新喜劇の井上竜夫そっくりで仕方がない。

なんかのはずみで、頭を打ったか、雷でも頭に落ちたかなんかして、急にクレバーな人になっちゃった感じというか、なんというか。

喋りは典型的なブリティッシュ訛で、しかもトークは抜群にうまい。お年ですが、ちゃんとパワーポイントも使いこなせているし。(日本の年配の研究者は機械や新しいことに疎いのがデフォールトですが、欧米の研究者は年に関係なく、新しい物をちゃんと使いこなせている傾向がある)

第二言語習得の人たちの話は、正直に言って、「なんじゃ、こりゃ!」とかいった感じで、だいたいがっかりさせられるのがオチだったのだけれど、今日のトークはおもしろかったです。

実績があるのは伊達じゃないって感じでした。非常にクレバー。

掴みのデータはウェクスラーたちが調査した、中国語を母国語とする人たちが英語習得にあたって行う接辞のエラーについて。

日本でも英語を初学者に教えたことのある人たちはお気づきかもしれませんが、例えば、現在進行形のbe動詞を落としてしまう誤りってよく観察されるんですよね。

He is running in the park.とすべきところを、He running in the park.としてしまうとか。

時制辞(tense marker)なんかだと、-edを動詞の後ろにくっつけただけでオーケーなんですが、進行形のような相(aspect marker)なんかは動詞の後ろにingをくっつけただけではダメで、be動詞という助動詞を使わなければいけないという単純な規則ですが、確かに一般化としてはややこしいですよね。

しかも、普通の一般動詞の現在単純形でbe動詞は使用しませんし。(He is lives in York.なんて誤りとか)

英語の母語話者はこういったエラーをしないわけですが、日本語や中国語を母語とする人たちはついつい誤った一般化を行ってしまうわけです。

第二言語習得という個人のレベルだけではなくて、シンガポール英語のように中国語と英語のハイブリッド(専門用語でピジンと言います)のような言語でもこのような傾向はあるそうです。

だから、He running in the park.とか普通に使われたりするらしい。(シングリッシュスピーカーの友人がいたので、ちょっと喋った)

他にも、日本人や中国人には難しいですが、一般動詞の現在形で単数形、複数形の接辞の誤りなんかもよくやっちゃうわけです。

例えば、以下の主語にwalkという動詞を現在形で、適当な形に直しなさいという問題を考えると。

(i) The guest
(ii) The guests
(iii) My music tutor's guest
(iv) The guest of my music tutor
(v) The guest of my music tutors
(vi) The guests of my music tutor
(vii) The guests of my music tutors

コントロール群として英語話者も交えましたが、エラーはゼロ。しかし、中国人の被験者は、(i)の正答率が80%、以下、順番に100%, 79%, 60%, 47%, 40%, 99%という結果になったそうです。

ふむ。

この種の問題では、名詞句の中心になる名詞を探して、それが複数形であれば、対応する動詞は屈折しないけれど、単数形であれば-sがつくという一般化が得られるわけですが、こういう動詞の接辞についての統語的規則が、人間言語の内在的能力として、一般的学習機構から外れた特殊なものなのか、それとも単なる学習により後天的に身につけた物なのかということを分析するのが、言語学者の仕事になるわけです。

人間固有の言語能力、つまり言語能力の初期状態の機能が豊かであればあるほど、人間言語の特殊性が記述できたことになるという思想に立てば、この種の一般化は、人間言語に特徴的な物であり、中国語や日本語を母語とする話者には、知覚できる接辞がないという事情により(つまりトリガーがない)、発現していないという結論に持って行くことになるのでしょう。

しかしながら、昨今のミニマリスト・プログラムという言語研究プログラムにおいては、こういう言語能力の初期状態の負荷をできるだけなくして、可能ならばすっからかんにしてやろうという研究方針があるのです。

要するに、何でもかんでもUGでっせというのはやめましょうという立場。

実際、接辞という形で知覚できるものがあり、ある種の一般化が可能なのであれば、幼児がこういった動詞の接辞群を学習する事も容易なのかもしれません。

まぁ、それは今後の研究をお待ちくださいということで。(強い証拠が+アルファで見つかるといいですね)

というわけで、今日はロジャー氏と昼間っからワインをかっくらって、いろいろと喋ってきました。とにかく頭のいい人といろいろ知的な話をするのは楽しいです。脳がキリキリするというか。

この種の感覚って、麻痺状態というか、麻薬みたいなもので、ものすごい快感なのだけれど、どうやって例えたらいいんでしょうね。

例えば、めちゃくちゃ好きな人がいて、その人から電話がかかってきて、ちょっとおしゃべりをしたとか、偶然会って、一緒にお茶をしたとか、キスをしたとか、なんかそんな感じです。

キリキリして、ふわぁと飛び上がるような感覚が、後者では胸の辺りにあるわけですが、前者だと頭の周辺にあったりするわけです。想像がつくでしょうか?

というわけで、後先考えず飲んだくったので、もう眠い。

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2008年1月25日 (金)

やりがい

夏にこっちでやる学会の準備をいろいろとしているのだけれど、主要責任者というか、首謀者というか、まぁ、そんな感じになっています。

でも、こういうのって嫌いじゃない。

参加してくれている人たちのコンセンサスも取れているし、今の所、そこそこ盛り上がってきそうな感じでよいです。後は、独裁し過ぎないように気をつけないといけない。なんか、自分の意見が通り過ぎて怖いくらいです。

組織は構成員の物であって、首謀者とて、一つの役割に過ぎないわけだし。

日本で学会を組織した事ってないのでよくわからないのだけれど、この国では学会にfundingをしてくれるような組織(例えばBri○ish Ac○demyとかL○GBとか)があるので、それのapplicationを書くのもけっこう大変。(前者は締め切りが過ぎているけれど、後者はなんとなせねばならない)

オーソライズされた学会かどうかって、その学会自体の魅力にも関わってくるし、それにkeynote speakerの選定でやりたいことがだいたい見えてくるので、方向性もしっかりと明確にしておかないといけない。一つ一つはおいしい具材でも、ごった煮にすると、鍋がおいしくなくなるのと同様に、方向性がバラバラな学会って、有名人が来てくれても「なんのこっちゃ」って感じになりかねないし。

夏のヨークは快適だし、ぜひとも派手な祭りにしたいものである。

えーっと、ちょっと仕事に戻ろっと。

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2008年1月22日 (火)

PhDの学生の苦悩

留学なんて一言で言ってもいろいろな形態があるわけだし、「留学は楽しかったー」とか、「また海外に住みたい!」だとかいう感想を抱くことってよくある。

実際、私もシアトルの1年滞在の経験は、基本的に楽しかったという思い出しかないわけだし。

まぁ、初の留学のくせにちょっとはったりをかまして、いくつか大学院のコースワークに潜り込ませてもらったわけだけれど、それもいつまでも続くわけではないし(だいたい1年先なんて先が見えているので、少々しんどいことなんて、アカデミックの刺激の前では疲れを感じる前に終わることができる)、ヨーロッパのようにupgrade、アメリカのようにgeneralといったような審査があるわけでもないので、そんな「胃に穴が開く」という程度のプレッシャーを感じることはありません。

所謂、留学してPhDというコースは絶対に進むという決心はしたわけだけれど、これに対して刺激になったのが、実際にUWで死にそうな顔をしながらPhDにいた人たちの存在。

TAなんかをして、目の下に隈を作って、本当にしんどそうに毎日を過ごしていらっしゃる。

言語学界隈で言えば、MITやUMassなんかでは、毎年数人のドロップアウトを出す程にコースワークも厳しいらしいし、PhDというまとまった業績を残すのと、それ以外の学士、修士、交換なんかとは、はっきり言って雲泥の差があるというのは明らかである。

正直に言って、たかだか交換留学ごときで「留学したことがあります!」なんて公言するのはなんとなく恥ずかしいなぁと思っていたので、そういった後ろめたさを吹っ切るためにも自分は学位を取らないといけないと思ったのです。

まぁ、私の動機はいつでも運と縁とタイミングと思い込みにより形成されているわけですけれど。

PhDの人たち同士で話をしていると、異口同音にみんな「しんどい」とか、「辞めたい」とか、「最近、勉強できてない」とか言っているのだけれど、こういう発言を聞いていると、ちょっと「彼らより一歩前にいるな」と感じることがある。

確かにしんどいことはあるし、全てを投げ出したくなる気も分かるのだけれど、そういう感覚が自分の中で芽生えるのはほんの一瞬の話だし、しんどくても自分のノルマを外した事は今の所ないです。

しんどかろうが、嫌気がさそうが、見返りに得られる刺激の強さを思えば、そんなものは苦痛でもなんでもないと常に思う。

そういう気でいられるからこそ、いろいろ幸運な機会が得られるという面もあるわけだし。

というわけで、ちょっとお疲れモードですが、あと1本論文読んでから寝よう。

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2008年1月10日 (木)

ゆとり教育

去年の10月30日の中央教育審議会において、授業時間数の増大が提案された。

平たく言えば、「ゆとり教育がうまくいかんかったから、元に戻しましょ」っていう話である。

よく考えれば変な話である。

それまでの教育カリキュラムについては、「詰め込み教育がダメ」とかなんとかそういう内容のないことばっかり言われていて、いざ直してみたら、「誰だ、こんな変な教育システムを導入したのは?」って話に変わって。

なんか、うんざり。

日本の高校までの教育システムがかなり高度に組織化されているということについては、世界の多くの大学における教育学において、優秀なロール・モデルの一つに挙げられていたわけである。

特にアメリカでは。

よく考えれば、以前の教育カリキュラムでやり玉に上がっていたのは、教育制度そのものではなかったような気がする。

なんか「勉強する奴は頭のおかしい奴だ」だとか、「勉強ばっかりしていると、バカになる」とか、「ガリ勉きもい」とか、なんかそういう奇々怪々な議論ばっかり上がっていたのが思い出される。

一時期、中学校や高校で教師がナイフで刺される事件が頻発し、これらに対して、教育評論家なる頭の不自由な人たちが一斉に、「詰め込み教育による弊害」を目の敵にしていたことを覚えていらっしゃる人たちも多いであろう。

だからね、別に、勉強すること、勉強ができるとかできないとかいうことと、人間性だとか、精神的成熟だとか、感情を抑えるとかそういう能力に直接的な関連性はないの。

どっちかと言うと、勉強という義務を果たしている人たちの方が社会的能力に優れていることは多いわけです。

なんてことを書くと、「最近の教師の性犯罪はどうなんだ?」とか、「エリート層の人たちがたくさん買春で捕まっているじゃないか」とか言われそうだけれど、こういった犯罪って、単に、相対的な割合が少なく、ニュースバリューがあるので、教師や官僚が叩かれているだけ。もちろん、不況(というか、好況なんだけど、一部の人たちに利益を吸い上げられている状況)なので、会社員たちの不満のはけ口がてら、ニュースにされているという部分もある。

でも、確かに小学校の教師とかで、変な人は多いですね。O阪市T橋区で、「勉強したら、人格が曲がる」とか、I野区でも「勉強なんかせんでいいの」とかって言って、児童の頭を殴るような人たちがいて、ちょっとびっくりしたことがある。

なんてまるで、ゆとり教育を批判するかのようなことを書いていますが、私個人としては、そのコンセプトは悪くなかったのではないかと思う。

ゆとり教育推進の第一人者は寺脇研という人だったわけですが、彼がどのようなコンセプトを持って教育改革に当っていたのかという一部始終は、村上龍さんとのメディアマガジン、および発行された本に納められているのだけれど、確かに方針としては悪くなかったと思う。

なんだかんだ言っても、教育というものは、学校間格差や、世代格差、地域格差といったものが大きく影響するので、最低限やらなければならないという部分だけを固めておき、それ以上は現場の教師の裁量によって柔軟に変化させてかまわないというのがゆとり教育の根本だったのである。(あくまで、理想)

ただ、現場の教師たちは、「最低限教えなければならない」という部分を、「これだけしか教えてはならない」という意図だと錯覚、曲解し、話があらぬ方向に進んだわけである。

所謂、総合的な学習の時間ってやつは、元々、進度の遅いクラスでは復習を、速いクラスでは+アルファのものを、という意図で用意されたものであったらしい。

まぁ、現場の教師に優秀な人たちが多くて、生徒は元来勤勉なものだという前提があれば、おそらくうまく機能したのではないかと思うのだけれど。

ただ、一言言っておくと、寺脇研さんという人は、言行不一致で、二枚舌も三枚舌も使うとんでもない大ホラ吹きだったみたいですね。まぁ、音頭を切った人も悪かったわけだけれど。

いろいろと考えたのだけれど、問題の根本は、どうしてうまく機能しているシステムを崩しにかかったのかという一言に尽きるのかもしれない。

変える勇気も必要だけれど、変わらない勇気も必要だと思うのだけれど。

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2007年12月24日 (月)

言語は機能的か?

言語進化の問題というものを考える時に、「言語は機能的か?」という問いが立てられることがよくある。

人間が言語表現という媒介を通してコミュニケーションを図る以上、その言語表現の機能上に何か有効なメカニズムが働いているはずと想定する可能性は考慮すべきものであるように思える。

しかし、事はそう簡単ではない。

進化論というものを語る上で、ダーウィニズムという概念がある。

基本は自然選択というやつで、適者生存、すなわち環境を活用するのに優位な特質を持った生物種が生き残り、不利な生物種が生存競争に負けるというものである。

人間という生物種が今日、優位な立場に立っており、言語能力を活用してきたという部分がほぼ自明の理として捉えられている以上、言語表現の優位性については考慮がなされるべきことなのかもしれない。

まったくの理想論から言えば、現段階の人間言語は極めて理想的に機能的であるという予測がなされるわけであるが、これが非常に難しい問題でもある。

Greenbergという類型論者(いろいろな言語を調べる学問をやっている人のこと)がおり、1963年に言語学者の間では自明の理とされている語順についての研究がある。

Greenbergの一般化によれば、VSOの語順を持つ言語で前置詞(名詞句の前にくっついて、動詞句なんかとの意味関係を作ったりする語のこと。英語のinとかtoとか)を使用している言語が6つ、後置詞(逆に名詞句の後ろにくっつく語。日本語の「で」とか「に」とか)を使用している言語がゼロ。

SVOの語順の言語で前置詞を使用している言語が10コ、後置詞を使用している言語が3つ。

SOVの言語で前置詞を使用している言語がゼロ、後置詞を使用している言語が11コ。

という統計が出ている。

これを単なる偶然と見る向きもあろうが、それにしても極端な偏りがあるということは特筆すべき事である。確率論的には、VSOの言語全てが前置詞を使用する可能性は2の6乗、つまり64分の1、という可能性だし、SOVの言語全てが前置詞を使用する可能性に至っては2の11乗、つまり2048分の1ということになる。(暗算間違えてたらごめんなさい。今、酔ってますねん)

偶然というのには極端な感じがする。

この分布に対してはある種の「説明」がなされるべきであろう。1つの可能性としては、こういうものがある。

Newmeyer(フリッツですな)が1998年に出版したLFLFという本の中では、以下のような機能的要因が考慮されている。

まず、説明するのがめんどくさいので端折ると(McCloskeyのIrishかAdgerのScottish Gaelicの説明でも見てください)、VSO言語はSVO言語から派生されたもの、もしくは同一の物であるとする議論を組み立てることが可能である。(つまり、SVOからVがSの前に移動しちゃうのです。「移動」という概念は言語学ではよく使われますけど、要するにある場所に元々あったものが、まるでどっかに動いてしまったかのような現象の事を「移動」と呼んでいます)

SVO言語で前置詞を使用する言語(一般的)だと、構造が「動詞 名詞 前置詞 名詞」という語順になる。(動詞は他動詞、つまり目的語になる名詞があると考えています)それで、SOV言語で後置詞を使用する言語(一般的)だと、構造が「名詞 後置詞 名詞 動詞」という語順になる。

それに対して、SVO言語で後置詞を使用する言語(まれ)だと、構造が「動詞 名詞 名詞 後置詞」という語順になり、SOV言語で前置詞を使用する言語(まれ)だと、構造が「前置詞 名詞 名詞 動詞」という語順になる。

一般的な語順だと名詞の連なりがないので、動詞と前置詞・後置詞とのつながりが分かりやすくなり、理解しやすくなる語順であると言うことができるわけであるが、後者のまれな例だと名詞の連なりができてしまい、動詞と前置詞・後置詞とのつながりが分かりにくくなるという事体に陥ってしまう。

だからこそ、より機能的、つまり言語表現が使用しやすい形になっていると言うことは可能なのかもしれないけれど、ちょっと難しい問題がある。

頻度は低いものの、処理しにくいとされる語順の言語も一応観察されるわけである。

それはそれで言語として、個別言語としてちゃんとしたシステムを持っているわけである。

ということは、確実に、ある種の観点から見れば、「機能的ではない」と思われるような言語もちゃんと存在しているわけである。

「機能的」という価値基準はそもそも、相対的な物であり、ある種の観点から見れば機能的ではあっても、ある種の観点から見ればそうではないということは大いにあり得るわけである。

だいたい、機能的という概念自体、コストと経済性のバランスに他ならないわけであるから。

例えば、語形変化の多い言語、例えばフランス語なんかだと、主語の人称・性・数によっていろいろと語形変化が観察される一方、日本語なんかだとそんなもんはなかったりするわけである。

前者は動詞と主語とのつながりが、語形変化によって誤解なく認識されるというアドバンテージがある一方で、日本語ではそういった部分が曖昧になってしまうわけである。

一方で、語形変化のない日本語なんかだと、それこそ語形変化という余計な操作を考えなくてすむので、記憶容量という観点から言えば、効率的ということが言えるわけである。

要するにどっちもどっちということになる。

所謂、言語の機能なるものを考える時にも、何が機能的で何が機能的でないかという基準は極めて恣意的で、後付けの与太話以上の物にはなりえないわけである。

だいたい、この種の「説明」なるものには、予測性のようなものも反証可能性のようなものもなく、理論と呼ぶには程遠い気がしてならない。

言語が機能的であると主張する事によって、言語がより自然淘汰され、完璧なものになると考えるのは勝手かもしれないが、言語進化という土俵に挙げるのは極めて不適切なものであると言えるのではあるまいか。

今、現在、地球上で反映している生物種は、たまたま現在の環境に適合しやすい性質を持っているという以上の「説明」はできないのであって、生き残っていく生物種がより生存に適した、強い種であると主張する事ははなはだ見当違いの問題であるように思われる。

適応と言語の変化については、まだまだ考察すべき点が多々あるが、より学際的な土俵で評価してみることも時には必要なことであるように思う。

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2007年12月 4日 (火)

biolinguistics刊行に際して

来夏企画中のワークショップのinvited speakerの最有力候補に、Simon KirbyとFriedemann Pulvermullerという人たちがどれだけふさわしいかということをしっかりアピールしてきて、提案を通してまいりました。(alternateにTecumseh Fitchも通して来た。)

えと、業界の人たちでなければ分かりにくいとは思いますが、彼らは一様に生物学的機構としての言語能力に焦点を当てている人たちです。

それと共に、今日はelectronic journalのBiolinguisticsというのが刊行されました。(メール登録していたので、連絡が来た)

まぁ、端的に言うと、生成文法やっている人たちの中で、この手の広い分野に興味のある人たちがなんか座談会を開いたといったような感じで、正直、今の段階ではよくも悪くも「同人誌」って感じです。ちょっとこのままでjournalとして評価されるのはいかがなものかと思う。

Linguistic InquiryがMITとその衛生大学の趣向に沿うように固められて、すっかり品質が落ちてしまったことを反面教師に、もうちょっといろいろと視野を広げて、いろんな方面の人たちに執筆してもらえればいいんじゃないかなって個人的には強く思う。

もちろん、反UG派の論客の論文もびしばし載せて、コネクショニストの特集を組んでもいいのではないかと思うのだけれど。

正直、船出としては今ひとつかなって気がするな。

えーっと、業界関係者じゃない人たちの方が多いので、何を問題にしているのかをとっても簡単に説明します。

理論言語学の中で、生成文法という学派があるのだけれど、我々は偏に、人間には生得的に言語という能力を獲得する能力を有しているという想定、まぁ、幻想を抱いているわけです。

「これが言語獲得遺伝子だぁー!」とかいう観察学的な証拠は、たぶん、現段階の調査器具(fMRIとかPETとか)では調べられないと思うのだけれど(ていうか、未来永劫見つからない可能性も高いと思うけど)、とりあえず言語を司る能力が脳のどっかにあるということだけは間違いなさそうという共同幻想をみんなで抱いているわけです。

この言語に特化した能力を、言語器官(language organ)と呼んだりしています。

言語能力そのものは、自然物の一つに過ぎないのだから、仮説を立てて、検証して、という経験科学の手法で言語能力を調査することは可能ではないのかという前提で、我々生成文法をやっている人たちは、言語学は経験科学であるという幻想を持って、研究に取り組んでいるわけです。

それで、そういった言語能力というものを、もっと生物学的視野も含めて、個体発生や系統発生というレヴェルで研究できないかという期待があるわけです。

問題になるのが、

1. 言語の構造

2. 言語の特殊性

3. 言語進化

4. 進化過程

の4つであると思われるわけです。

Marc Hauserというとっても有名な心理学者とNoam Chomsky、そしてTecumseh Fitchという3人の研究者がScienceに2002年、The faculty of Languageという論文を掲載しました。

言語進化の一つのストーリーが述べられています。

一口に「言語」といっても、言語ってやつは、音を出し、音を聞き分ける能力が必要だし、意味を理解する概念形成能力なんかも必要だし、それこそ知的生物の認知機構の全てを駆使する必要があるわけです。

やっかいなのが、言語に先立てて存在していた、言語の祖先(precursor)とでも言うべき能力を持った生物がこの世に存在していないという事実があります。(単に発見できていないだけという可能性も高いけど)

そういうわけで、様々な生物種のコミュニケーション形態の研究も必要になってくるわけです。

まぁ、言語を言語足らしめる、大幅な進歩を可能にしたものは、syntax、つまり語と語を組み合わせる能力に他ならないのではないかというのが、我々、生成陣営の仮説です。

前もって、概念構造やら音韻構造やら言語能力という複雑なモジュール体系はバラバラに存在し、syntaxの出現によって、それらが一斉に組み合わせられ、相互に連絡が可能になった、というストーリーです。

例によって、syntaxの出現は「突然変異」かねぇ?と、考える以外には、今の段階では術はありません。

この部分は、生物学者の守備範囲ということで。

それで、突然変異によってsyntaxが出現し、様々な認知能力の連絡通路が形成され、言語能力を駆使することができるようになったヒトという個体が、たまたま生存に有利な状況にあり、今日に至る。というのがざっくばらんな大まかな説明でございます。

まぁ、話が大き過ぎて、検証のしようがないというので、科学の範疇に入るかどうかという疑問を持っている人は多いけど、おとぎ話としてはおもしろいのではないかというのが個人的なスタンスです。

いつだって、「大発見」の前提を考えている人たちは、「夢見がち」と思われてきたのが人類史だし、もしかすると楽しい事があるのかもしれない。と思うと、ちょっと楽しそうですよね。

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2007年11月 6日 (火)

loveという動詞について

大学にあるジムでは、音楽番組が鳴りっぱなしで、懐かしの名曲やら最近のヒット曲やらを流しています。

ちなみに放送局はアメリカ。音楽に関して、流行はイギリスとアメリカで共通していることが多いのです。

そこで、Let me love you tonightという曲がかかっていたのだけれど、勝手にいろいろと考えてしまいました。

一応、日本の英語教育では、loveは状態動詞という指導を行います。

要するに、ある種の状態がしばらく継続するという意味があるとされている動詞のことです。

Carlsonというおじさんの研究以来、一応、言語学者はある種の状態が永続するような意味を持つ動詞をindividual level predicate、一時的な状態を表す意味を持つ動詞をstage level predicateとして分類する事が多いのです。(分類する事で、いろんな現象を記述し分けられるんですね)

tonightという副詞表現があるということからもわかる通り、Let me love you tonightのloveはindividual level predicateではなくて、stage level predicateとして使用されているわけです。

tonightは永遠に続くわけではないですから。

となると、loveという言葉の解釈が二義的になる。

一つは、文字通り、「今夜だけあなたを愛させて」という意味。明日になれば、愛が冷めるとかそういうことですね。

しかしながら、愛を冷めさせるには、ちょっと時間と距離が必要になってくるわけです。昨日・今日会っていて、好きだった人に対する愛情が冷めるには、なんらかの、それこそ「百年の恋も冷める」ようながっかりする出来事でも必要になってくるわけですから、ちょっとこの意味が実際に意図されているとか考えにくい。

もう一つは、「愛するという行為」。要するに「男女の関係を持つ」という意味で捉えられる可能性。

これは自然と理解できますよね。「今夜、あなたを抱かせて」とでも言えばいいのでしょうか。

なるほどね。

でも、これってメタフォリカルな言い回しですよね。「愛するという行為をする」。一時的な意味に限定する事で、loveに動作性を持たせた表現だと言うことはできると思うのだけれど、これって随分とstraightforwardに理解できる。

英語使用に慣れていない日本語話者でもまず理解できる言い回しであると思われる。

日本語では、動作性と状態性を表す語幹があるので、これらを形態的に区別できるように思う。

letの意味を取り除くとはっきりすると思うのだけれど。

1. ??今夜、あなたを愛している
2 今夜、あなたを愛する/愛します

「ている」という表現は、結果状態の意味と、継続過程の意味が基本なのだけれど、「愛する」という動詞とくっつくと状態動詞化してしまうわけですよね。つまり、一時的意味を表す副詞「今夜」とは愛称が悪い。

アスペクトマーカーをそこそこ持ち合わせている日本語を使うと、こういう述語分類についていろいろと分かることも多いわけですね。

しっかし、どこの言語でも「男女が関係を持つ」っていう言い回しが豊富で、なかなかおもしろいですね。人間の三大欲求に関わってくる上に、相手の同意が必要になってくるので、コミュニケーションという現場で大きな役割を果たす言語表現がいろいろと発達してくることになったわけですね。

単刀直入に「やる」だけでも文脈で通じるし、「一発する」、「まぐわう」、「交じわる」、「深い関係になる」、「ホテルに行く」、「寝る」、「一緒になる」、「Hする」、「Cまでいく」、「肌を合わせる」、「逢瀬を重ねる」、「逢坂の関を越える」etc etc

言語表現なんて、行き着く所、みんなメタファーではないかとも思うのだけれど、まぁ、それにしてもメタファー、メトニミーの表現の多いこと。

だって、単に男女が一緒に「ホテルに行った」という話を聞いて、「あっそ(お泊まり会だったんだ)」とそのまま字句通りに解釈することの方が難しいですわね。

あと、男女が一緒に「寝た」って言ってるのに、幼稚園や保育園のお昼寝の時間みたいなことってちょっと想像しづらいし。

同様に貴族同士で和歌のやり取りをしているのに、「あなたと越えたい逢坂の関」だなんて和歌を送って、「オッケーですよ」という返事が女性の方から返って来て、翌日訪ねてみたらハイキングの準備をしていたとかだったら、それはそれでおもしろいのだろうけれど。(そんな意表をつく姫がいたら、惚れているかもしれませんね。ま、当時は「朝焼けの光で顔を合わせる」=「関係を持つ」って時代だったそうだし)

ていうか、love一つとってもこんなこと考える人間って職業病なんでしょうねぇ。言語研究やってる人間同士では、たまにこういうどーしよーもないくらいとりとめのない事柄で話が盛り上がることがあるのです。

でも、単純な言語表現をコンピュータに理解させるのって、本当に難しいんですよね。字句通りの意味だけで解釈していることの方が、人間少ないんですから。

先生:「あ、黒板消しといて」

コンピュータ生徒:「ほーい!」

ドッカーン!!!黒板は吹き飛んで、消えてしまった。

コンピュータ生徒:「ほよよ」

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2007年10月24日 (水)

学歴に文句言えないジレンマ

よく考えると私の学歴って中途半端である。

高学歴のようで、あんまりたいしたことがないし。

世間様のランキングなるものを信じれば、阪大は日本で3番目ということになるが、だいたい、3番目なんて誰も気にしないですよね。

イギリスの大学といえば、オックスフォードとケンブリッジをみなさん思い浮かべますけど、3番手以降なんて知っている人の方が少ないだろうし。(UCLだとかインペリアルだとかLSEだとかSt Andrewsだとか)

ヨークはベスト10には入っているけれど、10位以内だからってどうだとか全然思わないし、別に日本で「ヨーク出ました!」とかって言っても、

「ふーん、どこそこ?(ニューヨークじゃないの)」という程度の反応しか返ってこないと思う。

学歴ってそこそこ当てになる指標だと思うし、私も書類だけで人を判断する人事担当になって、ほぼ同一条件の人材の二者択一に迫られれば、きっと学歴を指標の一つに数えると思う。

それでも、学歴至上主義的な考え方を目の当たりにすると、生来の天の邪鬼体質が顔をのぞかせてくるので、

「学歴?けっ、そんなもん後生大事にしてんじゃねぇよ」

と言ってやりたくなることがあるのだが、言えない事も多い。

それは、自分が一流の学歴を持っていないので、そういう発言をする資格のある人間のように思えないからである。(三島由紀夫が「東大?たいしたことないよ」と言うために東大に入ったという話は有名である)

別に強がりではないのだけれど、ちゃんと受験すれば東大の文3か京大の文か総人には入れたのではないかと思う。(理3と文1はさすがにきついと思いますけど)

「ちゃんと受験すれば」という言い方をしているのは、自分が端的に言ってそこまで受験技術のある人間になれると思っていなかったからである。

中学の成績がよかったのにもかかわらず、自転車通学が可能で野球が強いとかいう理由でわりと近くの高校を選んでしまったのだけれど(ここは嫌いじゃないけれど、もう一度人生をやり直せるのなら、1番手の高校を選びます。ただ、当時は満員電車に朝早くから乗るのが億劫だったのと、友人のお兄さんがその1番手校(自由な校風で有名だった)ですっかり堕落したのを見て、「ここには行くまい」と思ってしまったのが原因でした。あと、自分はもっと野球がうまくなると妄想を抱いていた。)、そこの高校でも成績はあんましよくなかったのです。(授業中寝てたことが多いし、部活の朝練、昼練も厳しかったし)

そこの高校からは(教育大を除く)国立大に行くとかいう人の数が、学年に5人もいなかったし(1学年380人だった)、学年によっては1人いるかいないかとかいうレヴェルだったので、教師も揃いもそろって、「国立は難しいだろう」というのが口癖だったのです。

まぁ、そもそも教師になっていた人たちの学歴がたかが知れていて、彼らの方の知的レヴェルの方が問題で、想像力に欠けていたということが原因だったとは思うのだけれど、自分の思い込みで生徒のポテンシャルを勝手に決めつけるものではないですね。

そう考えると、彼ら想像力に欠けた人たちのおかげで、自分が「先生」と呼ばれる立場に立った時には、生徒を見下したりしないようにするという態度を徹底できたのはある意味、よかったのかもしれない。

というわけで、そんなこんなで教師や周りの友人といった環境から考えても、国立大に行ければ大快挙、大阪市立大学や府立大などの公立大でも大手柄とかいう環境だったので、東大と京大は想像もしなかったというのが、スタート地点。

受験勉強は高3の秋から初めて、10月に人生で初めての模試(この時点で、「受験生失格」ですわね。しかも、おいらの年代は一番競争率の激しい時代だったのに)を受けて、英語の偏差値が42.3とかいう衝撃的な数字だったのだけれど(実は国語と数学はよかった)、こんな理解で「大学に行く訳にはいかない」と決心して、さっそく1年3ヶ月計画を実行したわけです。(要するに浪人した)

本屋さんで、初めて受験参考書を目の当たりにして、伊藤和夫さんのビジュアル英文解釈という本を手に取って、立ち読みを始めるとなかなか辞められなくなって、そのまま2冊を購入。(そしてすぐに、改訂版になった英文解釈教室も購入)

読破した頃には、だーっい嫌いだった英語がなんかおもしろくなってきて、文法というシステムや言葉の仕組みにえらく興味を持つようになり、池上嘉彦さんの「英文法を考える」という本と「記号論への招待」という本がお気に入りになったせいで、

「あ、大学で英語学をしよう」

と決めて、受験勉強を始めた訳です。

ま、凝り性なので、勉強しだすと止まらなくなって、英語は総合模試では分からない問題がないとかいうレヴェルになったし(偏差値換算で80越えた)、国語は古典と漢文をやったおかげで随分な水準になったし、数学も気に入った分野だけえらく得意になったし(ということは、気に入らなかった部分はたいしたことなかったわけですね。行列とか)、社会も理科もちゃんとした水準まで上昇したわけです。

そもそも、事の発端として、志望校は「英語学」なる学科があり、しかも家から通える国立大学という2つの条件を満たしていた阪大に決めていたし、スタート地点においてはそれでも夢物語だったわけです。

それが、受験間近になって、東大と京大が射程圏内に入っていたとかいうことになっていた。(あとは、社会が2教科必要なので、世界史をやりなおせば、なんとかなったと思う)

ただ、学生の一人暮らしで親に迷惑はかけたくなかったので、東大はパス。(慶応を受けたのは、「私立?たいしたことねぇよ」と啖呵を切るためだったのです)

京大はそもそも遠いし(片道2時間以上も通学にかけたくない)、英語学というキーワードを見つける事ができなかったのである。(それが総合人間学科にあるということが分かったのは、大学の1年を過ぎてからの事であった)

というわけで、阪大に行く事になって、K先生を始め、魅力的な人たちに出会えたし、おかげで奨学金もらってシアトル行けたし(京大だったら、学内の試験で1番になれなかったと思う。たぶん。阪大でも単に運がよくて、競争率の低い年だっただけの話だし。一番のライバル(てか、向こうの方が上だと思う)は派遣期間の問題で、同じ年に試験を受けていないし)、それにかわいい女の子も多かったし、変だけどおもしろい友人たちにも会えたので、実は阪大に行ったという事自体は、満足してます。

でも、関西圏にいるということで、学歴的には京大が上ということは間違いないと思うので、「学歴?たいしたことないよ」と言い切るのはちょっと難しい状況にあるわけですね。

K塾で、京大の模試やら授業が専門だったということは、免罪符にはならない、ですよね。(所詮、予備校のすることだし)

というわけで、学歴コンプレックスはないのだけれど、批判するのはちょっと難しいなという微妙な立場にいる3番手出身の人のお話だったのです。

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2007年9月23日 (日)

トロムソとオックスフォード写真館

無事に家に戻ってきました。やっぱり、けっこう疲れちゃいましたね。それでは、写真をお楽しみください。

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トロムソ空港はこんな感じです。本当にめっちゃちっこい。

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空港の前はこんな感じです。タクシーがけっこう待っていたり、SASの直営のホテルが運行しているバスだとかが待ち受けています。ちょっと前まで行ってみると、ローカルバスのバス停がある。別に何を使っても市街地に出られます。ローカルバスだとお値段は23クローネ。460円とお値打ち価格です。

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初日に泊まったクラリオンホテルの中です。こういうシンプルなレイアウトって好きなんですよね。それより何より、こういうきれいなホテルに泊まるのは、海外に来てからは初体験なのです。今まで、安かろう悪かろうという場所にしか泊まったことがなかった。イギリスでは、大学の宿泊施設かB & Bかホステルにしか泊まったことがないし。

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机の上はこんな感じです。テーブルもスタンドも好みでいいのだけれど、置いてあるお菓子とワインは有料です。チェックインの時にもなぁーんにも説明はありません。ちなみにこのワインはSainsburyだと2ポンドちょいで買えます。このホテルで飲むと20ポンドかかります。別におねーさんがやってきて、グラスに注いでくれるわけではありません。

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「遠足」というか、最終日のトナカイを食べに行く行程の途中です。これで晴天でオーロラが見えていたら、凄いことになっていたのだろうけれど。帰りが強行軍だったのは、ここで記事にした通りです。

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行きがけっこう肌寒かったので、火を焚いていたのが暖かくてよかったです。いきなり黒い暖かい飲み物を渡されて、「珈琲かな?」と思って飲んだのだけれど、なんか甘くて、不思議な味がしました。結局何だったのか聞くのを忘れてしまった。ピーターともジリアンともこの飲み物を飲んでいる時に喋っていたのだけれど、なんか言語学の話をしていたので、そっちに夢中になってしまって、忘れておりました。いやはや。

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トナカイを食べたのはこういうテントの中です。先に見える黒髪でちょっと背の低い男性がピーターで、隣りの長身のブロンドの男性がクリスです。3人で言語学の話でもしていたのだろうか?

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晩ご飯のトナカイです。なんか白い米が欲しくなりそうな雰囲気がありませんか?品数は少なかったのだけれど、キャンドルライトのきれいなテントの中で食べられたので、無性においしく感じられました。ちゃんと体力補給をしておかないと、これから強行軍ですからね。

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みんなで松明に火をつけている所です。「いざ、出陣じゃ!」といった気分にならないと長い道のりだし、やってられません。さりげに奥にいる長髪の男性はまたまたクリスです。有名税だと思って。マルカと写真を撮るのを忘れていたのだけれど、陽気でパワフルで、農場でおいしいチーズを作っていそうな感じの人でした。

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二日目のアマリーホテルはこんな感じです。きれいに掃除がされてあって、バスルームも使いやすかったし、十分よかったと思います。一人だと申し分ない。まぁ、新婚旅行に使用するにはちょっとロマンというか、きれいさというか、遊び心がないかなって感じがしてしまうのだけれど。って、そういう話題が出たんですね。

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それで、ホテルの前はこんな感じです。フロントの人の話によれば、昔は警察があった場所なのだそうで。そのわりには、風水というか、土地的には「嫌な」雰囲気はなかったんですけどね。

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クラリオン・ホテルの前はこんな感じです。ロビーはけっこうおしゃれで、バーなんかも併設してあってなかなかいいです。ここはいろいろと貴重な出会いがあったので、見ていてその時の気分がよみがえってくるような感じがします。

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クラリオン・ホテルのすぐ裏はこんな風に海が広がっています。あの橋を渡れば、ノルウェーの本土に上陸できるわけですね。トロムソは島にあるのだ。北極海の水にさわってみましたが、特に冷たいとかそういうことはありませんでした。

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市場が開かれてあったので、ちょっと写真を。てれたて野菜とかなんかいい感じだったんですけどね。焼きたてのラムが食べられたのだけれど、特に肉が食べたいわけでもなかったので、パス。

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ガラス張りのきれいな図書館なんかがあるのです。椅子が赤くて、きれいで、なんだかいいです。自習用のデスクが端っこにあり、パソコンとにらめっこしている学生さんたちが数人おられました。雰囲気がとてもいいなって感じの所です。

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階段から下を見下ろしてみました。特に怖いとかそういうこともなかったのです。

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トロムソの街の風景はこんな感じです。霧がかかっていますが、オーロラがかかることもあるそうです。そりゃ、そうか。

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アムンゼンの銅像です。トロムソはアムンゼンが北極を探索する際の拠点にしていた場所なんですね。

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所変わって、オックスフォードのChrist Churchです。ランドマーク的存在ですが、創立は1525年で、比較的「新しい」っていうんだから「どないやねん!」って感じですよね。しかも、前身は修道院で、そこでも学術研究が既に行われていたのだそうです。修道院は12世紀には始まっていたとか。

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花がたくさん咲いてあるきれいな庭園を抜けると、メインの建物が見えてきます。前はひろーい道と、芝生、そしてラグビー場になっています。このコレッジでは、ルイス・キャロルが教鞭を取っていたことで有名。

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Christ Churchの前の道路を挟んですぐ目の前にAlice's Shopというのがあります。不思議の国のアリスのモデルになった学寮長の娘さんの、アリス・リドルがここにキャンディを買いに来ていたのが由来なのだそうで。なんか、かわいらしくていいですね。たぶん、ルイス・キャロルを初め、いろんな人たちにかわいがられていたんでしょうね。

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街の中心地のHigh streetの風景です。コレッジと街のお店が混在している不思議な空間です。学期が始まると、学生と観光客が入り交じるのでしょうか?オックスフォード大学関係者の人たちの話によれば、観光客が目立つのは夏の間って話でしたけどね。

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High streetをまっすぐ歩いていくと、St. Mary the Virginが見えます。教会なのですが、13世紀後半の設立当初は大学本部があって、式典会場や図書館としても使用されていたという話。もう、歴史があるというだけで凄いですね。やっぱり、学問や芸術というのは、それを保って来た民族に由来するプライドのようなものなんじゃないかなって思う。大英帝国が崩壊しても、どことなくゆとりを持って、自分たちの文化を誇れるイギリス人の根本に、オックスフォードとケンブリッジがあると言っても過言ではないのかもしれない。こういうのを見ると、日本の大学教育も崩壊させないように、ちゃんとした方向に発展・維持させていかないといけないな、と思うのだけれど。どうも、ね。

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これはMadlen Collegeという1458年創立のコレッジ。この建物は「花嫁の塔」と呼ばれているらしい。

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これはUniversity College。1249年創設というのが定説だが、伝説では9世紀にアルフレッド大王が創設したということになっている。日本だと鎌倉時代でんな。このコレッジの出身者にはロバート・ボイルやロバート・フックなどがおられます。外国人だと、アメリカのビル・クリントンが留学していたことがあるらしい。

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泊まった部屋はこんな感じ。妙に古くさいです。まぁ、とことんまで古ければかえって文句はないんだろうけれど。St. Anne's Collegeという場所なのですが、入り口手前の宿泊施設だと、当世風で、きれいで、居心地がよさそうです。いつかそっちに呼ばれるようになりたい。ちなみに机の上にあるのが、学会でもらったハンドバッグとアブストラクトハンドブック。どちらもおしゃれでいいなって感じ。

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食事中の風景です。私の目の前の白い髭を蓄えたいかにも「プロフェッサー」といった感じの人がデイヴィッド・クリスタルです。とってもいい人で、いろいろと楽しくお話しさせていただきました。ちなみに私の隣りのお兄ちゃんはオックスフォードの院生さんでスイス人。となりのおばちゃんは秘書をやっているのだそうで。ちなみにオックスフォード名物のチョコをもらいました。チョコやキャンディーをやたらと配ってくれるのは、中年女性の普遍的な特徴なのでしょうか?

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2007年9月22日 (土)

オックスフォードに来ました

Passfield Hallでイングリッシュ・ブレックファーストを食べてから、一路、オックスフォードに向かう。

最寄りの駅から、オックスフォード方面の電車が出ているロンドンのパディントンという駅までは、地下鉄で3駅先だったので、まぁ、その気になれば歩ける距離なのだけれど、ちょっと荷物が重い(書類とMacBookが原因)ので地下鉄に乗って行くことにする。

ところが、朝のラッシュ時刻だし、地元のロンドンっ子たちは普通オイスター・カードという定期券みたいなのを持っているのですいすいと改札を通っていくのだけれど、チケット売り場の前はけっこうな列。基本的に観光客だとか土地勘のない人たちなのだ。

そのせいで、列自体はそんなめちゃくちゃ長いというわけでもなかったのだけれど、随分と時間がかかっている。みんな勝手が分からなくて右往左往しているようなのです。

ちなみに私の直前が日本人さんだったのだけれど、「あれー、二人分買おうと思ったんだけど、singleとか出ちゃったー。何か間違ってるのかなぁ?やっぱり、日本語の表示を使ってみた方がいいかなぁ?etc etc」と、なんたらとちんたらとやっている。

はよ、買え!!!

って言ってやりたかったのですが、じっと我慢して待つ。

そんなこんなで、時計を見ると、なんと販売機の前で30分以上も費やしていることが判明。当然、パディントン発の乗る予定の電車は乗り過ごすはめになっちゃのです。

あーぁ。

まぁ、フライトを乗り過ごしたわけでもないので、いいのだけれど。

この国の電車のシステムも分かっているので、特に慌てることもなく、1時間遅れの電車に乗り込む。どうせ、ルートさえあっていれば指定席がないだけの話なのだ。

オックスフォード方面の電車は車両が大きくてきれいで、けっこうすいている。それで、何の問題もなく席に座れました。けっこう余裕があった。しかも、乗車券の点検はなかったし。

1時間でオックスフォードに到着。しっかし、この街はなんだかとてもきれいです。

ヨークに初めて降りた時もそうだったのだけれど、街の雰囲気が「肌に合う」という感じがする。住み良い街というのは、なんとなく感覚で分かるのだから、けっこうおもしろいものです。宿泊予定のSt. Anne's Collegeに荷物を置き、街中を観光。昼食は「えだまめ」とかいう和食屋さんに行きたかったのだけれど、改装中で26日までお休みらしい。残念。

しかし、「和食が食べたい(ていうか、米)」という衝動が抑えられなかったので、Marks & Spencerでパエーリャとビーフストロガノフの出来合いのものを購入。2つで6ポンド。やすー!ノルウェーとはえらい違い。(まぁ、buy one get one half priceってやつだったのだけれど)

電子レンジであっためて、ビーフストロガノフをいただく。米が食べたかったので、なかなかによい。味もいい。

ちなみに、オックスフォードは本当にきれいでなかなかいい所です。街中に大学と繁華街が混在している感じで、どこが大学関連の建物で、どこがレストランや雑貨屋さんなのか分からない所もあるのだけれど、そこは便利でいいのかもしれない。

建物も重厚で、とにかく美しいです。こんな所で勉強できるなんて、本当にうらやましいなとひしひしと思う。

まぁ、問題は大学の宿泊施設なのだけれど(最近できたとってもきれいな所もあるのだけれど、今回の滞在先は安いということもあって、随分と「きちゃない」です。すきま風はするし、部屋に水道はないし、共有の水道も少ないし、シャワーは使いにくいし、トイレは古いし(ちゃんと掃除してるけど)、キッチンも少ないし、部屋は傾いているし)。

そんなこんなで観光に歩き回りましたが、足がだいぶ痛くなって、体も重くなってきたのです。

翌日、朝食付きだったので、朝食をいただいて、学会に。(とはいっても、会場は徒歩1分くらい)

学会関連の建物はとてもきれいでいい感じです。ただ、聴衆はけっこう少ない。

学会では、普通、パッケージが渡されるのだけれど、オックスフォードは金持ちなせいか、ロゴ入りの手提げ鞄をプレゼントしてくれました。使いやすくてなかなかよいです。ちょうど、こういうのあったらいいなと思っていたところなので、とてもありがたい。重宝します。

自分の発表前の人の聴衆は、13人しかいなくて、なんか「しょぼっ」って感じだったのだけれど、なぜか、私の出番になって一気に聴衆が増えて、40人ほどになる。

あらあら。

「おいおいおい、私ってもしかしたら有名人?それともそんなにアブストラクトが魅力的だったかしら?」なんて都合のいいことを考えていたのだけれど、単に3つあるセッションの1つのスピーカーさんが突然来られなくなって、そっちから人が流れて来ていただけっぽかったんですよね。

残念。

初日の最後のトークは、百科事典やら何やらでとっても有名人なデイヴィッド・クリスタル。

しっかし、アメリカにせよ、イギリスにせよ、著名な研究者はトークもうまいので関心しちゃいます。声も明瞭でハキハキとしているし、タイミングなんかも絶妙だし。

話の内容も別にジェネラルなものなので、全部録音して、リスニング教材にしたらいいんじゃないかっていうくらいのものでした。なんか、もう「規範的」というか、「凄い」んですね。

トークの内容なのだけれど、まぁ、よくも悪くもジェネラリストかなって感じでした。でも、よく考えれば、「外国語」という概念だとか、「第二言語と外国語の境界線」だとか、英語の世界中のバリエーションだとか、おおよそ「そんなん当たり前やん(言語学の初歩の初歩、「常識」)」と受け入れられているメインストリームの考え方の大本を作ったのが、誰あろうディヴィッド・クリスタル氏本人なんですよね。賛否両論あるのはもちろんなのだけれど、やはりこういうメインストリームを形成する力を持った研究者にはやっぱり一目置いてしまう。

後半部分は、インターネットいうメディアが、「世界言語である英語」という概念を形成した経緯についての話で、まぁ、わりとソフトで誰でも語れるのだけれど、誰かが公言しないといけないんだろうなぁという話が中心でした。たぶん、それだけの知識量も経験もあるし、クリスタル氏なら言語学者を代表してそれを語るだけの資格があるんだろうなと思う。

しかし、けっこうお年なのだけれど、インターネットにも詳しくてなかなか凄いですよね。年を取ると新しい物には抵抗感だけが出て来てしまって、中年辺りでもコンピュータが使えない人って多数派だと思うのだけれど。

ディナーはそのままSt. Annn's Collegeのダイニングでいただきました。デイヴィッド・クリスタル氏が大物過ぎるせいか、誰も話しかけないで一人でおられたので、持ち前の厚かましさを発揮して話しかけてみました。とってもいい人で、しかも親日派だったので、話を盛り上げるのは簡単でした。

大阪が好きらしく、「クリスタ長堀」が自分の名前に似ているのでよく覚えているのだそうです。こういう俗っぽいことも、著名な学者が言うと落差があって、けっこう楽しい。

話をしたままテーブルに向かったので、そのまま相席させていただきました。食事中もいろいろと話をさせてもらったのだけれど、やっぱりこの人は「博識」って感じがする。おおよそ、言語というものの持つ社会的役割なんかについて、全てのことを知り尽くしているのではないかっていう気がしてしまうほどです。まぁ、それだけの業績を積んでいるのは間違いのないことなのだけれど。

しっかし、こういう有名人といろいろと話ができたりするなんて、私という人間もかなり恵まれた奴ですよね。問題は、今度は私が若い人たちを刺激できるような人間になれるかどうかだと思うのだけれど。

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2007年9月21日 (金)

ノルウェイの森(4)トナカイを食べに

5時過ぎにワークショップが終了して、建物の前にチャーターしておいたバスがあったので、皆でそれに乗り込む。

「どこに行くのかな〜♪」って感じで、片道30分ほど。ずいぶんと山奥まで来てしまいました。

外の天気はぽつぽつと小雨だったのだけれど、バスから降りてみんなでハイキング。

山奥にあるトナカイを食べられる、昔ながらの小屋にあるというレストランまでひたすら歩く。

雨が降っていたので、足下はけっこうぐじゅぐじゅで、途中で勾配のきつい坂なんかを昇って、30分ほど山の中をひたすら歩く。こんな長い距離を歩くんなら、革のトレッキングシューズで来るんだったと思うのだが、後の祭り。

そもそもアカデミック系の学会で、こういう山登りがついているものがあるということを私は過分にして知らない。

場所は自然豊かなきれいなところで、テントの下で火が焚かれており、納屋の中に薪が積み込まれ、休憩所のバンガローは木のぬくもりがひしひしと感じられる。

食事の準備をしている間、あちこちで談笑。クリスと喋っていると、途中でピーターが入って来て、それから会話は二人の漫談。

内容は言語学なんだけれど、下手な講義や発表を利いているよりよっぽど刺激的で、なんか途中で聴衆みたいな感じになってしまいました。この二人は同じ大学でPhDを取ったということもあって、かなり懇意なんですね。しかも、紳士だし、いい男です。こういう年の取り方をするのはいいなと思う。

食事をする場所は大きなテントで、ちゃんと木製の椅子と机も用意されてある。

トナカイの毛皮が椅子の上にひかれてあったのだけれど、分厚くて暖かくて、触っていると気持ちいい。某先輩さんは「トナカイはこれ着てるんやから、暖かくていいんやろな。これやったら、寒い所で生きていけるわ」って納得されていたのだけれど、なんか感想がかわいくていいですね。

食事はトナカイを煮詰めた物と、人参とカリフラワーを煮詰めた物と、蒸かしジャガイモだけ。飲み物は、赤ワインと、とてもおいしいとかいう天然水だけだったのだけれど、けっこうおいしかったです。

トナカイは、臭いがなくて、柔らかくてさっぱりとした感じの牛肉といったところです。煮詰めていた汁の味付けから言っても、ちょうどすき焼きみたいなものを想像してもらえればそれに近いのではないかと思います。

ただ、こういうおいしいおかずを口にするとご飯が欲しくなるのが、日本人の食習慣。あつあつの白米に汁たっぷりのトナカイを載せて食べるととてもおいしそうだったのですが。

ちょうど韓国人でポスドクをやっている人がトロムソ大学にいらっしゃるので、その人に「米、欲しくならない?」って聞いたら、「それ、今、ちょうど考えてたの」という返事。

以後、日本と韓国の粘り気のある米っておいしいよねって話を続ける。というわけで、今年、皆様の元にサンタクロースがおいでになられなければ、たぶん、トナカイを食べてしまった言語研究者たちのせいかもしれません。ごめんなさいね。

テントの中のキャンドルライトはとてもきれいで、外の風景は雨だったのだけれど、なかなかのものでした。これで、オーロラが出たらすごいことになりそうだったのですが、残念。トロムソの人たちによれば、先週は見えたということだったのですが。

食事が終わった後も談笑が続いてなかなかいい雰囲気だったのですが、外は雨。

テントの中にトイレはないので、離れまで歩いていかないとけないのだけれど、それだけでも真っ暗で道が見えない上に、ぬかるんでいて、それでいて気温は寒い。

よくよく考えたら、どうやって帰るのかはなはだ疑問だったのだけれど、ピーターが例のとってもキュートな笑顔でどう帰るかを説明。

なんと松明を手に持って帰るということが判明。

・・・

外、雨なんですけど。

というわけで、みんなで個人個人に火が配られ、それを目当てにいざ、出陣。

夜の行軍みたいな感じで、火を持った人たちの隊列ができあがる。

雨が時折激しく降ったり、地面のあちこちにみずたまりができていたり、といったぬかるんだ真っ暗な道を40分ほど歩いて、バスに無事に到着する。

ちなみに途中で松明の破片が首近辺に飛んで来て、それが今でもキスマークみたいに火傷の後が残っています。

いやん。

それで、この行軍のおかげで靴はびっしょびしょ、ドロドロ、ズボンもぐちょぐちょになってしまったのでした。もう、たーいへん。

チャーターしたバスはそのまま市街地まで戻ってくれたので、そこでお世話になった皆様にいろいろと別れの挨拶とお礼を述べる。最後に大変な作業があったけれど、ピーターとジリアンのおかげでとっても充実した楽しい学会になりました。彼らにもまた会える機会があればいいんだけど。

それでクラリオン・ホテルの前で、クリスとマルカとジェニーとさよならをする。クリスとジェニーには「論文を送って来てくれ」と言われたのだけれど、本当に私の論文のようなファイルの容量を食うだけの論文なんかでいいのだろうかと申し訳ない気持ちになる。でも、これをなんとかしないとリサーチャーとは呼べないですよね。

ホテルについてシャワーを浴びるとさすがに一息ついた感じになる。ホテルも奇麗で快適で過ごしやすいのです。フロントの人たちの対応も申し分ないし。

ワイヤレスインターネットが、自分の部屋のある最上階の5階だと使いづらいので、1階のフロント隣りのレストランでネットをしていたのだけれど、ちょうど終わった頃合いに酔っぱらいのおっさんにからまれる。

私がからまれる程度ならいいのだけれど、この日の夜勤は若い女の子だったんですよね。かわいそうに。(おっさんはそんな力が強いタイプでもなかったので、「もしも」のことはないと思うのだけれど)

最後に「困ったよねぇ」って相槌を交わして、部屋に戻って寝ると、泥のように眠れました。ベッドも深くて寝やすいし、とても快適だったのです。

朝方にちょこっと先輩さんを見送って、街中を観光してみたのだけれど、トロムソは北極圏最大の街とかいうものの、とても小さいのですぐに見尽くしてしまう。

というか、スーパーでイギリスと同じ物が売ってあるのだけれど、とにかく高い。

感覚としては、1ポンドが350円になったくらいの感じです。絶望的に物価が高い。

でも、物価を除けば、街はきれいだし、人当たりはよくてのんびりとして、とても「肌に合う」きれいな街であったかと思います。こういう所で、のんびりとオーロラを待ってみるのも悪くないのかもしれない。

17時15分トロムソ発の飛行機に乗って、2時間後にオスロに到着。乗り換え時間の1時間を経て、オスロからそのままロンドン・ヒースローに帰ってくる。周りの風景がおなじみの景色になってしまう。

ヒースローの出口すぐでは、家族、友人、恋人を待っている人たちの列ができていて、なんだかいいなって感じがする。久しぶりの再会とかいいですよね。心理的に「あぁ、ここに帰って来たんだな」って思えるような暖かい人がいるのは、とても幸せなことだと思うし。

ヒースローから地下鉄で、ピカデリーラインを昇って、キングスクロス、そこから一駅先にあるユーストンという所で降りる。ここからの方が、Passfield Hallに近いのだ。

実は昼からずっとご飯を食べていなかったので、かなり空腹だったのです。駅前でMarks and Spencerを発見して、「ラッキー」と思うものの、ちょうど店じまい。

実は閉店時間より5分早かったので、「3分で終わる!」とアピールしてみたのだけれど、ラテン系の店員のお兄ちゃんが「ソーリー」と言って手で罰印を作る。この国では、閉店時間より前に店が閉まるのである。

夜の11時半にPassfield Hallに到着。夜勤は学生バイトではなく、黒人のおっさんだったのだけれど、こいつの応対が悪い。

チェックインの作業中でも雑談をやめないし。

都市部のロンドンなので、12時まで営業しているTescoとSainsburyがあるので、そこになんとか駆け込んで晩ご飯を確保したいのだが、チェックインで時間がかかりすぎて、12時10分前にTescoに到着。店内の灯りはついているのに、扉だけ閉めて、店員2人が雑談している。

「ちっ、こいつら客を先に閉め出しやがった」

仕方がないので、お向かいさんのSainsburyに入って、どうにかサンドイッチと小さいパスタサラダを確保。ほとんどギリギリの状況でした。

しっかし、ロンドンの店員(特に夜中)は基本的に感じが悪いので、腹が立つことが多いのです。この国では、人種・民族差別の類いはあまりないのだけれど、階級差別だけは露骨に存在しているので、その原因みたいなものをちょっとずつ体験したりすることはあります。まぁ、しょうがないのかもしれないけれど。

ちなみにPassfield Hallは、ノルウェーでいいホテルに泊まって来た後ということもあって、随分と「汚く」感じられる。

しかも、窓は開かないし(でもすきま風が入る)、スタンドライトの電球は切れているし。

まぁ、シャワー浴びて、トイレが使えて、ちゃんと寝れればそれでいいのだけれど。(貧乏だし)

というわけで、ノルウェーからイギリスに帰国して、今はオックスフォードにいるのです。

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2007年9月19日 (水)

ノルウェイの森(3)夢の終わり

朝は7時前に起きて朝食をとり、珈琲を飲んで眠気を覚ます。

8時過ぎに昨日と同じようにクラリオン・ホテルのロビーでinvited speakerのクリス、マルカ、マンフレッド、ジェニーらと落ち合い、バスに乗り込んで大学に向かう。

市街地から大学までの距離は知れているのだけれど、なんせ坂の多い街なので歩くとけっこう大変そうである。勾配も激しいし。

朝一のトークはマルカだったのだけれど、私はその次の自分のトークのことしか頭に入っていなかったので、半分くらいしか内容が頭に入っていない。

30分の珈琲ブレイクの時に、人気のない会場の壇上に上り、小声でリハーサルを行う。

ぼそぼそ。

途中でジリアンが入って来て、「練習?だーいじょうぶよー」って感じで話しかけてくる。いやいや、けっこうプレッシャーかかるんですけど。

時間が来たので、開き直って喋る。なぜか人前に立つと、性格と態度がやたらと大きくなるのは、私の長所なのではあるまいか。

ただ、右を見ても左を見てもビッグネームと顔が合うし、クリスがポイント毎に「ふむ」って声を出して頷くので、これがけっこうプレッシャーになる。

まぁ、終盤には頷いているかどうかを目安にして喋っていたわけだけれど。

発表自体は4回ぐらい舌を噛んだのだけれど、ぴったしかんかんで発表が終了する。

バックグラウンドを共有している人たちが多いので、フィードバックがとにかく多くて、ほっておくといつまでも議論が止まないのではないかといった感じなのだけれど、コメントが当を得たものばかりなので、非常におもしろい。

トークが終わって席につくと、ぐったりとしたのと、いろいろと自分の中であーでもない、こーでもないと考え事をしていたので、私の次のドイツ人のお兄ちゃんの話は聞いていませんでした。すんません。

昼食時には、クリスとずっと喋っていたので、これまた精神的に疲れる。

ただ、貴重な議論ができたことだけは間違いないのだけれど。

しっかし、専門領域が思いっきりかぶっている大物と喋るのは緊張しますね。いっつも、三蔵法師に立ち向かう孫悟空というか、めちゃくちゃ強大な敵を前にしているのに、刃物くらいの武器しか与えられていないような気分になります。

というわけで、昼食時が全然、休憩になっていなかったので、どっぷりと疲れて、脳みそが活動を停止したような感覚になってしまう。

お昼の1発目のトークでは、発表者本人が着ていなかったので、原稿をジリアンが読む。それでも、議論が盛り上がるんだから、おもしろいものである。

2人目が先輩さんで、トーク時間を過ぎちゃったのだけれど、内容がおもしろいからよかったんじゃないかな、と思う。実際、フロアの反応もよかったし。

珈琲ブレイクになって、ようやく休憩した気分になる。スタンフォードから来ているエイドリアンというお兄ちゃんがおもしろくて、賢くて、楽しい人なのでちょっと長めに話をする。本当に世の中、いろんなタイプの人がいるものである。

トークの締めはクリス。だいたい、ワークショップのトップバッターがクリフカで、アンカーがクリスっていうんだから、プログラム自体が「ワークショップの最初から最後までいてね」ってアピール満載である。

クリスはトークもよく組織されていて、とにかく分かりやすいのです。ディヴィッドにしろ、こういうトークのうまい人のやり方はさりげなく盗んでいくに限る。内容が伴っているのはもちろんのことなのだけれど。

というわけで、無事に2日間のワークショップが終了。おもしろかったし、充実した日々でした。お金じゃ買えないような貴重な体験を、お金をもらってできるなんてことが世の中存在するんだなぁと、バカみたいな感想を持ってしまったのです。

しかーし、この後、驚くような結末が。

いったい、どうなってしまうのかぁ−!

続きはまた。

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ノルウェイの森(2)

(ネット環境の悪いホテルなので、1日遅れで)

気分がやたらと高揚しているせいかもしれないけれど、1時過ぎに床に着いたのに、朝の4時に目を覚ましてしまう。でも、時計を見た瞬間に「あ、まだ寝られるわ(ラッキー)」って感じで二度寝に突入し、セットしておいた携帯の目覚ましで6時半に起床する。何せ、8時15分にホテルのロビーに大学から迎えが来ることになっているのだ。

朝食はブッフェ形式(つまり日本語で言う「バイキング」ね)だったのだけれど、意外とたいした物がない。って、野菜の品数の少なさを問題にしているわけだけれど。

一応、レタスとレッドペッパー(赤ピーマンみたいなの)を取って、それらをスモークサーモンに包んで食べたり、パンを切り取ってベーコンエッグと一緒に食べたり、魚の酢漬けを食べたり、ドライフルーツにヨーグルトをかけて仕上げとする。

食べられる間に野菜と栄養は補給しておかないといけない。

H大の先輩と久々に再会。「最近、おにくがお腹の周りにetc」とか仰っていたけれど、別に日本で最後に見た1年半くらい前の時と代わり映えしていなくてちょっとほっとする。いや、相変わらずかわいくて素敵な人でした。

2日目から滞在先のホテルを変更することになっていたので(すぐ近所)、新しいホテルに荷物を置き、初日のクラリオン・ホテルのチェックアウトをすませる。

集合場所ではみんなよそよそしく、一人一人が黙っていた感じだったのだけれど、髪の長い長身の男性を見て、すぐにクリスだと認識する。

そのまま迎えが来て、バス停に着くまでいろいろと話し込む。彼はウェブサイトでバンドをやっていた頃の音楽を公開しているのだけれど、そこでのヴォーカルの声とは違って、喋り声はちょっと低めって感じでした。

ウェブの写真は随分と「若いな」って感じだったのだけれど、生の本人の印象は「ナイスミドル」の手前って感じです。でも、男前で紳士であることには変わりはないのだけれど。

実は集合場所で、去年の某イ○リス言語学会(そのままやん)で知り合いになった、トロムソで今年の4月にPhDを終えたロシア人のEugeniaという女の子に再会したのだけれど、彼女は私の名前も覚えていてくれて、「プログラムを見て、あ、来るんだって思ったよ」って話でした。私は名前を覚えていなくてごめんなさい。だって、ちょっと発音しにくいんだもん。

トロムソ大学までは、市街地からバスで10分くらい。(でも、坂が多い)値段は23クローネ。460円。「ちょっと高いかな」といった感じ。

大学の構内はけっこうきれいで、キャンパスの周りの風景がとにかくきれいです。坂が多いけど、トロムソはきれいな街でいい所だなって雰囲気が伝わってくるのです。

9時に大御所のマンフレッドのトークでワークショップが始まり、1時間半後に珈琲ブレイク。あちこちで自己紹介が始まる。

30分のブレイクの後、2人のトークを挟んで昼食。学食だったのだけれど、これまたスピーカーにだけ昼食が用意されていたので遠慮なくいただく。

スモークサーモン、生ハム、チキン、海老のマヨネーズ和え、とけっこう肉類が多くて、ちょっと「しんどいな」という感じ。いや、おいしかったのだけれど、最近、あまり肉類を受け付けない体になっている最中なのです。野菜中心の方が気楽で何かいいかなって感じがする。こういうことを言うと、「もう若くないかな」って感じがしないでもないのだけれど。

午後のセッションの2つを挟んで、4時半にとりあえず初日は終了。いろいろと意見はあるのだけれど、総じてやっぱり興味深くてレベルの高いトーク揃いです。なんか、こんな所に自分の名前を並べてもらっているのが申し訳ない気がするくらいなのだけれど。

市街地に戻って、ちょっとブラブラとしてから、一応、明日のリハーサル。35分かかったので、「ちょうどかな?」といったところ。

7時から、皆さんで晩ご飯をご一緒することになっていたので、クラリオン・ホテルのロビーに集合。ピーター、クリス、マルカが既に到着している。ピーターといろいろと雑談し(彼は男前でいつも陽気で楽しそうである。明日、写真を撮れるといいのだけれど)、それからマルカと喋る。いろいろと有名人と話せるおいしい機会である。

晩ご飯は「バカラウ」とかいうスペイン発祥の魚料理だったのだけれど、白身魚にトマトソースとオリーブを和えてあってなかなか美味。備え付けのふかしじゃがいもが甘くておいしい。サラダもついていたのでけっこういい感じ。

ワインをグラスに2杯飲み、デザートに珈琲とチョコレートケーキを注文する。チョコレートケーキは風味がよくて、中のチョコレートがとろとろと溶け出してきて、周りがサクっとしていてかなりおいしい。(ピーターのお薦めだったのだ)

まぁ、お金を出せばおいしい物は食べられるという話ですね。ちなみに気になるお値段の方は、500クローネ。なんと1万円。ドッヒャー、物価たけー!まぁ、日本でもキャバクラとか、新地で飲んだら、そんな程度チップくらいなものなのだろうけれど、しがない学生のあたしにゃ大金です。500クローネに対応する50ポンドがあれば、2週間分の食費にする自信がある。

食事後、多くの人たちはバーに行かれたのだけれど、あたしゃ、明日のトークもあるし、金もないので帰ってきました。時間は夜の10時半。ま、明日くらいなら多少の出費をしてもいいのだけれど。

それで、明日はクリスに一緒に昼食を食べようと言われているのだけれど、かなーり緊張してます。明日の午前がトークなので、それについての話なんかをしようと言われているのです。

しっかし、クリスのような若手の新進気鋭の学者にせよ、マンフレッドやマルカのような大御所にせよ、みんな肩肘張らないで、いい人が揃っているのには感謝を通り越して申し訳ない気すらしてしまう。何せ、スーパーバイザーやサブアドバイザーと違って、別にいろいろと関わる義務なんかないのだから。(それでもスタッフには感謝してますけど。当然)

こうやって、自分程度の人間にも時間を割いてくれているのだから、しっかりと結果を出さないといけない。たぶん、自分が実りある結果を残して、今度は自分が若い人たちにいろいろと機会を提供することが恩返しにつながるんだろうなとひしひしと思う。

実力不足で何にもできなかったらごめんなさい。

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2007年9月17日 (月)

ノルウェイの森(1)「ぷちトラブル編」

朝方から洗濯物を処理し、大学の学部のコピー機を使ってハンドアウトを作成し、昼食を取ってからのんびりと時間を過ごす。

なにせ、電車は夕方の5時50分ヨーク駅発なのである。

出発前までいつも通り勉強していようと思っていたのだけれど、いざ出かけるとなると気分が妙に盛り上がってなかなか集中できない。

仕方がないので、5時前に家を出る。ちなみに私の家からは8番のバスと6番のバスで市街地に出られるのであるが、8番のバス停に時々(4、5本に1本の割合)、ヨーク駅前まで行ってくれる10番というバスが来てくれることがある。

一応、市街地からヨーク駅までは徒歩10分くらいなのだけれど、駅前まで行ってくれた方が楽なのは言うまでもない。

バス停に着くと、運良く次のバスがその10番であるということが判明して、こりゃ幸先のいいスタートだなと思っていると、なんと、そのバスにシカトされてしまう。

・・・

いや、分かっているんですよ。

この国では、バスの運ちゃんにおもいっきりアピールしないと、一人でバス停にいるとけっこう無視されることがあるっていうことを。

おいらも今まで無視されて地団駄踏んでいた人たちをたくさん見てきたわけです。

というわけで、ガラガラの10番のバスを運転していた運ちゃんは、なんだか歌を歌っている様子で猛スピードで素通りしていきました。

「待てやー!コラー!!!」

なんて、日本語で言ってもしゃあないですわね。

仕方がないので、次に来た8番のバスに乗り込んで、一路、ロンドンはキングス・クロスまで向かう。

無事にロンドンに着き、キングス・クロスから歩いて行ける距離にあるLSEのPassfield Hallという所に無事に着いたのだけれど。(イギリスでの土地勘が出てきたのには感心する)

なんか、入り口に表示があって。

「ただいま、水が出ません。ごめんなさい」みたいなことが書いてある。

ハァ?

え、水が出ないっていうのと、停電するってけっこう痛い障害なんでないかい?

というわけで、受付のおそらくLSEの学生バイトさんと思しき、コメディアンのマイク・マイヤーみたいなお兄ちゃんがいろんな人たちに文句を言われていました。かわいそうに。彼の責任ではないのだろうけれど、そりゃ、客人からすれば怒りたくもなりますわね。

部屋に着いて、すぐトイレに行って、便器を開けてみたのだけれど、なんとそこにはべったりと血液が。

・・・

おえぇっ。おいら、男なので、出血に対する免疫ないのです。いやー。

でも、水が流れないんだからしょうがないよな。

まぁ、いろいろあったけれど、復旧工事の人たちを呼んで、なんとか水が使えるようになって一安心。

ちなみにPassfield Hallは広くて、きれいでいいのだけれど、なんとなく建物全体の統一感がないというか、まとまりがない感じがして、非常に使いにくい印象を受けました。まぁ、先月のイギリスの某学会で使用したKing's Collegeの方がこじんまりとしてはいたけれど、使い勝手がよくて印象がよかったですね。ま、そこは予約が一杯だったので、今回は使えなかったのだけれど。(同じ値段でen-suiteだからか?)

近所でTESCOを発見して、レンジであっためるパスタとビールを購入して、晩飯にする。3ポンド。600円。まぁ、安いもんですわね。1回、発表のリハーサルをして、それからベッドで論文を読んで、眠たくなったので寝る。

翌日は7時前に起床して、朝食(付いているのだ)のイングリッシュブレックファーストを食べる。フルーツは山盛り食べられたし、味も悪くない。これならLSEのコレッジでもいいかなって感じがする。

Heathrow空港まではピカデリーラインの地下鉄に乗れば50分前後で着くので、King's Crossから乗る。始発から終点までなのだ。

始めに乗り合わせた時には、ヒースロー第4ターミナル行きの電車で、「ま、乗り換えればいいや」って思っていたのだけれど、気がつけば、途中で行き先が第1、2、3ターミナル行きに変わっていた。けっこうついているのかもしれない。

ヒースローの直前の駅で、「この電車は第1、2、3ターミナル行きです。第4ターミナルへお越しのお客様はここでお乗り換えください」というアナウンスがあったのだけれど、その次の電車の到着駅は第4ターミナル。

ワケ分からん。

それで、いきなり車内の表示が変わって、「おいおいおい、第3ターミナル行かないんじゃないか?」と不安になったのだが、まぁ、その次の駅は無事に第1、2、3ターミナル駅でした。この国の電車の仕組みは本当によく分からない。まぁ、逆方向に走り出すことすらあるというスペインよりは随分と整合が取れているのだろうけれど。

スカンジナビア航空を使用していたので、前日にはチェックインが済んでいた。というわけで、荷物を預けるだけで終わって、出発時刻の50分前だったのだけれど、「まぁ、早めにゲートに入っておくか」とセキュリティーチェックに並んでおいたのだけれど、これが正解。

ヒースローは人が多くてごみごみしている上に、やたらとセキュリティーチェックが厳しいし(だって、靴まで脱がされるんでっせ)、なんかやたらと時間がかかる。

おまけに中国人団体に割り込みを食らうし(辺りの人たちへ。私に冷たい視線を浴びせないでください。私は中国人ではありません)。

パスポートチェックの黒人のおばちゃんは、私のエントリークリアランスを見て雑談を始めようとしたのだけれど、話を遮って、「ヨークでPhDの学生をやっている。学会発表で、トロムソに向かう。あと10分で出発する飛行機に乗る!」と言ったら、さっさと通してくれたので、そのまま走って、出発ゲートの9番に到着する。既に、出発時刻の7分前である。やばかった。

オスロ行きの機内は所々で空席があって、私の隣の2つも空席だったのだけれど、「絶対、誰か乗り損なっているはずだ」という確信を持って座席に座る。航空会社の責任じゃないのだけれど、チェックインしたのに乗り過ごしたらどうなるんだろうか?振り替えてもらえるんだろうか?

オスロまでのフライトは2時間なので、浮いて、それから沈むといった感じ。乗り継ぎ便なのだけれど、オスロでとりあえず預かりの荷物をピックアップしてから、また荷物を預けなければならない。めんどくさいし、ややこしい。

10時20分にロンドンを出て、13時半にオスロに到着(時差が1時間あるのだ)。あれこれやっていて、なんとか14時に昼飯にありつく。

昼なので、軽めにパニーニに野菜とエビのマヨネーズ和えに胡椒をまぜたものとラテを頼んだのだけれど、ちょうど90クローネ。

「ぴんとこない」でしょうね?なんと、日本円で「90かける20で1800円にもなる」んです。ギョェエー!これが福祉崩壊、税金地獄、物価高の北欧価格なんですね。半分の900円でも高いぐらいだと思うのですが。(イギリスの物価なんてかわいいもんです。今の奨学金の価格だと、ノルウェーでは絶対に生活できない)

でも、パニーニはめちゃくちゃおいしかったです。たんに腹が減っていただけなのかもしれないけれど。

フライトは50分ほど遅れたのだけれど、無事にトロムソに到着。トロムソは「北のパリ」だなんて言われているそうだけれど、めっちゃくちゃこじんまりとして小さい街です。(写真はまたupします)

でも、海が近くで、奇麗で、のどかで、人当たりがよくてなんだか居心地がよさそうです。空港(めっちゃ小さい)からバスで市街地のホテルに来たのだけれど、バスの運ちゃんがホテルまでの行き方をわざわざ説明してくれたり、なんだか人がのんびりとしていて優しい感じです。

ホテルはきれいだったのだけれど、初めに当てがわれた部屋がなんか「きちゃない」(要するに掃除とベッドメイキングをしていなかった)。

というわけで、部屋を変えてもらいました。

部屋の内装ですが、シンプルでとてもきれいです。こういう部屋って好みなんですよね。職にありつけたらこういうレイアウトにしてやろうと思っているのですが。

机の上に小ぶりのワインとお菓子が置いてあって、ついつい日本人の感覚で「お、サービスかな?」と思って、ワインを開けて、ポテトチップスを食べてしまう。(日本のホテルって、机の上の物がタダ、冷蔵庫の物は有料ってのがデフォールトですよね)

しかし、思った以上に他のお菓子の量が多いのと、冷蔵庫の飲み物の量の多さを見て、なんだか「嫌な予感」。

フロントに聞いてみたのだけれど、やはり「有料」だったらしい。ガーン!

ワインが半ボトルで95クローネ。30gのちっこいポテトチップスが26クローネ。占めて、2400円。おいおいおい、そりゃ、高過ぎやろ!って思うんだけれど、北欧価格なんですよね。ま、しゃーない。明日のチェックアウトで払います。ぶつぶつ。

ついでに晩飯は、「安いから」という理由だけで、開いていたバーガーキング(ほとんどの店がしまっていた)で、魚フライのパニーニサンドを注文する。49クローネ。1000円!!!!!

なんやねん!この国の物価は!!

でも、街中もちょこっと散策してみたのだけれど、トロムソ自体は本当に魅力的な街って感じがします。きれいだし。今度はオーロラの見える冬に来れればいいなって思うのだけれど。

というわけで、明日は早起きしないといけないので、さっさと寝てしまおう。

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2007年8月18日 (土)

言語に対して抱いている幻想

朝起きてみると雲一つない晴天。

というわけで、はりきって洗濯物をして、一部を庭に干してから買い物に出かける。

で。

いやね。

イギリスの天気は女心のように移ろいやすいってよく言うわけですよ。

買い物だなんて言ってますけど、せいぜい1時間から1時間半で終わってしまうわけですよ。だいたい、市街まで自転車で15分ほどで着くわけですから。

それで、ですね。

Marks and Spencerでいつものようにベーグルと、マフィンと、それでちょっとしたシーフードなんかを買って外に出たら、なんか外が真っ暗。

ーーー

野菜はMarks and Spencerで安くなっているのを探して、特にたいしたものがなければSainsburyで買うわけです。

SainsburyはMonk Gateという市街地の端っこ、おいらの家の方向にあるのですが、そこまでてくてくと歩いていると。

はいきたー。

雨がしとしと。

Sainsburyで買い物をしている間に、外の世界はびっちょりと雨にさらされた後だったのだけれど、また嘘のように晴れ出した。

この間、数十分。

家に帰って、庭の洗濯物を見てみるとびしょ濡れ。

仕方がないので、脱水してから乾燥機にかける。外はいつの間にやら快晴。

他の洗濯物を取り込んで、カポナータを作って、昼食を食べてから図書館に行く。

外はまたまた曇って、小雨。風。

ひゅーっと寒風が吹いている。

しゃーないので、ジャーナルに目を通してから閉館時間に外に出てみると、またまた快晴。

なんなんだ、この天気は。

しっかし、女心だかなんだか知らないけれど、こんな移ろいやすい心情の持ち主とつきあうのって勘弁してほしいですよね。「晴れ、雨、晴れたと思ったら、また雨。気がついたらまた晴れ」。どんなにかわいくても身が持たないっす。

話は変わって。

言語学は何をやっているのかといえば、そりゃ、言語の研究をしているわけだけれど。

一応、研究者間の共同幻想というか、公理として、言語というのは基本的に普遍であるという立場がある。

英語なんかを習っていたりすると、ついつい「ほら、日本語と英語はこんなに違うんだよ」という差異ばかりが強調されるわけだけれど、なんだかんだいって、言語というシステム自体、人間には一応学習可能なものだということには注意したい。

だから、それなりに外国語をマスターすることはできるわけである。

これが、例えば、霊長類のコミュニケーション方法だとか、イルカの超音波通信なんかになってしまうと、その原理みたいなものを教えられても、それを人間が身につけることは基本的に不可能であるということが、人間言語とその他の動物のコミュニケーション形態が「違う」ということを端的に物語っているのではないかと思う。

例えば火星人なるものがいたとして、日本人が日本語でコミュニケーションを取り、イギリス人が英語でコミュニケーションを取っている様子を観察して、彼らがお互いに異なるコミュニケーション形態を用いていると考える可能性は極めて低いのではないか。

むしろ、英語であろうと日本語であろうと、同じコミュニケーション形態を用いているらしいと考えるのではあるまいか。

そういう観点に立って、我々は一応、言語の普遍的な側面についての研究を押し進めているわけである。

こういう錦の御旗を掲げると目標の共通意識が持てるので、生産的な研究プログラムが期待できるし、確かに外野の人たちにも「なんだかおもしろそうなことをしているな」と思わせることは確かに可能なのである。

ただ、これまでの研究成果のどれが普遍的側面につながる特質で、どれが個別言語間で個々に学習していかなければならない特徴なのかという線引きは、それほど簡単にできることではないというのも事実である。

確かに言語の構造依存性だとか、局所制約、それに階層構造といった面は言語に普遍のものであろうし、そういったものが言語を言語たらしめているということに対しては、それほど違和感なく研究者間で共有されている認識ではあると思う。

そういった部分も、言語が経験科学である以上は、個々の個別的事象から帰納的に類推していくのが確かに言語学における王道なのかもしれない。

言語の構文分析だとか、分類なんかも、それなりにそこそこ楽しかったりするわけだけれど、生成文法が生成文法という大風呂敷を広げて研究プログラムを掲げている以上は、その先にあるものを常に意識した上でないと、語法分析は語法分析の域を越えることはないのではないかと常々考えている。

私が言語学に取り組んでいる際に、一つ注意していることがある。

それは言語が、記号的役割以上のものを果たしているのではないかという信念である。

これは思い込みと言った方が正しいのかもしれない。

卵が先か鶏が先かの議論はとりあえずさておき、ある種の抽象概念を用いる能力が人間の認知能力の特殊性の一部ではないのかというのが、どうも私の中の感覚としてある。

この場合の特殊性というのは、単に人間のコミュニケーション、認知能力、思考能力が他の生物とは「違う」といっているだけのことであって、特別「優れている」などという傲慢な意識を持っているわけではないということに注意されたい。

ヒトゲノムと霊長類のそれに、あまり差異が見られないということはけっこう有名な事実だが、先日、ネイチャーで遺伝子調節自体がヒトと霊長類の脳の構造を決めるのに決定的な役割を果たしているのではないかとかいう話も掲載されており、解剖学的な見地からもヒトの脳構造はまだまだ研究の余地があるというか、研究はまだまだ始まったばかりだという印象が拭えない。

そう考えてみると、そういったハード面だけではなくて、ソフト面でどういった差異を生み出しているのかということを考察するにあたって、言語能力の特殊性が注目されるのは当然のことなのではないかとも思われるのである。

人間言語の特殊性に話を戻そう。

例えば、人間言語は、数量詞を扱ったり、段階制のある表現を扱ったりすることができる。

こういった能力は、言語表現という形でダイレクトに表現されることになる。

例えば、日本語では「だれ」「なに」といった不定名詞に「か」とか「も」といった助詞を組み合わせることによって、存在量化詞や普遍量化詞を表現することができる。

実際にその場に居合わせている個人名を指して、それが誰かとか認識する能力も、指し示す能力も霊長類にあることは分かっている。

問題は、その場にいないような単なる「存在」認識や「普遍」認識だとかいったことが人間にはでき、それを表す方法があるということにある。

確かに霊長類に抽象概念を考える能力はあるのかもしれないが、それを表す表現が今の段階で分かっている彼らのコミュニケーション形態において存在しないということには注意が必要とされるのではないか。

ということは、そういった抽象概念を表す表現形式は、十分に普遍文法の候補であると考える理由になるのではないかと思う。

そういった認識があって、量化詞や段階制のある表現に興味を持つようになったのであるが、自分の研究立場は大多数の生成文法家が依拠している立場ともちょっと異なっているし、大多数の意味論者が依拠している立場ともちょっと異なっているようである。

これについては、自分自身の研究で世に問う以外に方法はないのではないかと思うのだけれど。

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2007年8月12日 (日)

LaTeXで意外につまったこと

LaTeXを使っていて、ちょっとわからないことがあると、googleでいろいろと検索するのだけれど、それがけっこう役に立つことが多い。

わりと多くの人たちが、「自分がつまったポイント」をワンポイントで書かれていたりすることがあって、それがけっこう役に立つことが多いので、私も恩返しがてら、ちょっと一言。こいつのせいで、けっこう時間食ってしまったのです。(以下、LaTeX使いの人以外に役立つ話はありません。すみません)

問題は、TeXパッケージがプリインストールされているマシンに新しいファイルを入れて、LaTeXとBibTexに新しいファイルの存在を認識させる方法です。ls-R自体をいじくってやんなきゃいけないんだけれど、こいつに対するアクセス権がないので、そいつを解いてやる必要がある。

The TeX package is pre-installed in the new MacBook. A variety of files are available, but you definitely need to add a new file.

First, you put a new file in an appropriate place. (e.g. bib is in "~\bibtex\bib\base." sty is in "~\tex\latex\") "Sudo mktexlsr" or "sudo "texhash" command, using the terminal, does not work, because "ls-R" file itself cannot be accessed. Go to the place in which "ls-R" is included using "cd", and then use the "chmod" command. Now, you can revise "ls-R" file. You add a new command on it for LaTeX to detect the existence of a new file or I suppose "sudo mktexlsr" works.

Happy LaTeX~♪

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2007年5月15日 (火)

学会

えーっと、学会のorganizeをいろいろと手伝ってきました。

「手伝った」とは言うものの、ほとんどメインで動き回っているようなもので、準備から何からけっこう忙しかったのです。

この国でけっこう凄いのが、「忙しいから」とかそういうのじゃなくて、「興味ないから」「しんどいから」「知らなかったから」とかいう理由で何もしてくれない関係者たちがけっこういることです。

アメリカや日本ではこういうことはないと思うのだけれど。

まぁ、そういうわけで、カンファレンスパックの準備から始まってその他いろいろと手伝ってまいりました。

学会自体は3日間で、随分と内容の濃い学会だったのだけれど、さすがにいろいろな話を聞いていると疲れてしまいますね。

働いているということもあって、3日目はくったくた。

発表者は基本的に大物さんたちがわんさかと来てくださって、けっこうびっくりです。

言語理論なんてものを構築する際に、扱われるデータっていうのはけっこう理想化されてしまっているのだけれど、まぁ、同じ言語間でも話者によって随分と違うデータが観察されたり、方言差なんかも顕著だったりするという話は、業界の人間なら誰でも知っていることで。

今回は大幅に趣旨を変えて、そういった差異と向き合って、ちゃんと形式化しようではないかという話。

invited speakerにデイビッドがいたというせいもあって、彼の論文が引用されることは多かったです。

彼のデータはスコットランド系ゲーリック語の動詞の形態素についての記述で、話者によって差異が出てくるのは、素性の顕在化のされ方にバリエーションがありえるからだという話。

西欧諸語では、動詞の屈折というものがありますが、これは対応する名詞句(例えば主語)の性質によります。

複数か単数かだとか、人称・性だとか。

そういった素性の指定はある程度、語彙的に定まっており、それらは優勢か劣勢の区別がつけられている。

優性遺伝の話と同じで、優勢の素性がある場合と劣勢の素性のある場合とで、その実現形において割合が定められているというのが話の趣旨。

計算方法なんかも簡単なのだけれど、ま、業界の人で興味のある方は、去年暮れのジャーナル・オブ・リングイスティックスをご覧下さい。

それでは、勝手に写真をたくさん掲載したいと思います。場所は2日目に行ったトルコ料理のお店。

Dscf0001 会場はヨーク大学の建物なのだけれど、市街にあるキングスマナーという所。目の前にはシアターが見えたりします。

Dscf0002 すぐ隣にはmuseumもあるのですが、けっこうちっこいです。ま、中に入っていろいろと見物するのも楽しいものなんですけど。さすがにロンドンやエディンバラ程の大きさはありません。

Dscf0003 すぐ隣がここキングスマナーでございます。こぢんまりとしていますが、なかなか趣のある綺麗な建物です。

Dscf0004 中に入るとこんな感じです。よく考えると建物の中で写真を撮るのを忘れていました。ま、忙しくバタバタとしていたので、わざわざ撮ろうという気にもならなかったからなのですが。

Dscf0013 写真の撮影者は全部このアレックスです。まぁ、彼女は彼女で勝手にface bookに私の顔写真を載せていたので、お返しみたいなもので。この人は基本的に写真写りがあんまりよくない気がする。美人なんだけど。

Dscf0011 真ん中がザヌチーニで右のおじさんがバービアーです。有名税ということで勝手に掲載してすみません。ザヌチーニとはいろいろと話し込みましたが、なかなか素敵でいい人でした。

Dscf0017 真ん中がうちの学生さんのノルウェー人のナナです。右はネビン。小柄で若々しくて、ノリがいいけっこうおもしろい人です。この人って経歴もけっこう変わってるんですよね。

Dscf0018 悩ましい表情で立っているのが、ホールムバーグです。手前の白髪のおじさんはうちでセミリタイアしちゃったスティーブ。今、ご近所さんなのです。実はスティーブは20カ国語喋るとかいう能力を持っています。ミーハーながらちょっと羨ましい。

Dscf0022 左端がこの業界では名の知れたブレズナンです。トークを聞いて、それと喋ってみて思ったのですが、頭のいい人ですね。って、何を今更って感じでしょうか。

Dscf0026 左端がチャールズ・ヤンです。おとなしくてシャイな人なのですが、喋ってみるとけっこういい人です。それと、この人も頭がいいですね。って、何を今更発言ばっかりしてるんだ!俺?

Dscf0027 3人娘、というわけでもないですが、けっこう年配の方々。真ん中がこの前もヨークにトークに来てくれたカロ。右が今のうちのdepartment headのスーザンです。歴史言語学ではちょっと名の知れた人。左がうちのバーナデッドで、今回のorganizeの中心の2人のうちの1人なのですが、けっこういろいろと困った人です。実は彼女の不注意で、小切手が盗まれたのだけれど、私が八つ当たりされてしまいました。そういう理不尽な行動はどうも「よくある話」なのだそうですが、そういうのって放置してていいんですかねぇ。この前もPhDのギリシア人の女の子とイギリス人の男性とけっこう激しくやりあってたんですが。まぁ、その日は一通り好き放題言い終わったらすっきりしたみたいで、午後にはご機嫌で話しかけてきたんですけど。カロと交換してくれないかな?って、無理か。

Dscf0030_1 私とorganizeの中心のビルとネビンです。ま、若い者同士で、ってことで。

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2007年4月28日 (土)

イギリスの大学で試験

えと、今日は試験監督があったので、ちょこっと働いてきました。

一応、時給は20ポンドと悪くないのですが、しょっちゅうあるわけでもないし、だいたい1時間か2時間程度の仕事です。

うちの大学では、前の学期の試験を翌週の1週目にやります。つまり、長期休暇は試験勉強に充ててね、って感じ。

それで、受験者は受験番号が振り当てられて、解答用紙には受験番号を書くようになっているんですね。

要するにインストラクターの立場に立てば、「お、この子は頑張ってるからおまけ」とか、「お、この子は美人だから得点あげよう」だとか、「お、こいつむかつくからやっぱペケ」とかいった私情が入りかねないので、そういうものを排除しようとかいうシステムになっているわけですね。匿名性というわけ。

そういうわけで、試験前後の決まり事とかけっこういろいろあってややこしいっちゃややこしいのです。

どうしてこれだけ試験の内容を重視するかと言いますと、イギリスの大学では学業成績をランク付けするようになっているからなんですね。

試験で、専門の科目を落とすと(成績の40%以下が対象)、追試が待っていますが、これも落としちゃうと、普通は大学をクビになるかordinary、もしくはpass degreeという単位で卒業することになります。

これはどういうことかというと、「単位揃えて卒業したけど、専門知識身につけてないから、なんちゃって学士なんだよね」という意味です。めっちゃ不名誉。

成績はだいたい、first class, upper second, lower second, third classの4段階に分けられちゃうのですが、後者2つの成績だと有名な企業では書類審査で落とされるし、有名大学院にも入れてもらえません。なんとしてでも、upper secondは取らないといけない。(ていうか、一流企業か、一流大学に奨学金付きで入りたければfirst classでないと相手にされないと考えた方がいい)

first classは学生の4分の1とかではなくて、もうちょっと少数の人たちにしか与えてもらえません。去年のBBCの調査によれば11%の学生がfirst classだったらしい。(試験成績の70%以上が目安)

アメリカの大学でもGPAっていう成績平均値が重要視されるわけだけれど、要するにイギリスでもアメリカでも日本より勉強する人たちが多いのはこういう大学の成績が今後の進路に及ぼす影響が大きいからなのです。

日本の大学だと、例えば、東大や京大出身といった大学名が重要で大学の成績は考慮に入らないですが、アメリカやイギリスなんかだと上位の大学で上位の成績を取るということの方が重要視される。端的に言えば、オックスブリッジ出身で成績が悪い人間より、ヨークやエジンバラなんかの成績上位者の方が圧倒的に評価されるという話。

まぁ、健全と言えば健全だと思うのだけれど、日本の大学でもこの制度を導入しようと思えば、試験制度のあり方から徹底しないといけないし、問題は多いのではないかと思う。

だいたい、学生の側から教師にクレームとかあまりつけられないし。(というのが私の時代のH大の話ですが、某国立大学にお勤めの先輩がいろいろとご苦労なさっているのを思い出した。時代は変わったのかもしれない。ていうか、理不尽なクレームを受けられているのだけれど)

とにかく、この大学の学生を見ていて感心するのが(上位半分の話ですよ。下位はどこの世界でも似たり寄ったりのような気がする)、自分で勉強して、いろいろと調べる習慣が身に付いているということですね。independent studyが小さい頃からの習慣なので、ほっといても勉強する人が多いです。

日本は指示されると、ちゃんとこなせる人が多いと思うのだけれど、指示待ちってのが多いですよね。下手すると、「どうやって勉強すればいいのか?」とかいう勉強方法まで尋ねに来る人たちも多いし。

日本人って精密で細かいことをきちっとやれる人たちが多いので、independent studyができる人が増えれば無敵の人種になれるのではないかとも思うんだけど、まぁ、そこは愛嬌か。

それぐらいの欠点はあっていいような気もするな。

約束を守るとか、素行がよくて人様に迷惑をかけないとかいう美点も国際的に評価高いし。だいたい、ノービザで入国できる国が世界中にあちこちあるんだから、日本のパスポートってありがたいんですよね。国内にいるとなかなか分からない話なのですが。

それと、家(部屋)探しでも、日本人だと便利です。信頼されることが多いので。

実はこの部屋を借りるときにも、大家さんのお姉さんにdepositとか払ってなかったのだけれど(要求されなかった)、最近、「日本人でしかもPhDの学生だから」っていうことだけでフリーパスだったということを聞いた。

こういう信用って積み重ねだからな。

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2007年4月27日 (金)

研究者の交流

えーっと、今日はキャロライナ・ヘイコックさんに訪問いただき、トークをしてもらいました。(今はこの写真より髪が長い。かなり。っていうか、写真って雰囲気分かりにくい)

って、キャロとは面識もあって、けっこう長々と喋ったりメールのやりとりもさせていただいているので、会いやすいといえば会いやすいのですが。

それにしても、研究者の交流って盛んなのだけれど、本当にいい人たちが多くて、ありがたい話である。

こういうホスピタリティってのは、一流どころの人たちが持ち合わせるべき一つの資質でもあるのかもしれない。やはり、話しやすくていろいろと交流があると自分の理論を洗練させる機会をたくさん持つということにもつながるのだろうし。

こういう経験と恩義はしっかりと胸に刻んで、それで自分で紡いでいかないといけない。ある種のリレーみたいなものなのだろうし、馴れ合いじゃなければ、仲良くやっていくという習慣を持っている学派は発展していくのだろうし。(大の大人がつぶし合いをしているのって、あまりかっこよくないし)

研究者の交流という面では、確かに日本は後れを取っているのであろう。

知り合いの帰国子女の研究者が日本の研究者とコンタクトが取れなくて、けっこう苦労していたし。

日本の研究者にももちろん優秀な人たちは多いのだけれど、なんだかつきあいにくい人が多いなというのは否定できないと思われる。やたらと人見知りするおとなしい人だとか、高圧的で威張っているのに中身がない人の割合がやたらと多い。(という印象が拭えない)

一応、言語学や心理学なんかだとその辺はフランクというか、けっこうつきあい安い人は多いのだけれど、分野によっては、けっこう悲惨な所もあります。

まぁ、その辺は想像にお任せするとして、話を戻します。

キャロは、随分と頭が切れる人です。

頭の回転が速くて、早口で、声が太くて、それできれいな人です。「かっこいい女性」という言葉がとても似合う。

昼食を一緒に食べたのだけれど(5人で)、大学の食堂で御飯を食べるのって、これまでたぶん5回もないと思う。(たぶん、今回で3,4回目)

食事は、茄子を揚げたのに、何かいろんなものをぶっかけてあるものと、ライスが少々、それにパスタサラダと野菜たくさんというのもの。

ビュッフェ形式でいろいろな物の中から選べるやつです。H大で言えば、4食みたいなの。

質ですが、悪くないです。これだったら「おいしい」と言っても差し支えない。

海外の大学の食堂だと、例えばアメリカのワシントン大学で何度か食べたことがあるのだけれど、印象は最悪でした。

いやね、量は多いんですが、あの国って、なんでも「物をかけすぎ」って感じなんですよね。

油ギトギト、調味料ボタボタって感じで、ベジタリアンコーナーの所を覗いてみても「こんなん食ってたら太るわ」って感じのハイカロリー食品が満載。これを食べて「ヘルシー!」なんて言ってるんだから、いくらでも大きくなってくださいって感じですよね。

They are all horizontally-challenged. 「あいつらみんな体格が不自由だからね」

質も悪いし(バキバキと割れる音が鳴るファットタイ(タイ風焼きそば)とか、ふやけパスタとか)。

こっちのは、サラダもオリーブオイル、レモン、ホワイトワインビネガー、塩胡椒のシンプルなものだし、パスタサラダもなかなかのもの。これだったら、十分食べていけますね。

というわけで、食事中にキャロと話し込んだりしている間に、うちのギリシア人のファカルティーのジョージのパートナーのクッキーさんがお子様を連れて登場。

クッキーさんは美人な韓国人なのだけれど、PhDがエジンバラなので、キャロの世話になっているので会いに来られたのである。

その8ヶ月のお子様はジョージそっくりで、目がぱっちりしていてもの凄くかわいい。

それで、とってもなついてくれました。

なにせ、昼食がお開きになって私と引き離されると泣き出すほど(近寄ったら泣き止んだ)なついてくれたのです。思わず、このまま持って帰ろうかと思ったほどなのですが。

それで、トークの後、いつも通りdepartmentでお喋り。

平日でやらなきゃいけないこともあるので、ワインはグラス1杯で我慢。(だって、うちのdepartment headに手渡されたらさすがに拒否できない)

実は1月からファカルティーに新しく入った人が日本語ペラペラだったのに驚く。(だって、日本在住3年半。しかも、京橋に住んでいたって。めちゃ、ローカルやん。素敵!おいら、関西大好き人間なのでうれしい)

そのまま喋り続けていたらいつの間にやら夕方。

キャロには、エジンバラに来ることがあったら(NESSなんかで行く用事はある)連絡するように言われました。なんか御飯奢ってくれるそうです。やた。

研究者としてのキャロは凄い人で、とにかく、徹底的な言語事実の分析と妥協することのない理論の洗練化が行われるので、彼女の仕事に触れてみて、「あ、これは外れだったな」と思うことがありません。

妥協することがない態度は論文にも出ていて、分からない部分はちゃんと分からないと明示してあって、その理由と、ありえる可能性なんかもちゃんと考慮してあったりします。この真摯な態度はぜひとも見習いたいものですが。

研究分野が被っていることが多いので、喋っていても凄く刺激的だし、私の知っていることなら全部知っていたりするので、話をするのも楽です。(日本語にも素養がある。話せないけど)

というわけで、今日は刺激的でなかなか充実した一日でした。これで、また明日からパソコンと論文とのにらめっこに突入する活力が出てきたというものです。

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2007年4月21日 (土)

教育を改善する方法

少年法改正、今国会成立へ 与党修正案を衆院法務委可決

どうも、最近の少年犯罪が「凶悪化」「増加」したための措置らしいのだが、これがまったく分からない。

犯罪白書によれば、少年犯罪の件数は1960年代をピークに(8000件を越えていた)、現在では激減し、およそ4分の1の数値で横ばいという統計が出ている。

「少年犯罪が凶悪化、増加」したと嘆いて見せている人たちが少年であった頃が一番粗野であったわけである。

これだけ少年犯罪の件数を激減させることに成功できたわけであるから、その要因はいろいろとあるのであろう。

教育や警察、家庭、おおよそ子供たちを取り巻く環境は改善されたと考えて然るべきであると考えるのが妥当であるように思える。

少年犯罪の様々な症例をおもしろおかしくマスコミが取り上げ、それを政府・与党が利用していると考えるのは、それほど無茶な推論ではないように思う。

現在の政府は、いろいろと問題を浮立たせることによって、大衆の不安を煽り、教育システムをいろいろと改正していく方向に進めているのであろう。

別段、それがいい方向に向かっているとは思わない。

彼らにとって都合の良い教育というのは、自分たちの子弟が確実に自分たちの資産を継ぐだけの学歴を身につけ、さらに多くの純朴な兵隊を育てるということに他ならない。

当初の予定から大きく外れ、ゆとり教育がどんどんとあらぬ方向に進んでいったのもそのためである。

競争水準そのものが低くなれば、学歴はそれこそ後天的な環境によって身につけるというファクターが大きく物を言うようになってくるわけである。それこそバカでも、そこそこやればそこそこ身に付くという状況は好ましい状況であったはずだ。

ただ、その教育の平均値を下げることによって階級を固定化させるという面ばかりに捕らわれたせいで、高等教育の水準そのものが下がってくるという弊害が出てきてしまった。

何の資源も持たない日本は、人材によって経済を支える以外に他はないのであるが、その人材の供給が不足する自体に陥ってしまう可能性が出てきたのである。

日本経済そのものが沈没してしまっては、階級を固定化できてもうまみがなくなってしまう。

安部内閣は、そのことに気づいているのであろう。それで、自分たちなりに教育を「改革」させ、再び優秀な人材を確保できるシステムを構築したいと考え、いろいろと焦っているのではないかというのが私の見解である。

ただ、思うに、教育というシステムを最も効率化する方法は、「金は出しても、口は出さない」という一言に尽きるのではないかと思う。

金だけばらまいて、「あとはご自由に」とするのが最も効率的に高等教育を発展させる方法であると私は考える。

これは別に、私がアカデミック業界の人間だから都合の良いことを言っているのではなくて(実現したら都合がいいけど)、おそらく客観的に考えて最も高率の良い方法であると思うのである。

教育や研究には金がかかる。

例えば、研究に没頭するには莫大な時間がかかる。

私が留学に最も求めていたのは、研究する時間と場所である。残念ながら日本ではそれらをなかなか確保することができなかった。

例を挙げよう。

例えば、日本で大学院生をやろうと思えば、国立でおよそ年間50万、私立で100万前後の授業料と、国民年金という名の税金と(今の20代に年金は返ってこないだろう。税金と考えておいた方がいいと思う)、パソコンなどの必要な物、食費、書籍、交通費、遊行費etcとけっこう金がかかる。

ヨーロッパの大学院の授業料は安い。(実際、ただのところも多い)アメリカやイギリスの大学では奨学金の機会も多い。

奨学金とはいっても、日本のような借金ではなくて、本当のちゃんとしたやつで返還義務のないものである。

私は日本にいるときには、半分社会人みたいなものだったので、けっこう時間を取られていたのである。(楽しかったけど、しんどかったのです)

こっちに来て、1年以上になるけど、それなりに自分が成長したということがよくわかる。(1年以上前の論文なんか全部焼却処分にしたくてたまらない気分になる)

それもこれも、研究する時間と場所が確保できたからである。(facultyなど他の要因も大きいけど、一番大きいのはここ)

私程度でもそうなのであるから、もう少し日本の優秀な学生に金をばらまく制度ぐらいあってもいいのではないか。

日本にいるとちょっと鈍感になってしまうのだけれど、そもそも年齢やら国籍やらで制限を設けるのはちょっとおかしい。アカデミックってやつは、そういったものとは関係ないという建前でやっているはずである。だいたい、税金で運営している機関が、自国民に奨学金の機会がないってどういうことだ?(借金じゃなくて、奨学金ね)

世界規模で考えても分かるとは思うが、教育機関ってのは、金と施設だけ与えて、後は放置という形が一番発展するのである。

イギリスでも、オックスフォードもケンブリッジも元々、私的な集団だったし、自治みたいなものは今でも認められているし。(だから、別格。ここでは金etcとは無関係に純粋理論の研究に打ち込める環境が今でも与えられている。その成果は言うまでもない)

アメリカでもアイビーリーグだけじゃなくて、新興のスタンフォード大学なんて、スタンフォードの寄付金でここ100年で一気にのし上がった大学なんだし。

日本でも、最も教育機関が発展したのは幕末期にかけてだと思われるのだが、松下村塾、適塾など勝手に遊ばせておいた教育機関が果たした歴史的役割については今更言うまでもないであろう。

そう考えると、政府が音頭を取って「みな、一様に!」って形態はそもそも教育機関には馴染まないのではないか。

「予算あげるし、授業料下げて先進国並みにするし、研究員も確保したげるから、後は勝手にやってね。あ、報告だけよろしく」

というのが、恐らく最も教育機関を向上させる方法であると私は確信する。

学生は経済的に少し余裕ができれば、きついバイトの分を研究に回せるし、事務員なんかを確保して教授陣や研究者たちに時間を与えれば、彼らの多くも研究に没頭するはずである。そもそも、大学の教師を志すような人たちはなんらかの変竹林な物事に必要以上に興味を示す人たちの集団なのである。時間があれば、ほっておいても、勝手にやるはずだ。

ま、そんなことやっても利権ゼロだから、どうせ誰もやんないんだろうけど。

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2007年4月13日 (金)

教育の崩壊という嘘(1)

教育が崩壊しているetcという言論が昨今の流行である。

確かにゆとり教育がどうのとか、大学全入時代がどうのとか、あれこれと昨今の教育状況を語るに素材は尽きないようである。

ただ、私個人としては本当に教育が崩壊しているのかということに関して、甚だ懐疑的なのである。

ちょっと冷静に考えてもらいたい。

おおよそ、昨今の教育状況を問題視する人たちの多くは「団塊」と呼ばれる世代の人たちであるはずである。

そもそも、彼らに大学教育の崩壊云々を語る資格があるのかどうかという部分を私は問うてみたいわけである。

過去の礼儀正しい日本だの、美しかった日本だの、過去を美化する傾向があることを特に問題視したくはないのであるが、彼らの言う「美しい」「素晴らしい」日本がいつからいつまでの間を指して言っている言葉なのかをはっきりと明示してもらいたいと思っているのは私だけであろうか。

俗に言う、左翼の人たちが語る「理想的な」「本当の」「平和な」「本質的な」共産主義というものが、現実には存在し得ない鵺のようなもの、ちょっと厳しい言い方をすれば、空想満載のおとぎ話であるという度合いと、懐古主義者の人たちが語る「美しい日本」という妄想の強力さにおいては、どちらも比するところがない。

要するに、空想上の「理想」なるものがまずあり、世の中はそれとは一致しないと嘆いてみせる態度に関しては、どちらもどっこいどっこいなわけである。

そういった「私は問題意識を持っているのだが、現実は違う。嘆かわしい」と嘆いてみせる態度こそが知性であると考える人たちの数は、我々が想像するより遙かに多い。

単純に、団塊の世代の人たちの大学というものについて考えてみよう。

彼らの時代、大学教育はまさに「崩壊」状態であると言って差し支えなかったはずである。

誰も彼もが、ファッション、流行のように黄色のヘルメットを被って、警棒を持ち、バリケードを張って、それで大学構内に立てこもることが、さも「問題意識を持ったエリート」であるという風潮が当時はまかり通っていたはずである。

彼らのやっていたことは、自分こそが知性の先端に立っており、さらには平和の使者であるというナイーブな思いこみに支えられていたということは想像に難くない。

なぜそういうこをやっていたのかと言えば、それが「かっこいい」という風潮があり、複雑怪奇で曖昧模糊とした資本論の内容をテクニカルタームを織り交ぜることで、さも内容があるように語りかけることで自分にまるで「知性がある」と思いこみ、また他人に思いこませることで有意な立場に立とうとする歪んだエリート意識があったからとでも言う他はない。

彼らが本気で左翼活動を行っていなかったということは、就職を控える最終学年(要するに4年生)になると顕在化される。

それまで何かをやっていたということは一筋も匂わさず、髪を切り、髭を剃り、周りと同じ紺のスーツを身に纏って就職活動に赴き、それで首尾良くブルジョアの仲間入りを果たす。

自分たちがやりたい放題をしたことで、例えば、東大の入試が中止されてしまったことなどおかまいなし。そもそも、自分は入学してしまったのだから「関係ないね」って態度で、責任を後続に押しつける態度は、団塊の世代の多くの人たちの根幹を支える理念でもある。(そういった無責任な態度によって引き起こされる種々の問題を背負わされているのは、現在の30代や20代の人たちであると明言して過言ではなかろう)

端的に言って、昔の人たちの方が頭脳に優れ、研究能力に秀でていたのかと言われると私には甚だ疑問である。

彼らの主張は、自分たちの世代の、それこそ何があろうと芽を出してきたような一部の優秀な人たちの業績に乗っかかるような形でしか提示されることがない。

そもそも問題にもしたくないような、下位の人たちのことはまるでなかったかのように振る舞うのが彼らの基本的な行動指針である。

そんなものは、現在でも同じである。

いつの世代、どこの社会、どこの団体であろうが、とりあえずは機能している、回っている組織というものは、少数の優秀な人たちと少数のろくでもない人たちと、多数の普通の人たちで構成されている。

昔の世代を評価する際には、優秀な人たちにスポットライトを当て、現在の世代に関してはろくでもない人たちにスポットライトを当てているだけの話である。

現在の優秀な人たちにスポットライトが当たることはない。

なぜなら、若くて優秀な人たちは、年配の人たちにとっては自分たちの地位を脅かしかねないうっとおしい存在でしかなく、さらには自分たちのプライドの拠り所を揺すぶる腫瘍みたいなものだからである。

彼らの芽は、自分たちの目が黒い間には摘んでおく必要があるわけである。

また、若い人たちにとっても、自分たちの世代の優秀な人間というものは、自分たちのアイデンティティを脅かす不穏な存在でしかない。

自分たちの存在基盤をまだまだ確立できていないのに、まるで自動ドアでも開けるかのごとく次から次へと問題を解決していくような人たちは、自分たちの存在意義を否定する可能性すらある人たちでしかない。

彼らの芽は摘まれるか、もしくは見ないふりをするのが一番なのである。

ということで、古い世代、新しい世代の双方にとって、若くて優秀な人たちの存在はないものとして扱うのが多数派の意見だと言って他ならないようにも思われるわけである。

メディアを通じて伝えられる情報は、多数派の人たちを納得させ、さらには安心感を与え、時には不安や扇動を起こすようなものでなくてはならない。

ということは、現在の教育状況が「改善され」「向上された」と認識されても得をする人間はほとんどいないわけである。

若者はバカであるという優越意識を多くの年寄りが持ち、また、若者の向上意識を抑えるためには、昨今の若者を鼓舞するような言動は慎まねばならない。

よくよく考えると、教育問題なるものも全く複雑なものである。

教育は常に問題を抱えた、不安定な状況でなくてはならないということが義務づけられているからである。

本題ですが、近いうちに続きを書きます。

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2007年4月 5日 (木)

言葉の意味について考える

意味論に詳しい人は気づいていらっしゃったと思うのだけれど、実は、昔の某記事(タッチの文)の内容は学問的に間違いです。

書き終わって一応、「あれ?(おかしいぞ)」ということくらいはさすがに気づいたのだけれど、けっこう重要な問題を含む内容だったので、どっかにメモするのもめんどくさいからいいやって思って放置しておいたのです。(そんな時に限って意味論の専門家さんにコメントされてしまったりする。油断できない)

なぜあれを間違えてしまったのかと言えば、

1. そもそもdegree operatorの出発点になるgradable expressionがなぜか日本語には明示されない場合がある。

2. そもそもphrasal comparativeの構造と意味って、真剣に考えられているのか?(遊魂の人たちが3人でよってたかって分析していた論文があるが、あれはcomparative deletionだし、その後は誰かやっているのか?)

というcomparative分析に関して、めちゃくちゃ重要な問題が隠されていたからです。

実は最近になって、自分が意味論の、それこそ授業のコースワークで書くレポート以上の、ちゃんとしたリサーチペーパーを書く自信が出てくるようになってきたので(オリジナルワークってことね)、それでもう一度この問題を見つめ直してみたのだけれど。

おいおい!これってめっちゃおもろいやんけ。

と今更ながら思ってしまったわけです。(このissueは誰かがやらなきゃいけない仕事だと思う。特にdegree morphemeを持たない言語を母語にしている人は)

というわけで、1トピックどころか実はまとめて2トピックの内容ができてしまったのだけれど(たぶんdiss.収録)、時々、こういう憑依されてしまって、どこかの偉いさんが自分の肉体を使って仕事しているんじゃないかと思うことがあるのって、なんだか不思議な体験。

この話題は(とは言っても、かなり膨らんでますけど)、たぶん近いうちにどっかで発表します。とは言っても、アメリカは交通費が出なくなったのでたぶんないし(ネルズが理想的なタイミングなのだが、仕方がない)、日本も同じ理由でない。(英語学会の締め切り過ぎちゃったし、やっぱり交通費ないし。いや、交通費補助とか言われたら全力でsubmitするんですけどね。ぜひ、ご一考を>学会支援機構さま)ということで、たぶんヨーロッパのどこか。

ところで、日本英語学会ということで、唐突に思い出したのだけれど、こっちの歌手で日本の街中で歌を歌うプロモーションビデオを撮影している人がいるんですよね。

そりゃ、日本の歌手がアメリカやヨーロッパで収録しているのを見るとなんだかエキゾチックな雰囲気がするので、それと同じ感覚だと思うのだけれど。

ただ、なぜか洗面所でがちゃぴんに遭遇して、肩を組んで一緒に歌っているとかいう図があったのですが、なかなか不思議な気持ちになります。ひらけポンきっきがこっちに進出してきたのかと思った。

はい、独り言です。

まぁ、そんなこんななのだけれど、ちょっと集中的に意味論の研究がしたくなっています。(最近)

やりたいissueが実は2つほどあって、ある程度現象なんかも見えているのだけれど、けっこう手間暇かかりそうなのです。ポスドクの口でもあれば、ちょっとやってみたいのだけれど。(別にsyntacticianでなくなったわけではないと思う)

ところで、こういう言葉の意味についていろいろと考えていると、職業病というか、なんだか変な気分になることが多々あります。(構造について考えていると、言語感覚がおかしくなります。なんだか、なんでもよくなってくる。「なぜ何を買ったの?」とか、慣れすぎて文法的な文なのじゃないかって気がしている。「何をなぜ買ったの?」の方がすわりのいい文章ですよね?)

例のタッチ文なのだけれど、ああいう告白の言葉もちゃんと固有名詞で言わないといけないですよね。

例えば、「永尾完治は赤名リカを愛しています。世界中の誰よりも」とかいう文の真偽についてはそれほど深く考えなくてもすむのだけれど、これが代名詞みたいにそれが何を指すのか時と場合によりけりなものだとちょっとややこしい話になる。

ちょっと解説すると。

例えば、「私はあなたを愛しています。世界中の誰よりも」とかいう文章の意味について考えてみると、「私」と発言する人が誰かによって、「私」が指す内容って変わりますよね?

例えば、永尾完治が「私」と言った場合には「私」という代名詞は永尾完治を指すことになるし、上杉達也が「私」と言った場合には「私」は上杉達也を指すことになる。

あんまりややこしいことを書くのも気が引けるのだけれど、こういう代名詞のように「誰が言うか?場所は?いつ?」とかいった環境によって指示対象が変わるような表現は、それを明示化する必要があります。

だから(ちょっと上付の文字は書けないのだけれど)、さっきの当該の文章で考えると、これらの要因を明示化して。

「私[永尾完治 赤名リカ]はあなた[永尾完治 赤名リカ]を愛しています。世界中の誰よりも」

って書き方をすればいい。この環境下では、永尾完治と赤名リカしかいないので、話し手の永尾完治が「僕」、聞き手の赤名リカが「あなた」を指すということははっきりしている。

ということで、話し手が聞き手に直接話しかけるという言説においては、この発言は常に真となりうるので、仮に永尾完治が、赤名リカの他に、例えば関口さとみに、永尾完治と関口さとみしかいないという環境下で「私はあなたを愛しています。世界中の誰よりも」と言っても、その発言は真になるということになる。

わーい。

というわけで、男性諸君は常に眼前にいる女性を適切に愛せという教訓なのでした。

ん?

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2007年3月11日 (日)

教師は何でも屋?

「聖職者」などと言われると背中が痒くなってくるのだけれど、一応、私には教員免許ってやつがあります。

短期間だけど、高校教師もやってたし。(実は2回ほど、高校教員を集めて講演したこともある。それは大阪府教育委員会の主催だったのだけれど)

教員免許を取るためには、教職科目ってのを取らないといけないのだけれど、担当者の先生の中で1人だけやる気もあって、話し上手で、また、さまざまな有益な情報を提供してくれた研究者がおられた。(他の教師は基本的にやる気のなさが全面に出ていて、「単位上げるから、授業来ないでください」という先生もおられました。ちなみに、1人、ストーカー行為で逮捕された先生もおられました)

正直、教職科目で役に立ったのはこれだけで(だから、文科省が新たに再教育etcなんて言っていますが、あんなもの世間に対するポーズ以上の意味はないと思う)、後は時間を無駄にしたという印象しかなかったのだけれど(まぁ、かなりさぼっていたのも事実だけれど)。

その先生は、まぁ、見た目が優しいクマさんって感じで、いつも同じような服装をしていて、それでいて声が大きくてはきはきしていていつも笑っているという感じの人なのだけれど、エネルギーの強さみたいなものが感じられる人でした(この人の授業だけは全部出ていた)。

その先生が著書を出されて、それで新聞にとりあげられていたみたいなのだけれど(写真ですが、私が受講していた時期よりも随分と痩せられています。大丈夫かな?)。

急増する“イチャモン”保護者 無理難題に学校疲弊

なんだかそのうち「景気が回復しないのは教師のせいだ」だとか「天気が悪いのは教師の日頃の行いが悪いせいだ」とか言われそうでちょっとかわいそうな気もしないでもないのだけれど。

こういうのって、基本的に人間、というか生物の基本的衝動に基づく行動であるようにも思える。

相手が反抗しない(できない)、弱い立場の人間だとあれこれと言えるのだけれど、相手が目上だと何も言わない。

マスメディアもそうですよね。私もマスコミの人間だったら同じことをすると思うのだけれど、視聴率が稼げて、それで取材に金がかからなくて、圧力団体だとか背後に強い組織が隠れていないような取材対象だと遠慮なく「マスコミの正義」を掲げて記事を掲載しまくるだろうけど、たとえ率が取れようが、相手が怖い組織(左右を問わず)に関わっていれば、まず、手を出すことはないです。

そもそも公務員って損な役回りのことが多いんですよね。

バブルの時期なんかだと、「なんでそんな安月給で仕事してるの?」って感じで蔑まれるし、不況(本当は日本経済自体は好況ですが、大多数の市民は不況なので、便宜上)だと不満の矛先を向けられてしまうし。

公務員叩きで、視聴率が取れたり、新聞の部数が増えるような社会だと、まだまだ教師という人たちは叩かれることでしょう。経済がもうちょっと好転して、富の配分のバランスが取れるといいのだけれど。

この手のニュースソースってのも、別に最近の教員の素行が特別悪くなったとかそういうことでもなくて(教員の平均的な質自体は向上していると言うべきであろう)、単にメディアがニュースとして取り上げるか取り上げないかというだけのことなんですよね。

私の中学時代にもセクハラ教師は普通にいましたし。

私は小学校1年の時に、いきなり教師に殴る蹴るの暴行を受けましたし。

その経緯ってのがけっこう屈辱的で。

小学校では集団登校が義務づけられていて、地域ごとに分団ってのが作られるので、それで1月に1度、分団ごとのミーティングがあったりするわけですね。

私たちの分団の集合場所は、養護教室で、けっこう遊戯施設もあったのだけれど。

そこで、高学年の女の子たちが遊び回っていて散らかしていたのだけれど。

担当の教師が教室に入ってきて、「誰だ!散らかしたのは!」とすごい剣幕だったのだけれど、その女の子たちが、教室の隅っこで座っていた1,2年生の男の子たち(私を含む)の仕業だと言ったんですね。

それで、疑いもせずにいきなりボコボコにされて、顔を腫らせて痣を作って帰る羽目になったわけです(そこまでガキんちょ殴るなよって思うのだけれど)。

家に帰って親に事情を話しても、「また悪いことしたんやろ」でまともにとりあえってもらえなかったし。

小学校5,6年の頃の担任の中年女性は情緒不安定で、機嫌がよければ気持ち悪いぐらい優しいのだけれど、悪い時はけっこう凄くて。

私は土下座させられたりだとか(これもかなり屈辱的な理由だったのだが)、ノートを投げつけられたりだとか(その教師が自分の机の中に入れて忘れていたのだが、逆切れされた)けっこう精神的に悔しい思いをしたのだけれど、クラスメイトの中には、黒板消しやら鋏やら椅子やらを投げつけられたりしていた人たちもいたので、まだましな部類だったのかもしれない。

今、教師が叩かれているのも、昔、好き放題やっていた反動なのかもしれないけれど、もうちょっとバランスを取っていただきたいものである。

思うに、人間が関わる組織で、そこそこ機能しているものって、少数の優秀な人たちと、少数のろくでもない人たちと、大多数の普通の人たちで構成されているものなので、賞賛しようと思えばできるし、貶そうと思えばいくらでもできるものなのだと思う。

小学校なんかだと担任教師の善し悪しが全てで、それこそろくでもない人に当たると逃げ場がないのがけっこう問題なのかもしれない。

中学校以降だと、担任も大事だけれど、授業科目毎に教師が替わるので、みんながみんなひどい先生とかいうことにもならないだろうし。

まぁ、学校に何でもかんでも期待し過ぎということに問題は集約してしまうのだけれど。

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2007年2月19日 (月)

言語学という学問

Dscf0002_14 今日は午前中にOverseas Student Association主催のフットサルの大会が開催されました。日本は2チームほど出場しましたが、なんと私のいるAチームが優勝しちゃいました。もう一つのBチームも、一応、セミファイナルまで進出して、そこで我々と対戦したのですが。(こっちの最終結果は4位)

走り回るのは随分と疲れましたが、1位を取るのって気持ちいいものですね。やっぱり、何事も1位がいいです。「優勝」という言葉の響きはとてもいい。

写真は大会の1幕です。私はチームカラーの青シャツを持っていなかったので、友人に借りました(再度、この場を借りてお礼申し上げます)。それで、そのシャツってのが一昔前の日本代表の宮本恒靖のユニフォームだったんですよね。年齢もそんなに変わらないし、出身地も近くなので、けっこう親近感が沸いております。1対1にはめっぽう弱いですが、ザルツブルグでもう一花咲かせて欲しいものです。

今日はちょっととあるきっかけで、言語学について考えるところがあったので、ちょっと雑談。

言語学というと、日本ではまだまだ経験科学としての地位が確率されていないというのが正直なところだと思うのだけれど、これはこれでけっこうややこしいものがある。

私自身、言語学というものは経験科学だと思っているし、科学的手法が有効であるという幻想を深く持っている。

昨今は生物言語学だの、脳科学だのなんだのということで、けっこう大きな話題も取り上げられるようになってきているし、生成文法でもけっこう大仰な看板を掲げて研究が進められているのは否定できない事実でもある。

生物学としての言語学、という分野に私はとても興味があるし、そのためには言語学と生物学との間の橋渡しがまず必要だと思うのだけれど、正直、ごく一部の例外を除いて、生物学と言語学の両方に精通しているような人は、まだまだほとんどいないと申し上げて過言ではないと思う。

言語学において、時々見受けられる仰々しい研究課題や目標といったものを眺めてみると、かなり違和感を感じることがある。

その言やよし、しかし、その言説は地に足がついているものなのか?というごくごく基本的な疑問なのである。

業界が狭いので、特に誰の理論かということを明示しないで話を進めていこうと思う。

この業界の日本人で有名な研究者がいるのだが、私はなぜか彼の理論に触れて、納得したことが全くないという研究者がいる。

論文を読んで、実際に会って、非常にクレバーな人であるということはよく分かる。

知識もあるし、功成り名を遂げた業績に対して頭は下がる思いなのだが、なぜかどうしても納得できないのである。

こう、身体的に拒否反応のようなものが出てくるのである。

議論の組み立て方は感心するし、概念的な意図もよく分かる。ただ、時にそこから導き出される結論がどうも乱暴に思えて仕方がない。

こういうのって、個人の趣向の問題でもあるので、特に人に「そうだよね?」って感じで共感してもらおうという意図はないのであるが。

ミニマリストというプログラムが順調に進行中、ということに世の中はなっている。

そこで掲げられているテーゼというものも分からないではない。

ただ、時折見受けられる、言語現象に対して「些末な」だとか「些細な」だとかいった形容(動)詞が私にはどうも受け付けられない。

言語研究を進める際に、戦略的、マクロな視点、とりわけUGという視点を取り入れることによって、研究目標が定められた生成文法の利点は大いに評価すべきであると思う。

そこで行われている研究は単なる記述の域を越えて、大いに発展していく可能性を常にもたらすという安心感は、広大なる海に投げ出された航海者たちに羅針盤を与えたようなものであり、方向性が定められたということが持つ意味は決して大きくはないということもよく分かる。

それはそれでいいのである。この意見には大きく同調している。

ただ、ミニマリストになって、もちろん、そこでは一長一短あるのであるが、私はミニマリストのテーゼが大きくなりすぎているのではないかという危惧を常に抱いているのである。

言うなれば、話だけがどんどん大きくなっていって収拾がつかないような状況に思えて仕方がないのである。

脳科学だの、計算機言語学だの、進化的発展だの、そういった視野を持つことの重要性を否定するわけではない。

ただ、こういった分野に目を向ける際に注意しなければならないのが、「でも、言語学って経験科学でしょ?」という単純な問題意識なのである。

「そんなもの単なる個別言語の個別事象に過ぎない」と知った顔をするのはとても簡単なのであるが、問題は経験科学はデータの積み重ねの上で組み立てられた議論以外には価値がないという点にある。

理論的に、概念的にエレガントな仮説を立てるのは確かに楽しい作業である。その仮説が単純で綺麗であればあるほど、その行為自体にも意味があるようにも思える。

ただ、単純に綺麗で美しい議論を作りたいのであれば、私は数学を初めとする抽象学問だけに止めておいていただきたいのである。

あまりに発展し過ぎて、ちょっと忘れてしまいがちであるが、例えば物理学などは典型的な経験科学である。

そこで組み立てられた理論は、それがいかな単純で美しい理論であっても、経験的事実を説明しないのであれば、その価値はなきに等しい。(そのデータが、ある種、理想化された環境におけるものであっても、である)

経験科学における仮説の価値は、それが既存の事実を説明しうるか、もしくは既存の事実は本来、無関係のものであるということが証明できるか、願わくば、新たな事実を発掘し得るかという部分において評価されるべきであるように思える。

仮説が美しいかどうかを議論するのは、前もって、データを説明できるか否かを議論した後に来るものである。仮説の美しさは、本来、一義的に議論するものではないはずなのである。

はっきり言わせてもらうが、私は言語学の発展に関してそれほど楽観的ではない。

単純に考えて、言語を言語たらしめる特徴なるものについても、まだ十分に議論する俎上に載せるだけの事実を我々、言語屋さんは発見できていないのが実情なのではないか?

生物学だとか、物理学だとかいった諸学問分野との統合は望むところであるが、その前に独自の確立した理論を持っていなければ、他の分野に相手をされないのが実情であろう。我々はまだまだ言語データを十分に発掘しきれていないはずである。

「そんなものは単なる言語現象の記述であって、私はそのようなものに興味がない」という言説もよく見かける。

ただ、注意したいのは、経験科学はどこまでいっても記述であり、それは物理学などのように大きく発展した経験科学においても変わらないということである。

いかにエレガントな理論があろうが、それが現象を説明しないものなのであれば、そのようなものに価値はないのである。汚かろうが、複雑であろうが、事実を記述できる理論があるならば、暫時、そちらを採用すべきであって、理論を洗練化させるのはその後に来る作業であるはずである。

現実を遊離した理論に魅力を感じないのはそのためである。いかな「エレガント」と形容される理論であっても、それが現実にそぐわないのであれば、修正・破棄すべきものであると考える。

といったことを自戒の念も込めて、ここに記述するものである。

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2007年2月 8日 (木)

階級社会

イギリスが階級社会と呼ばれているのは、今更強調するほどのことでもないのだけれど、この現状に際しては多少の注意が必要である。

当然のことだが、別に労働者階級の人たちに飛躍の機会がないというわけではない。彼らも望めば、大学で高等教育を受けることは可能だし、さらに多くの就職の機会を求めることは実質難しいことではない。

それでは、いったい何が問題なのであろうか?

念のため言っておくが、イギリスの教育費は格段に安い。

日本にいるとなかなか分からないことであるが、日本は先進諸国の中で、政府が最も教育にお金を使わないということで有名なのである。

単純計算すると、イギリスの教育にかかる費用は日本のそれと比べるとおよそ10分の1である。別に嘘を言っているわけではない。

大学の授業料は、だいたい年間10万円ちょいで、もちろん給付型の奨学金も充実している。(だいたい、「返還義務」のある奨学金は「奨学金」とは呼べない。それは「ローン」である)

大学院進学に際しても、イギリスに在住しており、一定期間にわたる税金を納めていれば、奨学金(授業料と生活費)獲得の可能性はかなりあるのである。

ハード面では確実に、高等教育を獲得し、立身出世の機会を得ようと思えばいくらでも得る機会があるのである。経済的な問題があると、大学学部卒業もままならない少々野蛮な日本の教育制度と比べると雲泥の差である。

問題は、こういった「お金を使わなくても、大学に行ける、スキルを身につけることができる」といった情報を労働者階級の人たちの多くが構造的に得ていない、もしくは得られない状況にあるということにある。

単純に言うと、彼らの世界観の中では「勉強はつまらない」「大学に行っても得することはない」「勉強することはつらいだけのことである」etcという価値観が大きく普及していることにある。

ある種、勉強しないということが美徳であると考えている節すらあると思えるくらいである。

現状を簡単に述べると。

実は、少なくない彼らの親は働かない人が多かったりする。

離婚して、母子家庭であることが多い。

母子家庭には、日本で言う生活保護のお金が下りるようになっている。彼らの親はそういったお金をもらうために働かないということをする。そして、子供の扶養義務を放棄する。

こうやって捨てられた子供たちは「discarded children」と呼ばれて、けっこう社会的問題になっている。

街をうろついて、煙草や麻薬を吸い、バイクや自動車を乗り回し、いろいろなものを盗んでまわっており、そういった行為をある種美化している所がある。

「ちょっと俺たち、やばくねぇ?かっこよくねぇ?」という価値観があるのである。

なんだか、どこかで聞いたような話である。

イギリスでは、14歳から16歳の間に、General Certificate of Secondary Educationという共通テストを受け、それらの成績に従って、A-levelという大学の学部レベルの専門の授業を3教科前後受講してから大学に進学することになる。

単純に言えば、10代の半ばの頃にだいたいの進路は決してしまうのである。ここで、そこそこの成績を収めていればまだまだ浮上の余地はあるが、見るも無惨な成績だと推して知るべしである。

言うまでもなく、この頃の学業成績は、後天的な要因と直結する。

家庭や学校など、周りが勉強する環境にあればそれなりに勉強することになるし、どちらもおざなりであれば、勉強するということに価値を見いだす人たちはいなくなるであろう。

こういった後天的な経済的要因によって、ほぼ階級が固定化され、勉強することによって職業選択の選択肢が増え、浮上のきっかけがあり、また、勉強することそのものにもそれなりに意義があるということを知らないままの人たちがたくさんいるのが、イギリスが階級社会である所以であるわけである。

日本の現在の状況を見てみよう。

はっきりと言わせてもらうが、現在の政治家、および資本家たちの大勢は、日本を階級社会にしようとしている。

昨今の公立学校の教育崩壊が叫ばれて久しいが、公教育が崩壊して喜ぶのは他でもない、私立に行くだけの経済力を有する人たちである。

競争が緩和化され、本来、公立学校から浮上してくる庶民から出てくる杭が伸びてくるのを防げ、自分たちの子弟に確実に、自分たちが所有する階級と資本をバトンタッチさせられるわけであるから、公教育が崩壊するのは望むところなのである。

それがあるからこそ、「勉強するやつは格好悪い」だとか「勉強するやつは意地が悪い」だとか「勉強してもいいことはない」と庶民に教育しておくことも必要なのである。大衆は洗脳されやすいのだ。

テレビや新聞といったメディアを活用する必要もあるし、そういった「勉強しない」方向に持って行く教師を育成することも必要である。

嘘ではなく、O阪市では勉強する小学生を「しかる」教師たちがいる。「勉強ばっかりしていると人間力が養成されない」というよく分からない呪文を唱えておられるようなのだが。

であるから、テレビに出てくる「東大生」はかっこわるくて、変な人でないと困るのである。

大学の授業料が値上げされるのもいい。10代後半で自力で這い上がってくる庶民に浮上のきっかけを与えないで済むわけであるから、授業料は固定化、もしくは上昇させ、奨学金制度などは整えないようにするのが急務である。

後は、申し訳程度に留学生にお金をばらまいておいて、諸外国の顔色を伺っておけばよい。自国民の庶民にお金を与えてもろくな結果にはならないのである。

この方針は功を奏するようになり、昨今の学力崩壊は目を覆うばかりである。

全体のレベルが下がれば、浮上させるのは簡単になる。その浮上のきっかけにはお金が必要不可欠なのである。

時効なので、もう言わせてもらおう。

私は、教育業界では1,2を争う力を持っていた学校法人で働いていたわけだが、そこで文部省のお偉いさんたちのいろいろときな臭い話を聞かせていただいたことがある。

実名はさすがに伏せるが、教育改革の名の下にいろいろと教育水準を下げるべく奔走していた人たちが、自分の子弟だけは名門高校・大学に入れるように便宜を図って欲しいetcという旨を我々の業界に持ちかけてきていたわけである。

まぁ、特別驚きもしなかったわけではあるが。

というわけで、日本が階級社会になる過渡期であるということは疑いの余地はないであろう。

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2007年2月 7日 (水)

業務連絡YEMM

あ、えと、リンギストリストで回ってきたとは思うのですが、ヨークとエセックスでちっこい学会を開いています。一応、○ギリス言語学会の支援を受けている。

元々、うちのアレックスというギリシア人の去年PhDを取ったお姉ちゃんと、あっしの学部時代からの優秀な友人が始めた会合なのですが、なんだかんだで4回目を迎えるようです。

細々と、小さい会合なのですが、学生以上にけっこう大物の先生方が参加してくださるので、希有というか、貴重な体験ができたりするのです。来年はあっしがメインオーガナイザーをさせられるそうですが、発起人たちも知っているし、せっかくいい感じで続いているのだから、うまく継続させられるといいのだけれど。

ちなみにプログラム等はこちらで確認できるのだけれど、http://privatewww.essex.ac.uk/~yemm/ よく見たら、学生単独発表って俺だけじゃんねぇ。だいたい、PhD持ってない人の発表って俺だけぢゃん。ダメぢゃん(-.-;)

身内の会合なんだけれど、形式上、あっしは今回invitedなんですよね。交通費も宿舎代も出してくれるそうなんだけれど。

めったな発表はできないのだけれど、今更、内容を変える余裕もないし。

・・・

最近、胃が痛くなるようなイヴェントが多くて困る( ̄▽ ̄;凸

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2007年2月 2日 (金)

生物言語学

ちょっと昨日はdepartmentで公開トークをして、それでなんとなく気が抜けてしまったというか、疲れちゃったので、今日はちょっとちまちま言語学をやる気になれなかったということもあって、心理学の方の公開トークに遊びに行きました。

invited speakerはSt AndrewsのTecumseh Fitchというアメリカ人。(PhDはブラウン大学)

テーマは昨今、日本でもけっこう人気の生物言語学。

要するに生物学的、進化論的な見地から見た言語についての研究で、最近は生成文法との絡みで議論する人もけっこう見かけます。日本でも、アメリカでも、イギリスでも。

Tecumsehは話し上手で、聞いてて楽しかったことは楽しかったのだけれど、特に真新しいこともなく、昨今の研究状況についての報告といった感があるものであった。

内容についても、私がお世話になっている先生が某所で行った(う)トークをそのまま英語に翻訳したのではないかという内容だったのだけれど。(さすがにsubassembly methodとmergeの絡みなど、linguistic properなお話はしなかったけれど、他はだいたい同じ)

個人的な見解を述べさせてもらうと、生物学的見地から何かを議論するほど言語理論はまだまだ発達していないし(だいたい、言語を言語たらしめる性質自体はっきりとした共通見解が確立されているわけでもない)、そもそも言語学プロパーの人間はもっとみみっちいくらいの語法研究を通して言語理論を確立する必要があるのではないかとか(言語学はもっと地味な学問なのではないかと思うくらいである)、それより何より、言語学と生物学の両方に精通するだけのキャパシティーが私の能力にないということから、遠巻きに「楽しいけどね」って感じで聞きかじっているような状況である。(橋渡しの役目は、その例の先生にお任せします。時々、あの人とは基本的な脳の構造が違うのではないかというくらいの能力差を感じさせられる時があります)

とは言うものの、こういった話は嫌いではなくて、けっこうエキサイトしながら聞いています。単純な言語研究とは違って、「それでは何を研究すればよいか?」という具体的な研究テーマが定まらないので、ちょっと距離を置かざるをえないわけですが。

まぁ、ちょこっと門外漢の人でも分かるような単純な話をしますと。

ちょっと流行の話題でFOXP2という遺伝子の話があります。

アメリカでKE家族と呼ばれる家族がおり、それが3世代に渡って、およそ半数の人間に著しい言語障害が見られることが知られていました。

具体的には発話障害、そして言語理解能力の欠如。また、それだけではなく広範囲に渡る知的能力に問題が見られたわけです。

その発症率からも、この障害が遺伝的なものであろうということは推測されていたわけですが、それが第7染色体の欠損によるものなのではないかという論文が2001年のNatureに掲載され、随分と話題になりました。(A forkhead-domain gene is mutated in a severe speech and language disorder.というタイトル)

もちろん、遺伝子の欠損は突然変異によるものだと考えられ、霊長類からネズミに至るまで様々なFOXP2の性質の研究が始まり、いろいろなことが解明されました。

まず、ヒトとネズミとで、FOXP2によって発現するタンパク質のアミノ酸配列が3カ所、霊長類とで2カ所違っていることが判明しました。

ヒトと霊長類とで異なっている遺伝子配列の2カ所の突然変異のメカニズムを調べてみると、それが起こったのがおよそ20万年前から5万年前にかけてということが推測され、人間言語はこの頃に発生したのではないかという仮説が立てられるようになりました。

しかし、これはこれでややこしい話で。

倫理的な問題もあり、ヒトのFOXP2の遺伝子配列を霊長類のものにして、言語獲得におよぼす影響について調査することはできません。

では、逆に霊長類のFOXP2の遺伝子配列をヒトのものにして、それで霊長類が急激に言語を獲得できるようになるか?というのも、怪しいものです。

今度は解剖学的な見地から、FOXP2が人間のどの器官の発生につながってくるのかという問から、音声的な側面の研究が進められました。

音声言語を用いるためには、喉頭の位置を下げる必要があります。(音声学の基本的知識を説明しなきゃいけないので、詳細はパス)人間でも幼児の喉頭の位置は霊長類のそれとほぼ同じ位置にあります。ですから、幼児はミルクを飲みながらでも呼吸することが可能です。しかしながら、4,5歳になるまでには、ヒトの喉頭の位置は完全に下がってしまうことになります。(これによって様々な音が出せるようになるわけです)

いろいろな音を出すようになると、横隔膜や舌の神経をいろいろと動かさなくてはならなくなります。それで、解剖学的にはネアンデルタール人とヒトの肺の裏側の脊髄の神経束の太さがほぼ同じであるということが言われており、FOXP2はこの器官の発現に関わっているのではないかと言われています。

ただ、こういった一部の遺伝子変化のみによって言語の発現を可能にしたという議論はちょっと難しそうです。

言語の発現に当たって、最低限必要なものを考えると、内的な側面(つまり、脳の内側で起こっている現象として)において、概念構造を形成する能力、そしてそれらを表出するための単語の記憶、そしてそれらの配列(Syntax)といったものを可能にするだけの能力が発達していないといけないということになる。

今度はそれら内的なものを外的に表出することが可能な能力が発達していないといけない。

要するに言語を表出する手段が仮に突然変異で可能になったとしても、その内的な部分が発展していなければ、言語を可能にすることができなかったわけである。

言語を可能にするには、複数の要素が一気につながらないといけない。個々の性質が前もって個別に発展しておかないと、突然変異によって、外と内とをつなぐインターフェイスの能力がいきなり発現したところで意味はないのである。

FOXP2の話からすれば、音声能力が必要であるような気がしてくるかもしれないが、聾唖者の人たちは、自然言語の表出の一つの形として手話を獲得することが知られている。(人口手話とは違い、自然発生的なものである。また、双子以上の子供達が独自のコミュニケーションシステムを発達させるということもよく知られた事実である)

ということは、音声器官の発達は、言語発現にとっての必要条件ではなく、むしろ言語を使用できる能力を発達させたヒトが、たまたま言語表出の手段として便利であった音声器官を活用しただけという話になる。

言語は別に音声器官を使用する必然性はなかったわけである。

この種の言語発現の理論にとって、言語学はどのような役割を果たすことができるのか簡単に話してみると。

言語の特徴として、原理上、無限の長さの文が産出できるという側面がある。

一方で、人間には記憶容量というものがあり、脳内に貯め込める記憶には限界がある。

これらを解決するための仕組みとして、組み合わせのパターンを活用しているのが人間言語であると考えているのが、現在の統語論(Syntax)である。

例えば、10コの語彙を覚えられる生物がいたとする。

Syntaxを欠く生物は、原理上、10コの概念しか表出できないということになってしまう。

一方で、Syntaxを持っている人間はどうであろうか?

幼児が言語を獲得するプロセスにおいて、必ず経ることが知られている二語文という段階においても、その生産性は明らかになるのではないかと思われる。

例えば、「A + B」という順序で語彙を並べる規則を持っている幼児は、Aに入りうる語彙が10コ中5つ、Bに入りうる語彙が10コ中5つであると学習したとする。

単純に考えても、それだけで、「5 × 5 = 25」通りの組み合わせを実現することができるわけである。生産性の高さは明らかである。

また、語彙の結び付け方ということに関しても注目に値する事実がある。

あるブロックA, B, Cの3つがあり、それらを組み合わせることを考えてみよう。

霊長類は一応、A, B, Cを組み合わせることができるのであるが、その組み合わせの仕方は単純に「A + B + C」という足し方をしているということが知られている。

一方で、幼児はまず「A + B」という組み合わせを考え、その次にそのAとBが組み合わさったものを1つの単位と考え、「( A + B) + C」という組み合わせができるということが知られている。

組み合わせのサイクルにおいて、霊長類が「A + B」、その次に「A + B + C」と組み合わせるものが多くなるにつれ、それに従って各サイクル毎に多くの記憶容量を必要とするのに対して、ヒトの場合、まず「A + B」、次に「(A + B) + C」というサイクルを経るという事実に注目してもらいたい。

最終的に3つを組み合わせるということに違いはないが、幼児にとって、1つの組み合わせのサイクルにおいては2つのものをくっつけるという単純作業しか必要としないというのが分かっていただけるであろうか。

これを言語表現で考えると以下のようになる。

例えば、Mary loves the studentsという文を産出する際に、まずは「the + students」という要素をくっつけるということになる。

次に必要とされるのは「love + the students」という2つをくっつける操作のみであり、最後に「Mary + loves the students」という、やはり2つのものをくっつける操作のみが必要とされることになる。

1つのサイクルにおいて、必要とされるのは2つのものをくっつけるという操作のみなのである。こういった2つの単位のものをくっつける能力を専門用語でmerge(併合)と呼ぶのだが、このmergeという能力の出現が言語の発現を決定的にしたと考えているのが現在の言語理論(生成文法理論)なのである。

このmergeの出現が、脳の記憶容量の効率化に貢献している度合いは少なくないのではあるまいか。

そういうわけで、言語理論も発展して、いろいろと空想が膨らませられればけっこう楽しいものだったりするのだけれど。

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2007年1月26日 (金)

世界中の誰よりきっと

全豪オープンの様子をちょっとニュースで見たのですが、ロジャー・フェデラーがとにかく凄くてびっくり。もしかすると、彼は人類史上最高のテニスプレイヤーなのかもしれない。

だって、アンディ・ロディックのサーブが全然通用しないんだから。いやはや。彼に勝つ方法って存在するんだろうか。なんとか、こっちにいる間にウィンブルドンに行こうかなぁと思い出してきたのです。

ところで、私の前後の世代で、特に野球に関係していたりすると、タッチという漫画を見ていた人は多いのだけれど、そのクライマックスに有名なこういう台詞があります。

「上杉達也は、浅倉南を愛しています。世界中の誰よりも」

私は初めてこの台詞を読んだときに「???」と思っちゃったのです。いやはや、無粋な奴です。(それなりにはのめり込んでいたのだけれど)

この文章って、よく考えると2つの意味に解釈できますよね?

なぜかと言えば、「世界中の誰よりも」という比較節が、「上杉達也」を修飾している可能性と、「浅倉南」を修飾している可能性があるからです。

前者の解釈だと「浅倉南を好きな度合いにおいて、上杉達也は世界中の誰よりも上である」という解釈。つまり、世界中の他の誰かが仮に浅倉南を愛していたとしても、上杉達也はそういった人たちよりもずっと浅倉南を愛しているのだという言明。この解釈を(1)と呼ぶことにしましょう。

もう一つの解釈だと「世界中の他の女の子と比べても、浅倉南のことが一番好きだ」という意味になる。つまり、上杉達也にとって、世界中に他にどんなに素敵な女性がいようが、浅倉南が一番であるという意味。この解釈を(2)と呼ぶことにします。

言語学的に言えば、比較節の部分は、本来、主語と述語が揃った完全な節であって、比較部分において比較要素の演算子移動が関与しており、繰り返し部分が省略によって生成されたetcという説明がなされます。つまり、(1)に対応する節構造は [CP 世界中の誰より-i [TP t-i 浅倉南を愛している]] という形になり、(2)に対応する節構造は [CP 世界中の誰より-i [TP 上杉達也は t-i 愛している]] ということになります。こうすると、何と何とが比較されているのか、構造上の平衡関係が明らかになるわけです。どうでもいいことですが。

英語においても、than以下の比較節を移動させることはできなくはないですが、それよりも日本語の方が語順も自由なので、けっこうざっくばらんに動かせます。また、興味深いことに比較節の位置によって、解釈にも違いが出てくるような気がする。構造上の切れ目が、主語の前、主語の後(つまり、目的語の前)、目的語の後の3パターンがあるので、合計3つの可能性があります。

a. [世界中の誰よりも]上杉達也は浅倉南を愛しています。→(1)の解釈のみ

b. 上杉達也は[世界中の誰よりも]浅倉南を愛しています。→(1)と(2)の両方可

c. 上杉達也は浅倉南を[世界中の誰よりも]愛しています。→(2)のみ

ということで、出てきた解釈はなかなか興味深いものです。

(1)の解釈では「世界中の誰」と「上杉達也」を比較しているわけですから、両者が関連づけられやすい主語の前に比較節がある(a)の文だとその意味がはっきりしてきます。(2)の解釈はちょっと出しづらい。

(2)の解釈だと目的語同士の比較ですから、(c)の文の解釈は、予測の範囲内。

(b)の文は、そのまま構造上の平衡性が意味解釈につながっているように思われる。比較節は主語の後と解釈することもできるし(その場合、(1)の解釈になる)、目的語の前と解釈することもできる。(その場合、(2)の解釈になる)

となると、言文ママの

「上杉達也は、浅倉南を愛しています。世界中の誰よりも」

がちょっと、ややこしくなってくる。これは分析次第なのだけれど、比較要素を移動させた後、残りの部分を省略させているという可能性があるように思える。つまり、「~誰よりも」の後で、先行部分の文がまるまる省略されている可能性。ただ、それだとどうして(2)の解釈が出てくるのかの説明がつかなくなってくるのでややこしい。

単に全要素が省略されていると考えられなくもないけど、証拠もないし、それにそんな結論楽しくない。

というわけで、比較要素の移動はけっこう複雑な問題を孕んでいるようにも思われる。

こんなことを考えて大学までの道を歩いていたんですね。なぜだか知らないけれど。

今日は道路が凍りついていたので、早く歩けなかったのです。

でも、まぁ、せっかく気の利いた愛の言葉を囁いているのに、こんな無粋なこと考えちゃいけませんよね。今も、世界中のどこかで愛の言葉が口にされているのかもしれない。

お後がよろしいようで。

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2007年1月16日 (火)

ぎゃぼっ

イギリスでは修士を普通、1年で終わらせます。(2年も珍しくないけど)

それで、PhDに入ると、とりあえず慣例でMPhilという段階に入ります。これは、修士とPhDの中間の単位で、あたしゃ、1年目を過ぎた所なので、MPhilということになっております。

それで、1年半~2年目にかけてUpgradeという形で、PhDのwriting upという段階に入ります。ここでようやく晴れてPhD candidateということになります。

Upgradeはアメリカで言えばdefenseのことなので、まぁ、審査があるわけです。

うちのdepartmentではこの審査の段階で博士論文の3分の1を終わらせておかないといけない。(それと1時間程度の口頭試問がある)

博士論文というのは、1つの研究テーマの集大成ですから、この時点でおおよその方向性と内容面の骨格がほぼできていないといけない。(その後の3分の2はデータと検証とイントロと結論で終わり)

というわけで、実質、あたしゃこの半年でdissertationの骨格を終わらせないといけないわけです。頭が痛い。

英語が母語でもないので、文章書くのにも時間がかかるし。(ようやくLaTeXは使いこなせるようになったけど)

10月からは、teachingも入ってくるだろうし、最終年は就職活動もあるしetc

息を抜く暇がにゃい。

でも、こういう環境に身が置けて、ヨークといういい街で、よいfacultyに囲まれて、しかもお金までもらって、という身分なのは本当にありがたいと思う。恩義は全て結果で返さないといけない。

というわけで、短いエッセイですまない。

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2007年1月 9日 (火)

試験監督と音韻論・音声学

試験監督なる仕事を初体験してみました。

ヨーク大学では、授業期間が10週間なのだけれど(ワシントン大学だと同じクォーター制だったけど、12週間あった記憶がある)、実はテスト期間ってのが休暇明けに持ち越される学科がけっこう多いのである。

例えば、秋学期の内容を次の冬学期の第1週にテストしたりする学科がけっこう多いわけですね。(冬学期の内容は春学期の第1週。ただし、春学期のテストは春学期中に終わらせる。だって、夏休みって学年が変わる間になっちゃうので)

なぜこんなややこしい制度になったのかと言えば、9週間で授業が終わって翌週にすぐにテストとかいうことになると、勉強ができないので、学生の要望によって、こういう話になったのだそうである。

学業熱心な学生が多いようで何よりなことである。(でも、休暇くらい勉強のことは忘れておきたい気がする)

私が監督したテストは、1年生の始めにやるイントロの音声学・音韻論。受講生は100人ちょっとで、インストラクターはリチャードという若いお兄ちゃん。

この人は、けっこうお洒落な人で、人当たりもよく、きれいで典型的なイギリス英語を話す人なのだけれど、説明なんかも簡潔でまとまりがあって、優秀な言語学者である。(サイトで写真が確認できますhttp://www-users.york.ac.uk/~rao1/

テスト内容ってのを暇だから、まぁ、見てしまうわけですが、基本的なのだけれど、見ていてなかなか楽しくなることもあります。

音声学のテストでは、音声を音声記号(IPAなんかが有名)に書き留めたり、音の構成要素を記述させるものがあったりします。

テストを聴きながら、自分でもやってみたのだけれど、さすがに簡単な基礎事項なので、一応、完答はできたはずです。

音の発声方法なんかを調べていくと、言語の変遷だとか、言語の移り変わりなんてのも知ることができるのでなかなか楽しいのですが、日本ではあまり音声の研究は盛んではありません。

理由はいろいろあるのだろうけれど、昨今の理論言語学の発展の基礎は音声学・音韻論に依るところが大きいので、それなりに知っておく必要はあるのではないかと思う。

ちょっと簡単な話をすると、音韻論では音の構成要素、つまり音素というものを考慮することになります。

それで、ある言語の言語話者が同じ音だと認識する音は、同じ音素だということになり、違う音だと認識される音は異なる音素だということになります。

例を挙げると、日本語話者は「コレクト」という単語に含まれる「レ」という音素は、わりとざっくばらんに切り取っているわけだけれど、英語話者だと「correct」と「collect」という形で2つの異なる音(つまり、rとl)として認識するわけですね。

だからこのrとlの音の差を違う音として認識し、それを記述する手段が必要になってくるわけです。(だって、音の差が意味の差につながるわけですから)

発声方法にもいくつかあって。

例えば、日本語の「h」という音は、後続する母音がa, e, oの場合、無声・声門・摩擦音という発声方法を採用することになります。要するに声帯を振動させないで(voiceless)、声門から発音される摩擦音ということになるわけです。

ところが、後続する母音がuだと無声・両唇・摩擦音になっちゃうのです。つまり、音を発声させる場所が声門ではなく、両唇ということになる。(実際に、「ハ」という音と「フ」という音を発声してみて、口のどこを使っているか確認してみてください)

といった案配です。

こういった構成要素という発想で、統語論なんかが発展してきた経緯が言語学にはあります。

ただ、これらの音の認識はけっこう言語話者の母国語に左右される面があって、実際に機械で周波数やら音の高低やらを調べると、客観的な音の基準ってやつがまちまちになることもけっこうあるのが事実です。(母音の差異なんかになるとさらに顕著です)

というわけで、「音素だのなんだの、そんなもんねぇよ」と考えている学派もあります。(認知言語学だとか)

まぁ、とにかく久しぶりに音声について考えてみた月曜の午後だったのでした。

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2006年11月28日 (火)

留学しよう(6) 住環境など

留学するに当たって、住環境についてはいろいろと把握しておかなければならない。

単純にアメリカとは言っても、千差万別だし。

東海岸の大都市では、まぁ、生活する分には不自由しないかもしれない。

ただ、日本の温暖な気候に慣れていると東海岸の気温はけっこう厳しいかもしれない。

モントリオールなど、カナダが寒いのは今更言うまでもないのだけれど、コネチカット州、マサチューセッツ州、ニューヨーク州、ワシントンDCと、基本的に冬は寒い。(氷点下20度とか)かといって、夏が涼しいかというとニューヨーク以南はそうでもない。(蒸し暑い)

それに風もきついし。

東海岸は西海岸と比べるとアジア系が少ないのも、初めての人にとってはきついかもしれない。

ボストン、NYC、DCなんかだと交通の便は悪くないのだけれど(バスとか)それ以外の都市だと、基本的に車がないと生きていけない。

なにせ、食料だとか衣料品、医薬品などの生活必需品を調達するのに車は必須だからである。

こういうのを考えると交通の便が悪い都市に留学するのは厳しいかもしれない。

対して、西海岸は気候も穏やかだし(カリフォルニアなんて天国だし)、シアトル、サンフランシスコ、ロスエンジェルス、サンディエゴと交通の便がいい都市もあってなかなか暮らしやすいかもしれない。

アジア系の人も多いので、日本の食材なんかも手に入りやすいので、和食を食べたいという人にとってはありがたいかもしれない。

ただ、アメリカでは治安の問題を考慮しないといけないのも大変。

確かに、イギリスでも空き巣や置き引きなんかは日本と比べてだいぶ多いのだけれど、アメリカの犯罪ということになると銃が関わってくるのでかなり深刻である。(どの街でも一般市民が普通に銃を購入できます)

アメリカでは、安全はお金を出して買うものだという認識が大事。安全はただでは手に入らないのです。

デトロイトやロスエンジェルスの治安が悪いのは今更言うまでもない。この辺りは夜の外出ができないのは当然で、街中でもいろいろと危険区域があって、大学構内ですら危ないという所は(名門大学でも)けっこう多い。

注意したい。

NYCはマンハッタン島は、ジュリアーニ元市長のおかげで随分と安全で綺麗になったのだけれど、それでもブロンコスなど郊外では注意が必要だし、DCもホワイトハウスやペンタゴンなどのある地域を離れると相当やばいということはよく耳にする。

アメリカの大都市はお金があるとエンターテイメントが充実していて楽しいのだけれど、それだけ危険も伴います。

実はアメリカという国は別に嫌いではなくて(むしろ好き)、住んでもいいとは思っているのだけれど、この国は土地も建物も全てがだだっ広くて、人工的です。それで歴史が浅いということもあるので、スポーツや遊園地などを除いて、観光するということではそれほど楽しい国ではないような気がする。

一方で、生活するということになると、食料品など生活必需品には基本、税金がかからないという州が多いので、けっこう生活費は浮かせられるかもしれない。

もちろん、ロスエンジェルス、サンフランシスコ、シカゴ、NYC、ボストンなどといった大都市圏では部屋を借りるのがけっこう高い(凄く高い)ので、大都市圏だと一概に安いとも言えないかもしれない。

多少、安い物件は見つかるかもしれませんが(月に600-700ドルとか)、この国での安さは利便性ということではなく安全性ということを意味するので、妥協することは勧められません。特に若い女性の場合。

まぁ、事前にいろいろと情報を調べておくのが得策。

アメリカでは寮に入れるかもしれませんが、大学の学部生は普通、1部屋を2人ないしは3人でシェアすることになります。シェアメイトと気が合えばいいですが、問題はいろいろと起こります。

それに親元を離れて自由な身になった若者ですから、うるさいことも多いですし、家事なんかができないことも多いです。女の子でも、洗濯していない下着なんかをベッドに山積みしていたりすることが普通にある。

一緒に騒ぐからいいやというのであれば問題にはならないかもしれませんが、夜くらいは静かに寝たいだとか部屋で勉強したいというのであれば、寮はあまり現実的ではないかもしれない。

イギリスは最近のポンド高のせいで、物価が高いというのが問題かもしれません。

ただ、この国は治安がいいことが基本ですし(そりゃ、日本よりはよくないですが。でも、最近の大阪や東京なんかの大都市圏とそれほど変わるものでもないような気がしますが)、国土も狭いので、基本、自転車かバスがあれば交通は足りるので、車を購入するか否かといった問題を考えなくていいのは楽かもしれない。(そりゃ、あった方が楽なのは間違いないですが)

この国はアメリカなんかと違ってエンターテイメントなんかは貧弱です。テレビなんかもたぶんおもしろくない。(あたしゃ、ニュースかサッカーくらいしか見たことがない)基本、欧州の人たちは、友人や家族の人たちと特別何もせずまったりゆったりのんびり喋るというのがライフスタイルの基本であるようです。

だから、パブなんかで単に飲むというだけというのがエンターテイメントだったりします。

アメリカ人は人懐っこいのですぐに知り合いや友人ができますが、イギリス人はそうでもない。(でも、話しかけるとけっこう相手してくれるし、そのうち打ち解けてくれます)

それと観光は楽しいですね。普通に田園風景を眺めているだけでも楽しいですし、街なんかを歩くのも楽しい。博物館や美術館も豊富に揃っているし、歴史と伝統があるのは強み。あ、うまいレストランが少ない(ない?)のは玉に瑕ですが。

それに大陸ヨーロッパが近いので、長期休暇なんかに気軽に羽が伸ばせます。(フランスなんかだとすぐだし)

そういう意味では、1年という短期留学というスパンで考えればイギリスはお手軽かもしれません。治安、交通といった部分がクリアできる上に、留学生はただで健康保険に入れる。もちろん、寮は1人部屋だし。(確かにうるさいことは多いですが、快適性はアメリカの比ではない)

まぁ、イギリスも都市によりけりと言えばそれまでなのだけれど。(個人的にはエディンバラに住みたい。あ、ヨークも悪かないです)

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2006年11月23日 (木)

文学部という場所

博士号を取得したとは言っても、もちろん博士論文の質なんてのはピンキリで、理論的にも経験的証拠といった点でも多大な貢献をするものもあれば、「うーん、これじゃぁね」と思ってしまうものもある。

当たり前だけれど。

人間的にはいい人で、できれば首尾よく就職が決まればいいなぁとは思っても、さすがに「この論文では(ちょっと)」と思わせてしまうと、ちょっと切ないものがある。

そういう意味でも、anonymous(匿名)でreviewをするという審査の基本って大事だと思う。

批判対象はあくまで論文であって、人の人格ではないと思っているし、自分の論文もこてんぱんに完膚無きにまでたたきのめしてもらいたいものだと思っているのだけれど、自分の場合は自分の場合で、やっぱり他人を批判するのってけっこう勇気が要る。

それに相手が女性だとやっぱり気を遣ってしまうし。

論文を批判的に読むというのは、もちろん当然のことであり、批判するのは誰のどの論文であってもできる。

その程度のことができないのであれば、研究者としての第一歩が踏み出せていないのだと思われる。

問題は、どの程度まで批判に耐えうるかという部分にある。

経験的証拠も発掘し、理論的妥当性にも適っているという論文を見つけるのは難しい。

一方で、読めば読むほど粗が見つかるという論文も多い。(大半がそうである)

ただ、光る論文というのは粗がある一方で、「おっ」と思えるポイントなんかがあったりする。

端的に言えば、ちょっと変わったことを言っていても、ちょっと理論的整合性にそぐわなくても「何かいいこと」があったりするのである。

そういうものがちょっとでも見えたりすると、おそらく発表して、世の中で問うだけの価値があるのだと思われる。

問題は、「それで?」で話が終わってしまう場合である。

批判して、それで何も残らない。

その程度の研究なら、ないのと同じだし、やるだけ無駄である。

厳しいけど、それが現実というものだ。

ただ、そういった厳しさがある反面、経験科学なので、ある種のそこの仁義というかルールさえ守っていれば、自分の先生とは違うことも言えるのはありがたい。

知的自由は保障されていると言って間違いはなかろう。

当然のことを言っているようだが、けっこう「文系業界」(って言っても、理系が必ずしもそうではないとも言えないのだけれど)って師匠と違うことって言えないのである。

例えば、歴史学なんかで言えば、学派の意見が重要視される。

当然だが、学派の視点というか歴史という材料の切り方があり、それ以外での切り方はそれがたとえいかな論理的な切り方であっても許容されないものなのである。

考古学だか歴史学だか微妙なところではあるが、例えば、H大で邪馬台国九州説を唱えることは不可能である。

いかな物的証拠を集め、論理的整合性に優れたクリアな論文を書こうが、H大で邪馬台国九州説を唱えることは政治的に不可能なのである。

これは、H大に畿内説で有名なT出という教授がいることによる。仮に九州説を唱えたいのであれば、九州説が受け入れられる大学に移る手続きを終えておかないと学会から抹殺されることは間違いない。(注:こんなこと書いてますが、T出先生には恨みも辛みもないですし、別に邪馬台国が九州にあろうが、畿内にあろうがどっちでもいいです)

他にもマルクス主義経済学を行っている師匠の元で、「搾取は労働者にも原因があるのではないか?」と述べることは不可能だし、フェミニズムの研究室で「女性自身が行っている功罪」について研究することは不可能である。(注:こんなこと書いてますが、カール・マルクスの業績は高く評価されるべきだと思っていますし、初期フェミニズムが社会運動として果たした功績は評価すべきだと思っています)

また、日本の西欧哲学においては、西欧の研究者の発言を一言一句追って、それを解釈することのみに精力が注がれるので、オリジナリティのある論文は書けない。(だいたい、日本の研究者の大半がまともな論文書いてないし)

なぜなら、こういった場所での研究ではまずもって結論が定まっていて、その結論にそぐわない研究は認められないからである。

端的に言えば、旅先で暴漢にやり込められてしまう水戸黄門ご一行や、裁きに詰まる大岡越前や遠山の金さんみたいなものなのである。

そういうことはあってはならないことなのである。

それと、何でも研究できるのは原則いいとは思うのだけれど、その手法についてせめて評価基準だけは一定にしておいてもらいたいとも思われる。

例えば、H大の文学部のN本学科では、本当にいろいろできるのでたまにびっくりしちゃうのだけれど、風俗関連の広告についての研究だとか、風俗嬢・AV嬢のほくろの位置について研究しているのもある。(実はあっしが学部生の頃はG文所属の文学の先生が、セミナーでアダルトビデオについての分析を鑑賞込みで行っていたので、ちょっと物議を醸していた)

まぁ、真面目に考えると、こういった広告には大衆の好みが反映されているので、その時代時代の文化考証に役立つ資料に成る可能性はある。

ただ、そういうものを統計だけして「研究」というのもなんだか違和感がある。

まぁ、私自身が抽象的な論理を競わせるのが大学、アカデミズムの基本だろうと思っている典型的理論屋さんなので、彼らに言わせると「頭の硬い奴ら」ということになるのだろうけれど。

さらに愚痴を言うと、あたしゃ、文学部の雰囲気って好きじゃない。

何が好きじゃないかと言えば、大学院生と学部生が入り交じっている授業なんかで、大学院生が(実は最近覚えたような)自分の知識なんかをひけらかして、学部生なんかにも「当然知ってるよね?」だとか、「この程度は知っていて当たり前」だとかいった態度を取って傲慢にしているのが妙に気にくわなかった。(英語学関連ではこういう人たちがいなかったので、非常に好感を持っていた)

大学院生はセミプロなんだし、学部生は所詮、学部生なんだし、それより何より知識なんてのは教えればすむことなんだから、知らないのであれば教えてやればすむ話じゃねぇかと思っていたわけである。(ただ、基本知識は知っておかないといけない。例えば、イギリス文学をやっているのにシェイクスピアを全く知らないとか、古典やってるのに源氏物語だとか万葉集だとか全然知らないだとか)

おいらは学部生の発想の方を大事にしてやりたいと思っていたのだけれど。

この手の態度を見かける度に、私はなぜかノルウェイの森の小林緑ちゃんの言っている「(マルクスを読んだり、理解していると嘯いて、新入生の女の子たちに偉そうに振る舞っているフォークソング同好会の先輩を揶揄して)そのとき思ったわ、私、こいつらみんなインチキだって。適当に偉そうな言葉ふりまわしていい気分になって、新入生の女の子を感心させて、スカートの中に手をつっこむことしか考えていないのよ、あの人たち」という発言が頭の中をよぎっていた。そして、実際その手の発言をリアルでしている女性(1コ上だった)を見て、妙に感心していたのである。

なんて偉そうなことを言っていますが、私は、学部生にはともかく院生の後輩さんたちにはえらく怖がられていたそうです・・・( ̄▽ ̄;凸

Dscf0055_2 もうすぐ年末ですよね。忙しい時期だとは思いますが、そんな時にはお茶と菓子なんていかがでしょう。これはエディンバラで買ってきた、レモンとフルーツのショートブレッドです。おいしいですよ。洋菓子が充実しているのはヨーロッパの特徴。当たり前に聞こえるかもしれませんが、でも、アメリカのお菓子はイマイチという印象(甘いだけ)しかないもので。

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2006年11月 8日 (水)

留学しよう(5) 「遠距離恋愛など、リスクについて」

留学情報誌でもあまり相手にされない情報かもしれませんが、遠距離恋愛ができるかどうかというのも多少の(かなり?)問題であるかもしれません。

そりゃ、留学時点で誰ともつきあっていないのが何も考えなくていいので一番理想的なのでしょうが。

交換留学だと短い人で半年、普通はだいたい10ヶ月ちょいが目処になります。

これくらいだとまぁ、先が見えるのでなんとかなりそうな気はします。

遠距離に関して言えば、続く人たちは続くし、続かない人は続きません。それは、まぁ、そんなものです。

ただし、今まで近くにいてしょっちゅう会っていたという関係をちょっと客観視できるという意味では、遠距離というのも悪くはないのではないかというが個人的な意見でもあります。

近場にいれば、だいたいの人とつきあえるというのが人情みたいなところもあるわけですし。

短期留学でも、続かないで別れてしまうという話はかなり聞きます。でも、こういうのって後から考えれば「そういうものだったんだ」と開き直れるので、別に悪くはないのではないかとも思います。

例えればリトマス試験紙みたいなものでしょうか。遠距離ができれば、この先もずっとパートナーでいられるだろうという目安にはなるんでしょうし。

ただ、PhDになるとかなり話は複雑になります。

期間は3年から5年といったところでしょうから、まぁ、「ちょっと頑張るか」ではなんとかならない期間でもあります。

実はお酒の席で、某Mサチューセッツ工科大学のPhDを取った先生2人と某Cリフォルニァ大学Iーバイン校でPhDを取った先生1人とその手の話で随分と盛り上がりました。(居酒屋、そしてそれから二次会のバーでもずっと話題が続いておりました)

前者のうち、1人が1年持たずに途切れてしまい、もう1人は、まぁ、いろいろとあり、UCIの人は留学前に結婚しちゃって、1年遅れで相方さんもIーバインに来られたのだそうで。

共通見解としては「ある程度、覚悟はしておいた方がいい」というものでありました。

・・・α~ (ー.ー") ンーー

昨今はメールやらスカイプやらが発展しているので、連絡を取ること自体はそれほど難しいことでもないです。

テレビ電話なんかもできるし。

経済状況次第なのでなんとも言えないですが、年に2回くらいなら会うことも可能でしょう。

それでなんとかなるなら、きっと生涯のパートナーでいられるという可能性は高いのではないかと個人的には思います。それに、そういった時期でも見放さずにいてくれたという人に対する感謝は一生なくならないものだろうし。

ただ、障害もいくつかあって。

一番多い(個人的に目の当たりにしてきたものだけで、正式な統計ではないのですが)のではないかと思われるのが、女性の側が寂しさに耐えきれないとかいうケース。

これはままあるのではなかろうかと。

特に女性がもてる人であった場合、厳しいかもしれません。ちょっと落ち込んだ時に、彼氏は側にいてくれないのに、ちょっと側の誰かが優しい言葉をかけてくれたりなんかするとそっちに靡いてしまう、なんていうことは十分ありえる話です。

次は、ちょっと自粛 ( ̄ー ̄;∂ポリポリ 男性に非がある場合・・・

思い切って留学を諦めるという選択肢もあるかもしれません。

しかしですね。

仮に恋愛の方を選択したとして、たぶん今後つきあっていくうちに相手のことが嫌になる瞬間だとか、別れることになるということも多々あると思うわけですよ。

そういった時に、「あの時、・・・」だなんて話を蒸し返して相手を責めるのはちょっと筋違いだと思うわけです。

だって、いくら相手に懇願されたのであろうが、最終決断を下したのが自分である以上、自分の決断には責任を持つのが大人というものだろうってもんです。

個人的意見ですが、留学は若い間(20代)にするもんだと思います。

もちろん、年配で頑張っていらっしゃる方も多々いますし、彼らはいい刺激になります。頑張ってほしいなぁと陰ながら応援していたりします。

でも、若い間の特権ってのがあって。

若い間にやったことって身に付きやすいし、成長が早いんですよ。

こりゃ、もう確実。

前回、シアトルに留学したのが20歳ちょいだったものだから、語学という面でも(特に喋りと聴き)、学業という面でもたかだか1年未満で随分と成長したなぁと自分でも感心したものです。

今は2年ぐらい前と比べると、確実に記憶力や吸収力が落ちているのが分かります。

ただ、知識量と理解力が多少上がっているので、PhD studyにおいてはちょうどバランスが取れている時期だと個人的には思います。

と考えると、やはり20半ば前後からPhDを目指すのは年齢的に一番バランスが取れている時期で、一番効率の良い時期だと思うんですよね。

若さは資本です。無駄にしちゃいけません。

私は今、急速に記憶力の衰えを感じつつあるので、けっこう焦りがありますが、まぁ、ぎりぎりセーフの時期にこの事実に気づいたのを幸いだと考えるようにしています。

こう考えると、「やっぱ留学しよ」って思い立ったときに、年齢がいっているとちょっとリスクなのではないのかなぁと思うわけです。(ただ、社会人を経て、妻子持ちでも立派にこなすような人もいらっしゃいます。感服します。そういう人に出会えるのも楽しい)

ということで、長期的な視野も入れて、多少冷静に物事を考えた方がいいのではないかと思います。留学というものは、確かに得るものも多いですが、失うものも少なくはありません。

ただ、オールオアナッシングではないので、比較して、結果得るものの方が多いと考えるのであれば、留学するのも選択肢の一つなのではないかと思います。背負うリスクは思ったよりも大きいですし、精神的にも肉体的にも苛烈ということは確かですが。

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2006年11月 7日 (火)

留学しよう(4) 「休みの過ごし方やオフについて」

あなたの胸に狂いながらー、壊れてしまいたくなるー♪どこまで好きになればいいのー?涙は終わりじゃないの~♪

って、なんだか昨日は昔を思い出すような話を書いたからでしょうか、夢からずっと「恋一夜」が頭の中で流れてます。あと、「黄砂に吹かれて」だとか、「唇から媚薬」だとかetc

って若い人たちにはなんのことだか分からないでしょうが。(キムタクさんの奥方様の若かりし頃のヒット曲でございます)

あ、えとですね。

留学期間が1年だとか限られた期間だと「この短い期間を利用していろんな所に行ってやれ!」とかいう欲望がひしひしと沸いてきたりします。

それに、交換留学生の課題って別に大学院生みたいに激しいものでもないし。

私には人前で喋るということと、何かを説明するって才能が多少あったようで、大学生時代の塾講師のアルバイトでけっこうなお金を貯めることとができました。

この手の稼業は、まぁ、皆様薄々とは感じられているわけですが、人気がないと簡単にクビを切られます。

もう、容赦ないです。

でも、定着できると、けっこうな時給がもらえたりするし、仕事内容自体はけっこうやりがいもあるので、楽しく高給がもらえるというおいしい商売でもあります。

この手の仕事は大学の1年生からやっていましたが、留学するということがほぼ決定して、それと肩を壊したということで、体育会系の野球部から身を引くようになった3年生から本格的に身を入れ始めました。(端的に言うと挫折したようなものです。甲子園組の人たちとの実力差は自分が思っていたよりも大きかったわけです。試合のあった日は負けた悔しさだけが募ってろくに眠れないし、自分の実力のなさが実感されて、体がおかしくなりそうでした)

その甲斐あって、1年だけで100万円ちょい貯めれたわけですが、私はこの貯金を全て使い果たしてまいりました。

まずはですね。

アメリカの大学にも冬休みというものがあります。

クリスマスシーズンで、アメリカにいるわけですよね?

ベッタベタということは十分承知しておりましたが、クリスマスバケーションはNYC観光に行って参りました!

にゃは。

ロックフェラーのツリーだとか、ミュージカルだとか、ウォールストリートだとかWTCだとか、まぁ、典型的な観光地を回ってきたわけですが、やっぱりそれなりに楽しかったです。(お金があればもっと楽しかったのだろうけれど)

街も綺麗だったし。

というわけで、クリスマスはマンハッタンで過ごすという豪華な体験をしてみたわけです。

問題点を挙げると、やはり寒かったということでしょうか?冬のニューヨークは冷えますし、ビル風がけっこうすごいですし、シアトルの方がよっぽど暖かかったです。

それで、春休みにはメキシコ観光に行ってきちゃいました。

カリブ海で泳いで、ひたすらぼける。

カリブ海はエメラルドグリーンの綺麗な海で、人生で一度くらいはかような綺麗な海を見るべきであろうということを実感させてくれたし、快適な気候で随分とリラックスし過ぎたんじゃないかというぐらいリラックスできたし、クルージングで珊瑚礁を見たり、熱帯魚を見たり、それにパラセーリングで空を飛んだりetc

と、かなり楽しいバカンスを楽しんで参りました。仮に私が結婚できたとして、それでそれなりにお金があったとすれば、ぜひとももう一度カリブ海に泳ぎに行きたいですね。(相方さんも若い間の日焼けならシミやそばかすから回復できるだろうし)

もしくは欧州の大陸の方でもいいのだけれど。

それとシアトルはカナダから近い(国境だし)ということもあって、バンクーバーにも2回、ビクトリアにも1回行ったわけだけれど、これもなかなか楽しい旅でありました。

それに3大スポーツもちゃんと観たし、シアトルマリナーズに至っては15回観戦しているし、うち2回は取材で行っている(Japan Pacific Publicationsというとっても小さな出版社でちょこっとインターンしたのだ)ので、球場の中は随分と詳しいし、選手や監督さんとも喋っているし。(デレック・ジーターと1対1で喋りました)

冬場はスノーボードにも行っているし(何回だろう?たくさん)、まぁ、遊ぶ方も目一杯遊んできたわけです。

こんなことしてたら、100万円なんてあっという間になくなってしまうわけですね。まぁ、一気に使ってしまうというのもある意味気持ちいいわけですが。

逆に、何年もいるとかいうことになると、けっこうどこにも行かないものです。(だいたい、お金もないし)

イギリスに来てから、ヨーク以外にはロンドン、ニューカッスル、マンチェスターぐらいにしか行ってないし、大陸ヨーロッパには足も踏み入れてないしetc

でも、1年で旅行三昧するならたぶん、イギリスの方が楽しいでしょうね。

イギリス自体もたくさん観る所があるし、大陸ヨーロッパは言わずもがな。確かに、修士で1年だけだとか、交換留学とかいう人たちの方があちこち観光しているようにも思います。

というわけで、いろいろな場所に行けるのも留学の醍醐味の一つであると思います。

あ、ちなみに、再来週には、スコットランドはエジンバラまで行ってくる予定です。言語学ではかなり有名人のルイージさんに会ってくるんですね。でも、スコットランドとか言っても電車で2時間ちょいだし、片道運賃2000円で行けるんだから、そんなにたいした遠出でもないのだけれど。

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2006年11月 4日 (土)

留学しよう(3) 「食生活について」

あ、えと、3日前はハロウィーンだったのだけれど、うちにも変装した可愛らしい小さな女の子3人組が「Trick or treat?(いたずらか、何かくれるかどっちがいい?→何かくれないといたずらしちゃうぞ)」って来ちゃったものだから、たまたま週末に買っていたチョコレートの詰め合わせ(珈琲と一緒にちょっとずつ食べている)の1段を丸々あげてしまいました。

彼女たちのかわいさには、人種・民族の違いを越えて、あらゆる男が抗うことができないということを教え知らしめるために仕方なくやったことなのである。理解して欲しい。私もつらかったのだ。

というわけで、イギリスの女の子たちにこれから世間の荒波で生き抜く際に必要な武器の使用法について、間接的な講義を施したわけである。

それはさておき。

留学関連の話の続きですが、気が変わったので食生活について話をしてみようかと思う。

アメリカでの食生活についてですが、基本的にジャンクフードが多い。

しかも、量が多い。

マクドナルドは世界共通の味というのは嘘で、アメリカのマクドは量が多い割にとってもまずい。(1回だけ入った)

それに大きい紙コップを渡されて、「好きなものを好きなだけどうぞ」とか言われるのだけれど、そんなものいらない。

私は紙コップに4分の1くらいの量のミネラルウォーターを入れただけである。(コーラは飲めない人なのだ)

しかし、外食自体はそれほど悪いものでもなくて、UWのキャンパス近辺でも、タイ料理やベトナム料理(Aveの外れにあって、手作りシュークリームがなぜかおいしい店がある)といった民族料理のおいしいのがけっこう手軽に食べられる所があったり、ダウンタウンの中華街に行けば、けっこうおいしい中華料理も食べられる。(週末には朝・昼兼用で飲茶しに行くこともありました)

和食も一度、友人の親戚が経営している店に行ったのだけれど、けっこうおいしかったです。おまけでアイスクリームの天ぷらなんてのも食べたけれど。(1口だけで十分でしたが、まぁ、そこそこおいしいと言えばおいしい)

ダウンタウンの話をすると、冬場にはオイスターバーとかいって、生牡蠣を食べられる所がけっこうあるのだけれど、これもおいしいです。

牡蛎にあたるとけっこう怖い(父親が経験者でたまに聞かされた)ということで、度胸はいったのですが、「牡蛎にあたって死ぬなら本望」とのたまわれる某お嬢さまと一緒に食べに行った店なんかはけっこうおいしかったです。

白ワインと牡蛎というのもそこそこ合う。(赤もそんなに悪いと思わないのだけれど)

というわけで、アメリカ起源のものに関しては、ピザ(所謂イタリアのトマトを切って、モッツァレラチーズを載せたって感じのやつじゃなくて、日本なんかでも馴染みのタイプ)とホットドッグしかおいしいものはないのだけれど、エスニック料理に関しては、シアトルではけっこうおいしいものがそれなりの値段で食べられます。(東京なんかよりよっぽど安い)

なんてことを書くと、「え、アメリカって料理がおいしいの?」と誤解されそうなので、もっと日常生活に即した面を書きましょう。

アメリカの大学に所属している寮は、大学院生用のものを除いて、まず「朝と晩の料理」がセットになっています。

これが曲者。

学部生の寮は、1部屋(大きいけど)を2人か3人でシェアするようになっています。

つまり、あんまり落ち着けない。

しかも、20人、30人の規模でキッチンをシェアすることになっていますし、キッチンも小さい。(実質、スナックというか軽食しか作れない)

珈琲や紅茶を作るには十分だし、電子レンジも使える(なぜか、マカロニチーズとかいうまっずい食べ物が人気です)のだけれど、自炊するには現実的ではないです。

というわけで、普通は寮備え付けの食堂で御飯を食べる。

正直に言って、朝ご飯に関してはそれほど不便ではないかもしれません。

おいしくないですが、食べれなくはない程度のパンと、野菜、果物、チーズ、チョコレートに珈琲、紅茶なんかは一通りある。

問題は晩御飯。

何度か(本当に数回)友人の寮に遊びに行ったついでに食べたことがあるのだけれど、アメリカの御飯って半端なくまずいです。

パスタの類はこれでもかっていうぐらいのびきっているし(茹ですぎ)、ファットタイとかいうタイ焼きそばや焼きビーフンがあるのだけれど、中が固い。(パリパリというか、バリバリ)

味付けも問題外だし、油がギトギト。

ベジタリアン用なんてのもありますが、とてもじゃないですが、このベジタリアンフードでダイエットなんてできません。

油ギトギト、チーズべたべた、もう人間の食べ物じゃなくて、肥え太らせるための豚の飼料なんじゃないかという類の物ばっかり。

まずくて、高カロリー、それでいて不健康(野菜不足)。

そういった類の料理しかありません。(私は生野菜を取って、塩・胡椒をかけ、チーズとパンだけをそのまま食べるようにしていたのれす)

いくら1年とはいえ、こんな食生活をしていたのでは確実に太ります

男性でも問題かとは思いますが、女性はさらに気にされるんではないでしょうか?(実際、目に見えて太る女の子が多いです。いや、今更ながら公言しちゃいますが)

というわけで、アメリカ留学を考えていらっしゃる方には、私はoff-campus(つまり大学関連じゃない住まい)をお薦めします。(大学院生はちゃんと自炊できる寮を宛がってくれるので心配しなくていいです)

もちろん、治安の問題はあります。

また総括しますが、シアトルでは治安の問題は気にしなくていいです。(大阪や東京の方が遙かに治安は悪いです)

家賃も家のシェアなら高くないし。(日本のようなワンルームマンションみたいなstudio flatなんかは高いですが)

しかし、自炊だからといって、油断は禁物です。

アメリカはどこの州でも間接税が基本ですが、食料品などの生活必需品の税金は安い(もしくは免除)ので、けっこう食材が安いのです。

それでいて、量も多い。

一人暮らしだと、ついつい余分に作っちゃって、それで食べ過ぎな傾向になってしまうのは禁物です。(誰かと同棲というか、シェアできるといいのですが)

それとお菓子の類も量が多くて安いので、特に女性は注意された方がいいかもしれません。(ハーゲンダッツのアイスなんかが大量に安く出回ることもある。要注意)

シアトル、サンフランシスコ、ロス・エンジェルスといった西海岸主要都市は言うまでもなく、シカゴ、ニューヨーク、ボストン、ワシントンDC(ワシントン州ではない。要注意!)など東部や中部でも、探せば日本の食材や調味料は手に入ります。(しかも、高くない)

私は、朝食に御飯と味噌汁(マルコメ味噌料亭の味を使っていた)、晩御飯も純和風が多かったですが、それでも太ってしまいました。

アメリカ留学直後は人生で最大限に太っておりました。(今はBMI指数で18.9ですが)

とにかくアメリカの自炊は、安くて量の多い食材に誤魔化されないようにすることです。

「満足したらタッパーへ!」これは原則にゃり。(自炊したりすることを考えたりする時だけは、誰かと一緒に住みたいと思うことが確かにあります。「おいしい」とか言われて食べてもらったら、もっといろんなものを作ってみようと思うし)

ただ、地方都市では日本の食材だとか調味料が手に入りにくいので、これはいいのか、悪いのかといったところですね。(安くて量の多い高カロリー食品が増えるかもしれません)

イギリスは学部生でも、寮(てかcollege)に入れば、一人部屋なのはいいかもしれません。

学部生用のcollegeでも一応、キッチンもあるし。(狭くて使い勝手が悪い所もあるけど)

というわけで、イギリスでは自炊が中心になるかと思います。

イギリスの外食ですが、パブではけっこう朝や昼にはまともなものがそれなりに食べられます。(English breakfastはまともと言われてるし)

ただ、晩御飯など外食はけっこう値段が嵩むので、しょっちゅうはできないかと思います。(裕福な家の人は知らないですが)

自炊ですが、食費自体はたぶん日本とどっこいどっこいかと思います。(高いのもあれば、安いのもある)

野菜やシーフードの種類が少ないのが玉に瑕ですが、イギリスの方が日本よりおいしいものもあります。

欧州の大陸の方から輸入しているのですが、ブロッコリーだとかトマト、人参といったものはこっちの方がずっとおいしいです。(野菜の味がするというか、甘くておいしい)

欧州の食材のオリーブオイルなんかもいいのが簡単に手に入ります。

日本の調味料は、ロンドンはともかく地方都市だと「らいすわいん」といったネットショップなんかを使って購入することが可能です。

でも、食材自体が和食に向かないので、和食を作るには不向きかもしれません。

私個人としては、確かに和食もよく作りますが(smoked mackerelなんかは塩鯖に似ているし、鮭を焼いたり、鶏そぼろなんかを御飯と食べます)、イタリアンやスパニッシュ、フレンチといった調理法の方がおいしいです。(それはそれでおいしい)

パンですが、そこいらのスーパーで買うのはコルクのようでまずいですが、おいしい店で買えばおいしいものが買えます。(大学側のサンドイッチ屋さんだとか)

ただ、イギリスに留学する日本人にはちょっとしたジンクスがあるようです。

それは、男の留学生は体型そのまま、もしくは痩せるけど、女は太るというものです。

けっこう多いみたいです。

原因は単純で。

イギリスや欧州は洋菓子がけっこうおいしいです。(本当に。アメリカなんかと比べると顕著)

イギリスにはchocoholic(チョコ中毒)とかいう言葉があるくらい、たくさんのチョコレートがあって、老若男女みんなチョコレートやアイスクリームを食べています。

確かに、チョコレートの種類は豊富で(おいしいものも多い)、それにMarks and Spencerなんて所では、マフィン、ケーキ、クッキー、ムース、プリンなど独自のおいしいお菓子が豊富に手頃な値段で揃えてあります。

私はそれほどお菓子を食べるタイプではないですが、確かに疲れた時なんかにはお菓子(特にチョコレート)は重宝します。

おいしいですし。

私はストレスが溜まると胃がきりきりして、多少、吐き気がして落ち着きがなくなる(運動すると大丈夫なのですが)タイプなのですが、どうも多くの女性は心労が溜まると食欲が増えてしまうそうですね。

理由はよく分からないですが、それでついついお菓子など甘い物を食べ過ぎてしまうのだそうで。(「我慢すれば?」という問題でもないのだそうで)

異国での生活、しかも課題は多くて、プレッシャーもあるし、時々不安や孤独に襲われたりもするし、一人で寂しいということもある。

ということで、お菓子類を食べ過ぎる女性はかなりいらっしゃるようです。

これは注意事項かもしれません。(留学情報誌なんかには載っていないような情報でしょうが、けっこう大事なのではないでしょうか)

端的に言うと、留学生活では自己節制が重要だということでしょうか。

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2006年11月 2日 (木)

留学しよう(2) 「授業風景について」

9月の初めにシアトルに向かうことになりましたが、実は海外体験も初めてで親元を離れるのも初めて。

初めてづくしだったのですが、特に高揚感があったわけでもなく、不安も何もなかったです。

なんか、現実って実際、自分の身の上に起こったら「こんなもんか」って感じ。

アメリカの大学では、初めて訪問する人にはホームステイ先を宛がってくれます。

だいたい、数日間はステイ先に泊まることになるようです。

よく、いろいろな業者を介して「ホームステイをしよう!」みたいなのがありますが、基本的にああいうのはトラブルも多いです。よく考えれば分かることですが、わざわざ他人、しかも言葉が不自由でバックグラウンドが異なる人を迎えるのを好意でやっている人なんてそんなにいるわけもない。

ただ、大学関連のやつだとちゃんとした所を宛がってくれるので、その辺は心配していませんでした。

訪問先はこれまでに数百人規模で日本に縁のある学生の世話をしてきたという、日系人夫婦の家。

名前も見た目もどう見ても日本人って感じの老夫婦なのですが、日本語は話せません。(挨拶とかは知っている)

元気でとてもいい人たちで、祖父母が遠い田舎にいて、あまり祖父母と縁のない環境で育った私にとっては田舎の祖父母のようなものです。今でも、年に2,3回はカードや手紙を贈ったりしています。

この二人には随分と世話になって、off-campusの家の探し方や、銀行のシステム、それと生活雑貨品の買い物なんかにも付き合ってもらいました。(どうにかして、もう一度くらいは元気な顔を拝見したいものです)

さらにありがたいことに、別の部屋にブルガリア人のインテリジェントなお兄ちゃんがステイしていて、何回か遊びに連れて行ってもらいました。

彼は横浜国立大学のコンピュータサイエンスで博士号を取得したので、日本語も堪能。

それだけではなく、ブルガリア語、ロシア語、英語、フランス語ができます。とんでもないです。2人でのコミュニケーションは基本、日本語でしたが、もちろん夫妻がいらっしゃる時には英語で喋っていました。

彼のアドバイスによれば、外国語を学ぶときに一番役に立ったのが「テレビ」だったということで、セール中だったテレビも一緒に買いに行くことにしました。

実は、シアトルに到着したその日に大学まで行ったのですが(シアトルには午前中に着いていたので)、そこで、まぁ、いろいろな書類を手に入れたり、あちこちに事務関係で歩き回ったりしたわけです。

海外からの留学生は麻疹か何かの予防接種を受けねばならなかったので、注射もしましたが、正直、けっこう痛かったのを覚えています。(日本のより気のせいか針が太い)

注射って、別に受けている時はなんてことないのですが、妙に緊張するというか怖いという感情が出てくるんですね。幼稚園の時なんかに、友人が泣き叫んでいたり、ドラえもんなんかでのびたくんが注射を怖がる話なんかがあって、それが微妙にトラウマになっているのかもしれません。

故藤子藤雄FさんをPTSDで訴えるべきか・・・

International Officeという所に行って、internationalの学生の手続きをして、そこで神戸から来ていた日本人の女性(年上だった)とドイツ人3人組と出会う。

そのままドイツ人3人と一緒に部屋探しをして、ビールを飲みに行く。(私のような童顔はID携帯必死です)

陽気なドイツ人3人はけっこういい奴らで、翌日なんかもいろいろと銀行やら何やらと一緒に活動していたのを覚えています。それと、ドイツ人って英語がうまい。(これは本当)

部屋関連のclassified adsを見ていると「明るいゲイ募集」なんてのがあったりします。思わずgayとguyと辞書を引っ張り出して調べましたが、どう見ても綴りはgayにしか見えません。どうも、こういった人たちは同じ家をシェアして、その、パーティーなんかをやるのはいいのですが、まぁ、シェアメイトと交わったりすることも珍しくないことなのだそうで。

学期が始まる前に、ステイ先のお爺さんが一緒にSAFECO FIELDに連れて行ってくれたのですが、ここでもうはしゃいだというか、感激したというか。

アメリカのスタジアムはとにかく、大きくて綺麗。日本のものとは随分と違います。

その日は特別日で、先着2万名にジョン・オルルード選手のポスターがもらえる日だったので、喜んでそれを鞄に入れる。

スタジアムのグッズ売り場も綺麗だったし、球場の芝なんかが綺麗で、もう頭がおかしくなりそうでした。

マリナーズですが、印象に残ったのが、とにかく「守備のうまい選手が多いこと」。

ショート、アレックス・ロドリゲス、ファースト、ジョン・オルルード、センター、マイク・キャメロンの3人はとにかく「びっくりした」という感想がぴったりで、今も彼らの動きは目に焼き付いています。

残念ながら、マリナーズは先発投手がローテーションの谷間(ポール・アボットが先発)で、中継ぎのパニアグアがばっかばか打たれてしまって、中盤で試合は決した形になったので、7回のSeventh inning's stretch(観客がみんなで立って、Take me out to the ballparkという歌を歌って、それから踊ってはしゃぐというイベントがどの球場でもあります)が終わった次の攻撃で帰ることになっちゃいました。

こんな感じで、授業が始まるまでいろいろとやることがあって、「ホームシック」だとか「カルチャーショック」を受ける機会はありませんでした。(こういうのはどうも特殊らしく、2,3日目でけっこう気持ちが落ち込んだり、部屋で泣いたりすることがある方が大多数のようです。「毎日泣いていた」という人を見つけるのも難しくないですし、ノイローゼで帰っちゃう人もいます)

部屋もけっこう簡単に見つかって、65番という大学の敷地に乗り入れている便の多いバスに乗れば10分でキャンパスにつけるとかいう場所。(NEの65th Street, 35th Avenueです)家の前はコンビニだし(11時で閉まるけど)、シェアメイトの男前の兄ちゃんがけっこういい人そうだったので、即決する。(彼はスティーブといって、随分と馬が合いました。今でも連絡を取り合っているのですが)

そこで、契約書だとかいろいろなものを読んで、サインしてみたわけですね。

授業が始まる前に、FIUTSとかいうinternationalの学生用の団体がキャンプだとかいろいろとイベントを用意してくれているので、それでキャンプなんかにも参加しました。

そこでいろいろと日本人の学生なんかとも知り合いになったのだけれど、とにかく交換留学生が多い(青山学院、慶応とか)んですよね。

基本的に関東の人が多いので、私の喋りはとかく珍しいようで。

キャンプ自体はけっこう楽しくて、国別対抗のパフォーマンスなんかもあったのですが、なぜか笑いを取る役に私が全会一致で指名されることになる。基本的に関東の男の子たちは、自分を落とすということができないようです。関西ではどんな男前でも、自分を落としてなんぼとかいう文化があるのだけれど。

FIUTSはキャンプだけじゃなくて、授業の受講についてだとか、ビザ、医療、法律関連の説明だとかけっこう細々と世話を焼いてくれるけっこう頼りになる団体です。

でも、説明会なんかはめんどくさいので、適当にブッチして、知り合いになった日本人、台湾人、韓国人、タイ人、ドイツ人、フランス人なんかと昼過ぎからは遊び回っていました。(夜遅くまで)おかげで、大学近辺のお店やダウンタウンには随分と詳しくなりましたが。

国別対抗のサッカー大会なんかもあって、けっこう楽しめました。まだ若かったし、前年までバリバリ野球をやっていたので、当時はけっこう戦力になりました。(今は、簡単にバテます。まだ塁間ならそこそこ速く走れるのですが)

ほぼ毎日、遊び歩いていたというとっても優雅な時間を過ごしていましたが、そのうち授業登録を考えないといけない時期になります。

アメリカの大学の授業はけっこうシステマチックで、インターネットで受講教室・内容・講師・受講人数・登録人数の全てが分かります。それで、授業に登録番号というものがあって、それを電話を使って授業登録をする。(ここで、電話のpound signを活用するということを覚えました)

アメリカの大学は、学部は基本的に教養学部という形になっています。

つまり、特別な専攻というものは3年目ぐらいに決めて、それまでは取りたい科目を適当に取る。

専攻の他に副専攻(minorと呼びます)なんかも決められます。

授業もシステマチックに組み立てられていて、大体、100番から200番台の授業番号がついたものはイントロダクション用。特別な知識は必要とされません。

こういった授業は、週に数回、instructorの大学の先生が講義形式で大人数(百人規模)相手に喋って、それを週に数回、TAと呼ばれる大学院生が3,40人規模のクラスで埋め合わせて授業をするという形態を取っています。

私は、Introduction to Linguistic Theoryというものを1つ受講していました。instrucutorの講師がマイケル・ブレイムという60年代から70年代前半にかけて活躍した言語学者。(端的に言うと、今はあんまり相手にされてない)彼は随分と話し上手で、講義を聴くのが楽しかったのだけれど、ただ、あんまり役に立たないというか、余談が随分と多くて、あんまり本質的な内容に触れることがなかったかもしれません。(ただ、類型論の知識が豊富で、引き出しが多いので、講義は本当におもしろかった)

TAは、ホームページによれば、今も在学中のケニン・リーという中国人のお姉ちゃん。

TAをやるのは初めてだそうで、随分と気弱で自信なさそうに喋るのですが、彼女の授業はとにかく分かりやすくて、テストの点を取るために必要なポイントを非常にうまくまとめてくれています。(余談ですが、音声が専門で、随分と優秀な学生なようです)

いつも、「分かる?」って感じで自信なさげに喋るのだけれど、受講者の評判は上々でした。

こういうのって、教壇に立った経験もあるから分かるのですが、受講生に「分かりやすいですよ」と一言言ってもらえるのが、本当に自信につながるんですよね。ありがたい一言なのです。

彼女は中国人なので、FIUTSの一員です。FIUTSは毎週水曜日にサンドイッチ(ものすごくちゃちいですが)を用意して、部屋を開放してくれるので、そこがけっこう交流の場になって楽しいのですが、彼女をそこで見かけることがあります。

私は彼女を捕まえて、「分かりやすいよ」だとか「受講生もみんな分かるって言ってるよ(マイケルはわけ分かんないけど)」とか、いろいろと話すように努めました。

学期の終盤には随分と様になっていたのを覚えています。テストが終わってからは、オフィスに呼んでもらって、いろいろと話もしました。(今後、どこかの学会で出会えるとおもしろいのですが)

他に受講していたのが、400番台の形式意味論と統語論という授業。

クラスは30人を目処に締め切るもので、学部の最終年に近い人たちが受講するコースです。統語論のinstructorはコントレラスという引退したお爺ちゃん。

彼の授業は「眠い、つらい、分からない」の3拍子揃っていて、受講生には不評でした。

ただ、私は統語論というか生成文法の考え方が性に合っていたようで、テキストを流し読みしただけで全部分かるようになっていたので、途中で受講をさぼり気味にして、テストだけ受けるような形にしていました。(成績は良かった)

意味論は、PhDを取ったばかりのマイケル・ダグラス・ウルフという陽気なお兄ちゃん(禿げてたけど)で、授業もおもしろくて、毎回盛り上がっていました。(テスト前にはクイズ形式の大会なんかをやって、罰ゲームはドリア(臭い果物)を食べないといけない、とか)

意味論と統語論の授業で、エリック、キャラ、ジェニファーという3人組と随分と仲良くなって、授業のある日(午前中だった)は、そのままお昼を一緒に食べて、図書館のstudy roomを借りて、勉強(てか、遊び)することも多かったです。

統語論は私の理解が速かったので、彼らに教えることが多かったですが、意味論はみんなで「分からん」って感じになっていました。

そのうち、私はマイケルのオフィスアワーに毎週突撃するようにして、いろいろと教わりました。おもしろくて、優秀で、いい人だったのですが、マイクロソフト系の会社に引っ張られちゃいました。

意味論も私の理解の方が速かったようで(この頃から、英語ができないということがコンプレックスでなくなりました。だって、自分がネイティブに教えているんだから)、そのうちテスト前にはいろいろとアドバイスするようになっていました。

授業はもう1つ受講していたのですが、実はそれは大学院生用のコース。(大学院生は初年度に400番台と500番台の授業を取ります)

ワシントンには、フリッツ・ニューマイヤーという有名な言語学者がいるのですが(NHKにも2回だけ出たことがある)、彼は大学院生用の授業しか担当していなかったんですね。

せっかくワシントンに来たんだから、ぜひともフリッツの授業を受けてみたかったので、私は思いきって嘘をつくことにしました(爆

アメリカの大学の高番号の授業は、前提となる授業(prerequisiteと呼びます)をいくつか受講していないといけないのですが、私は、フリッツにアポを取って「日本で○○、××をやってきたので大丈夫」とはったりをかまして、受講許可を得ることに成功しました。

端的に言うと、受講登録できるように身分を大学院生に変えたわけです。つまり、学部で留学しているはずなのに、大学院留学が体験できた。

フリッツの授業は、言語理論の比較というもので(Language Form, Language Function+reading packetが課題)、けっこう抽象的で分かりにくかったですが、それでも大筋は掴めていたような気がします。

日本で、Functional Linguisticsと呼ばれる学派の本はよく読んでいたということで、学期末のレポート(論文が課題)では、随分と楽をしました。「言語はあくまで、派生可能な構造というものが先にあり、それをどう活用するのかというレヴェルで話をするのであれば、機能文法は十分に存在価値がある。ただ、彼らは機能が構造を決定するとかいう誤解をしており、言語機能を指摘して、それで説明が終了したと自己満足している」といったことを書いたことを記憶しています。

大学の授業は随分とハードで、とにかく読む文献の課題が多いのです。(reading packetというのは要するに論文の束です)

当初は読むスピードが速いわけではなかったので、平日はとにかく勉強ばっかりしていました。

勉強、勉強、また勉強。

その代わり、金曜の夕方からはFriday nightということで、全力で遊びました。

土曜は、だいたい10時くらいに起きて、洗濯物を回して、近所のSAFE WAYに買い物に行って、部屋を掃除して、勉強して、夕方から遊ぶ。(昼から遊ぶこともある)

日曜は、ダウンタウン(宇和島屋とか)に午前中に買い物に行って、午後から勉強。

というのが基本サイクル。随分とメリハリがあったのではないかと思います。

平日は、だいたいシアトルマリナーズの試合に時間を合わせて料理を作って、御飯を食べて、スティーブと喋って、それから勉強して、寝る前にBaseball Tonightを見るというのが日課。

ただし、マリナーズがプレーオフに行ったので、昼間もHUBという場所で野球観戦していたことは多いです。

実は、学業成績はけっこうよくて、Dean's listという優等生名簿に記載されました。これに載ると、termの分の授業料が免除されるとのことでしたが、交換留学で授業料は免除されていたので、名誉だけいただきました。

ただ、こういう形になるものが残ると自信になります。はったりをかまして受講させてもらった手前、恥ずかしい成績は取れないですし、それに留学生は単位を落とすとクビになる。(アメリカでの話)

アメリカの大学はこういう形で知り合いがすぐにできる(アメリカ人は人懐っこい)のですが、イギリスは基本的に「我、関せず」。

授業は受講していないので、あまり詳しいことは言えないですが、端から見ていると、なんかみんなバラバラで帰っているという感じですね。勉強も一人って感じですし。

こっちはみんな自分のコミュニティーがあって、それぞれ自分の世界を持っています。大学院生だとそれでいいのですが、学部生だとちょっと物足りないんじゃないかなぁという気がしないでもない。(修士のtaughtコースの人たちは授業とか一緒なので、けっこう仲良くなるみたいですが)

それと、こっちでは同じ国籍の人たちが固まる傾向にある。アメリカだと、民族・人種のごった煮で遊んでいた記憶があるのだけれど。

それとOSAというinternationalの学生の団体がありますが、FIUTSほど手を焼いてくれるわけでもないし、そんなにイベントもやっているわけではなさそうです。internationalの学生の大半は中国人なので、OSAは端から見れば、中国人学生の団体に見えなくもないですが。

次回はレポートの書き方か、日常生活の風景か、何か気が向いたものを書きます。たぶん。

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2006年10月31日 (火)

留学しよう(1)

語学留学を「留学」と呼ぶことには抵抗があるのだけれど、交換留学は留学と呼んでいいかと思う。

日本人が現実に留学するということを考えた場合、一番実現可能性が高いのは交換留学だと思われる。学部留学はけっこうお金がかかるし、博士留学はまぁ、希望者は多くても実現しないことも多いのだし。

アメリカとイギリスの両方の大学を体験してみて、まぁ、その善し悪しも分かるし、日本の大学生なんかでこのサイトを覗いてくれる人もいるみたいなので、たまには有益な情報の一つも流していいかと思うので、ちょこっとシリーズで長めに書いてみます。

以下、私の個人的意見であって参考程度に留めていただければ、ということだけ注意していただいて。

私個人の体験を言うと、別に留学願望が強かったとか、海外に行きたいと特別思っていたとか全然ないです。

それこそ、人生で数回旅行できたらいいやっていう程度。

受験生時代に苦手で興味もなく、「英会話」と聞くと軽薄で頭の悪そうな人たちがやっているというイメージがこびりついていたということもあって、英語は本当に勉強していなかったのです。

でも、英語をやっていくうちに、文法知識ってやつを使うことによって他言語の構造が分かったり、ざっくばらんでまとまりがなさそうに見えて、それでいて綺麗な一つのシステムを形作っている文法体系というものに興味が沸いたということもあって、まぁ、「極めてやろう」というぐらいの勢いで勉強するようになっていたのです。

そもそもが、私の動機ってけっこう単純なんです。一度決めると突っ走るのですが。

元々、受験参考書を買いに書店に行ったつもりだったのだけれど、当時心斎橋にあった紀伊國屋書店の英語参考書の隣が、たまたま英語学・言語学の棚で、ひょっこりと池上嘉彦さんの「英文法を考える」という本になんとなく惹かれたというか、体が引っ張られる感覚を感じたのです。

ちょこっと読み始めてみると、なんだかこの本自体がとてもおもしろそうに思えたので、そのまま半分近くを立ち読みしてしまって、「まぁ、安いし軽いから買って、このまま電車で続きを読もう」。

というのが、そもそも英語学とかいうものに興味を持ったきっかけ。(池上嘉彦氏の本は、これより前に「記号論への招待」というものを購入している)

それで、志望校を決めるときにも「英語学のできる通学圏内の国立大学」ということで、京都大学と大阪大学を見てみたのだけれど、受験情報誌によれば、阪大に英語学を専攻できる学科があって、活動も活発etcなんてのが書いてあって、「英文法を考える」という本でキーワードになっていたものが散見された(だいたい池上先生とK上先生って懇意なんですよね)ので、「あ、じゃ、志望校は阪大にしよっと」という形で決めました。

非常に単純。

ちなみに京都大学で英語学をやろうとすれば、総合人間学部とかいうわけわからん名前の学部に行かなければならないということが分かったのは、大学の2年生ぐらいになってからです。得体の知れない学部名をつけるのは辞めて欲しいものです。

そういうわけで、入学当初から英語学を専攻すると言って憚らなかった私は、専修志望届けという希望の専攻を3つほど書いて提出しなければならない書類にも、第一志望に「英米文学・英語学」とだけ記入して提出してやったのです。

受付で、もちろん「第2、第3希望を書いてください」と言われたのですが、「ありませんから」と言って強行しました。(かわいげのないガキです)

英語学のK上先生にも学部1年の頃から懇意にしていただいたということもあって、うちの大学に特に不満があったわけでもないです。

大学に入ってまで興味のないことに時間を使いたくなかったので、自分のやりたい科目だけ真面目にやって、その他は本当に単位だけ取れたらいいって感じの受講方法でした。

それで、英語学関連はけっこう受講していたのだけれど、独学することも多かったです。

池上先生には随分と感化されたので、彼の著書で図書館にあるものは読破しました。(余談ですが、分かりやすい明晰な日本語の文章を書くということにおいて、池上嘉彦氏は個人的に一番だと思っています)

それでも、学部生当時の私は理性的なもので「ほどほどに言語学やって就職しよう」と思っていました。

さっさと親元を離れたかったし(実家だった)、さっさと仕事したかったし、自分で部屋を借りて、自分の好きな食器や家具を買って、自分で好きなように生きて、いろいろなビジネスをやってみたいと思っていたのです。(基本的に今もこういう方面に興味はあるのだけれど)

できるだけ、自分の想像力の及ばない世界で生きていきたいと思っていたわけです。

ある日、K上先生に個人的に捕まって、けっこう長い時間、交換留学について語られて「なんで、こんないい制度があるのに、試験だけでも受けてみぃひんのや!」と嗾けられたわけですね。

個人的にはせっかく、英語文献を使って何かをやるという専攻をやっているわけだし、若い間だし、まぁ、1年くらいどっか行ってもいいかという感じで、ものすごく軽い気持ちで留学試験を受けることにしました。(本当に何も考えていなかったんじゃないかというくらい、軽い気持ちで判断しました)

国立大学の交換留学について簡単に説明すると、国公立大学では大学協定に基づいて、単位互換制度を認めている大学間で半年から1年に渡って留学することができます。

この1年間、所属は自分の大学のままなので、授業料は日本の大学に納めて、派遣先の大学では授業料が免除されます。

国立大学の年間授業料は、当時およそ48万円でした。

アメリカの大学は、州立大学と私立大学で授業料は違いますし、州立大学はその州出身者と州外の学生で授業料は異なってきます。

ワシントン大学を例に挙げると、州内の人間は年間授業料が6000ドル弱。日本円にしてだいたい66万円というところでしょうか。

州外の人間だと割高で、20000ドルちょい、およそ220万円ということになります。(高い!)

派遣留学生になれるかどうかですが、これはけっこう簡単。

平均程度の成績を取っていて、特に人間的に問題がなくて、英語圏であればTOEFLのpaper-basedで550点、computer-basedで215点も取っていればまず派遣してもらえます。(でも、TOEFL程度ならpaperで620、computerなら250は最低条件だと思います。それ以下だと授業についていけないと思う)

150万円以上というお金がもらえる上に、単位も保証されているのですから、けっこうおいしい制度だと思います。決断力があれば、後は別に何もいらないのではないかと思われます。(たかが、1年だし)

それと、各大学の推薦を受ければ、文科省の「短期留学推進制度」という奨学金に応募できます。所謂、「国費留学生」というやつです。私の年は、全国の大学で30人前後がもらえていたようですが、最近は「大学の国際化」の旗印の下、もう少しもらえる人数が増えているようです。(あっしの年は改編前のギリギリの年だったのれす)

阪大は毎年、2人、ないしは3人の奨学生が出ていたようで、文系学部にも1枠がありました。(ただし、英語圏ではなく、アジア圏だとかなり高い確率でお金がもらえるそうです)

これは、留学希望の学部生・院生とまとめていろいろと試験を受けさせられます。

TOEFLのスコア以外に、英語面接、翻訳、筆記試験、英語エッセイが課せられたことを覚えています。

どうせならということで、競争毎ということもあり、けっこう一生懸命にやったおかげで、一応、お金をいただけることになりました。

月額8万円。

私の前年までは往復航空券まで支給されていたのだそうですが、私の年にはなし。

それは残念でしたが、それでも授業料と合わせると250万円ほどもらえていたわけですから、この金額は大きいですよね。留学というのはそれだけお金がかかるものなのです。(それと国費留学生はただで保険に加入させてもらえる。お金は阪大から出ました)

阪大から英語圏内の大学へは、アメリカでワシントン大学、コーネル大学、カナダのマギル大学、イギリスのノッティンガム大学、オーストラリアのオーストラリア国立大学と、モナシュ大学の6つが選べたのですが、私はとりあえず「アメリカに行きたい」という理由で上記2つから選択することにしました。

マギル大学は名門で、カナダはけっこう教育大国でモントリオールという都市もきれいでなかなかいいのではないかと思います。治安も問題ないし、物価もそれほど高くはない。おそらく、充実した留学ができるかと思います。問題は寒いことくらい。

ノッティンガムは大学としては名門なのですが、問題は治安。

イギリスはそれほど治安が悪いわけでもないですが、リバプールやノッティンガムはちょこっと危険です。まぁ、イギリスレヴェルの治安の悪さですから、常識範囲の行動をしていれば大丈夫かと思いますが。

オーストラリアはけっこう過小評価されますが、教育は充実していて、治安も良いし、物価も問題ないのでいいかと思います。まぁ、どこに行っても田舎というのはあるようですが。

コーネルは言わずと知れたアイビーリーグの大学ですが(アメリカの名門大学の総称ですね。イギリスで言えば、Ancient University、日本で言えば旧帝大みたいなものです)、イサカというニューヨーク州の端っこにあるど田舎で、冬は雪に沈んで何もすることがないetcなどということだったのでパス。

ワシントンは、シアトルという都市が綺麗で、だいたいのものが揃っている上に、それより何よりシアトルマリナーズというメジャーリーグ球団があったのが決め手になりました。

はっきり言って、選択の際に迷うことはなかったです。

シアトル行きで何が楽しみだったかと言えば、ケン・グリフィーJr.とアレックス・ロドリゲスを観ることだったのです。(グリフィーは私の行く前年、アレックスも私のいた時に移籍しちゃいましたが)

けっこうミーハー。

でも、UW(現地ではユーダヴと発音します)は大学としても名門だし、Linguisticsはけっこう大きい所だったので、学業という上でも文句の付けようがなかったです。

実は、K上先生にも留学前に呼び出されていろいろと話を聞かされたのだけれど、そこで言われたことが「大学のアメフトを観てきなさい。ハスキーズ(UWの大学のスポーツチーム名)は特におもしろいし、強いから感動するぞ」。

ということでした。

あまりに話が盛り上がって、この後、行きつけのうどん屋さんに連れて行かれたのだけれど(阪大の関係者の方は何を話しているかすぐに分かるかと思いますが)、まぁ、いろいろと話しました。

シアトルは綺麗だし、治安も良いし、物価も高くなく、非常にいい場所でした。off-campusで家をシェアしていたわけですが、電気・水道代込みで月額400ドル。それにアメリカは生活品が安いので、生活費が食費合わせて月額200ドルといったところ。

実は、奨学金の8万円で生活費は十分賄えるんですね。

それとUWは学生証を使えば、バスにタダに乗れて、バスのネットワークもしっかりしているので、わりとどこでも好きなところに簡単に行けちゃいます。ノースゲートやベルビューといったモールもすぐだし、ダウンタウンもすぐ近く。

シアトルは観光すべき所がない(スペースニードルと3大スポーツを観戦するぐらい)のですが、生活に必要なものは全て簡単に揃います。

宇和島屋に行けば、日本のものも簡単に手にはいるし、シーフードもおいしい。

交通網や店の状況ってけっこう大事で、アメリカは地方都市だと車がないと生活できない(本当に。だって、食料品もまともに買えないんですから。無駄に広い土地を無駄に使うということをコンセプトに大きくなった国ですから)ので、こういう状況は絶対に把握すべきです。

短期留学でも車が必須だと、いろいろと手続きなんかが面倒くさくてあまりお奨めできないですよね。そういう意味では、アメリカの大学って当たり外れが本当に大きいので、調べておく必要があるかと思います。(後日、簡単に総括します)

というわけで、次回はアメリカでの留学生活についてお話します。

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2006年9月21日 (木)

「学び」のあり方について

MSNは毎日新聞と提携しているので、必然的にちょっと気になる記事に目を通すことになってしまう。

そこで、ちょっと気になる記事があった。(http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20060919k0000e070077000c.html

中京女子大という所で、アルバイトを一定時間こなすことにより、単位を認定するという話があり、それを褒めそやしているのである。

個人的にはアルバイトが成長の一端を担うという意見には反対ではない。(むしろ、賛成である)

しかしながら、アルバイトだの、民間の語学学校だの(これは首都大学の例)で勉強したことを大学の単位として認めるということは、大学の教育放棄なのではないかと思うのである。

この記事では、さらに

「僕の場合「大学生活で学んで一番役に立ったもの」は母校・早稲田大学で学んだものではない。語学もダメ、数学もダメ。専門の「政治経済」の分野もそれなりに勉強したつもりだがほとんど忘れた。」と続き、「それに引き換え、自動車学校で学び、手に入れた運転免許は翌日から今日まで役に立った。今、若者はほとんど免許を持っている。まして公共の移動手段がない地方では車は地域の足。もはや運転免許は義務教育の範ちゅうだと思う。もしカネがないので運転免許が取れなかったとしたら教育格差ではないか。

 肉体的に大人になった中学校で運転免許を取るべきだと思う。自動車学校のように運転技術とペーパーテストのコツを教えるだけではない。何よりも「運転する人間学」を教える。「スピードの自由」ではなくて「スピードの平等」を教える。運転技術を通して「人間が生きるための基礎ルール」を教える。酒酔い運転は死に値する、と教え「もうけてなぜ悪い」と居直る人間にならないためのルールを教える。中学生は「ルールを守って損をする勇気」を学ぶ」

と続く。

あえて言おう。

毎日新聞はカスであると!

やっぱりね、大学には大学でしかできないことってあると思うんですよ。

そこで重要なのが、「大学には資本主義の理屈は通用しない」という前提だと思われるんですね。

資本主義ってやつは、消費者がお金を払うことによって、その対価をいただくシステムのことである。

資本主義の商取引の基本は「お金=もの、サービスの価値」ってやつなんだから、学生は大学にそれなりの対価、見返りを要求して何が悪い?という風潮って、最近よく見かけますよね。

それは残念ながら、学術研究の場における大学においては不相応な要求であると言わねばならない。

理由は大きく2つある。

まず、学びの本質というものにおいて、「今、自分が学んでいる」ことが役に立つかどうかは、学んでいるプロセスにおいてはいかにしても知りえることできないということである。

学ぶということは、定義上、「知らないことを学ぶ」ということなはずである。

学んでいる物事そのものを「知らない」のに、それを学んだ「結果」だの「効用」だのがどうやって分かるっていうのであろうか?

学びという行為はそういうものである。

学びのプロセスは遂行的なものであり、そのプロセスの最中には学びというものがもたらす結果については、全く予想も何も立たないのである。

この前提は、当たり前だが根本的なものである。

哲学、言語学、数学、工学、生物学、医学etc何をするにしても、その学びを通してある種の対価が得られるというものでもない。

学士ってやつは、一定時間の学びのプロセスを経てきましたという証明書に過ぎず、別段、自動車免許だの、医師免許だのといったものは本来別種のものであるということを自覚する必要がある。

学びというものは、学ぶという行為そのものに価値を見いだす行為である。その対価・見返りは本来、期待すべきものではない。

なぜなら、両者の間に因果関係はないからである。

もう1つの理由について。

義務教育のように、ある種の「答え・模範解答」なるものが用意されている知的訓練とは違い、大学教育では、個人が問題を設定し、それを自己解決するプロセスが求められている。

先生に「答えを教えてください」と言われて、答えが出る問は本来、大学教育では行われないはずである。

こういう場合、先生と呼ばれる立場の人たちが取る適切な態度は、疑問を共有するだけのことであって、「答え」なるものを提供することではない。

在学中でもかまわないし、卒業後、数年してからでもかまわない。

ある種の問題に対して、自分で疑念を抱き、その問に対する自分なりの構え、方針、対応、答えを提示すること。

そのきっかけを与えることが、大学教育における学びの基本である。

オックスフォードやケンブリッジ、それにresearchというシステムを用いているイギリスの教育システムにおいては、原則、supervisorと呼ばれる教師は生徒に何かを教えるということはしない。

ここでの教育の基本は対話であり、一方通行の「教え諭すこと」ではない。

supervisorと学生との間で交わされる授業は基本的に、同じ視線における問題意識の共有、および知的葛藤であって、教師が何かを伝えるということは原則、ない。

このシステムはそれなりに機能しているし、そこでは学生は「見返り、対価」なるものを原則として求めない。

こういった知的錬磨を11世紀から続けることによって、イギリスの大学システムは機能し続けてきたわけである。

ここには「学び」の1つの形が体現されていると言うことができるように思える。

「実学志向」なるものがよく求められているが、かような「実学」はその時間・場所においてかなり温度差のあるものである。

そのような「実学」志向を要求する政府や企業の願望は、原則「気まぐれ」なものである。なにせ、彼ら自身「実学」なるものがどうのようなものかよく把握していないのである。そのようなある種の外側の空気に合わせる必要があるとは、とうてい私には思えない。

気まぐれで「実学」の中身が変われば、すぐに自分が否定されることになるということには生存戦略上、全ての学生が意識すべきことであるように思える。

大学という場所には、そのような気まぐれな実学的風潮からの防御壁になる役割があると思われる。

こういった学びの本質について語らない限りは、昨今の教育が抱える問題は何一つ解決しないのではないのかと切に思う。

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2006年9月12日 (火)

言語学的に考察する

ロジャー・フェデラーが全米も制覇しちゃったみたいですね。

アンディ・ロディックが地元でのめされちゃうんだから、一体、誰が彼を倒せるのかって感じですが、もしかするとフェデラーは歴代最強のテニスプレイヤーなのかもしれない。

本題に入って。

こっちに来ていると、確かに大阪では体験できないようなことも、いろいろと経験できたりするのは楽しい出来事なのかもしれない。

今まで、数人見かけたのだけれど、小さなお子様が揃いも揃ってバイリンガルなのってけっこう感動しますよ。

言語学の中でも生成文法って理論に共感している人たちは基本的に、言語獲得の問題に興味があるのだけれど、それが単なる紙の上だけの話ではなくて、実際体験として幼児がペラペラと外国語(って、どっちが外国語なのか分からないですが)を喋る様を観察するのはある種の感動すら覚えてしまう。

日本語だろうが英語だろうが、本当に使いこなせているんですよね。これを見るのはけっこう楽しい。

もちろん、私も日本語と英語を入り交えて話しかけたりするのだけれど、どっちも完璧に理解しちゃいます。

文法構造なんかも問題ないし、基本語彙も覚えているんですよね。こんな様子を目の当たりにして、「言語能力が生得的能力ではない」って言っている人たちって、一体何を考えているのか?と多少、喧嘩の一つも売ってやりたくなる衝動に駆られます。

若いうちっていろいろと異なる環境に溶け込みやすいものだけれど、言語能力もそのうちの一つなのだとひしひしと実感してしまいます。

ちなみに生成文法のテーゼとして、人間言語は本質的に変わらないという公理のようなものがあります。(まだ、体系化されていないので「公理」と呼べないのは確かですが)

そういうわけで、幼児は日本語だろうが、英語だろうが、スペイン語だろうが、中国語だろうが、一通りマスターしてしまうわけですね。ただ、安定期に入ると、自分の第一言語が一つに設定されてしまって、他言語を忘れてしまうようなのはちょっともったいない気もします。

私の友人に、親が商社マンで、小さい頃は日本語、英語、スペイン語、ポルトガル語を話せていたのに、日本語しか覚えていなくて、英語は普通に勉強して使えるようになったとかいう友人がいます。彼のような体験をしていると、私も言語習得を第一専修にしていたのかもしれませんが、習得はデータが集めにくい上に個人差が大きくて、しかもデータ解釈が恣意的に過ぎるという欠点が目白押しなのがややこしい所です。

問題設定としておもしろいということは、言を待たないのですが。

話題は変わって。

私のように母語が日本語、しかも関西弁という風に決まってしまうと、言語の捕球能力と言いますか、方言を拾う能力が欠けてしまうのもけっこう悲しい出来事だったりします。

例えば、東京近辺から来た女の子(男は使わない言い回しなので)と話しているとだいたい困ってしまうのだけれど、「○○なくない?」という表現を、私は本気で理解することができません。

これは、関西圏外の人たちに「え?あれ、ちゃうちゃうちゃうんちゃうん?」という表現を理解せよ!と言うのと同じくらいの無理難題なのです。

例えば、パソコンの話題なんかで、「Macってよくなくない?」などと言われると、私の頭は一瞬フリーズしてしまいます・・・( ̄▽ ̄;凸

一体、彼女はマカー(Mac userのこと)なのか、アンチMacなのか?と思い悩むことになります。

全知全能の神であらせられる女性の言説に刃向かうことが許されない以上、この発言に対する返事は、それこそ生死を定めると申し上げて過言ではないのではないかと思う。

compositional semanticsの観点から、言語学的に考察してみよう。

まず、「なく」「ない」と2つの否定語が使用されているということから、この言説は二重否定、すなわち肯定文であるということが予測される。

「二重否定=肯定」という単純な数式からも分かるとおり、この言説は「Macっていいよね?」と翻訳することが可能なはずである。

ということは、この言説に対して我々男性が返せる適切な返事は「はい・そうですね」といったような頷きの表現だけであるはずである。

というわけで、「そうだね。デザインとか、イラストもかわいいしね。(決して、コンピュータの性能に言及してはならないのがコツである)」と答えるのが模範解答とというか、許容される返事なのであろう。

適切な言語使用というのも難しいものである。

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2006年9月 3日 (日)

疲れました

イギリスの言語学では最大のイベント、L○GBに行って参りました。

場所はNewcastle、Yorkからは電車で1時間ちょいなので、ちょっと近所に行ってくるって感覚ですね。大阪から名古屋に行くよりはだいぶ近いのではないかと思われる。

サンドイッチを買っている時に、うちのdepartmentの同僚のサウジアラビア人の学生とばったり会ったので、Newcastle駅から大学キャンパスまで一緒に行こうという算段を建てる。

11時過ぎの電車に乗って、12時過ぎに駅に着き、プリントアウトした地図を見ながら場所を確認しておいたのだけれど、イギリスの地形ってけっこう分かりづらいんですよね。

しかし、ある程度地図を見るのにも慣れているし、迷わないで行く自信はあったのだけれど、例のサウジアラビア人の学生さんとその友人のまたまたサウジアラビア人の学生さん2人を連れて歩くのはけっこう一苦労。

どちらも女性なのだけれど、こういう方向感覚だとか場所認知に関して、私は女性を信用しておりません。(「そんなの偏見!」という反論は受けつけましょう。でも、経験的に女性に地理を頼らない方がいいということは、生きる知恵として既に身に付いているのです)

2人は積極的に行きたい方向に行っちゃったり、とにかくひっきりなしにいろんな人たちに道を聞いて回るのだけれど、明らかに

「おいおい、そこは違うって・・・・( ̄▽ ̄;凸」

ってルートを積極的に辿って行かれます。

とりあえず、行動したそうだったので、彼女たちが満足するまで適当に駅の周りをぐるぐる回っていたのだけれど、途中で不安に駆られた彼女たちが(こうなるまでには15分くらいしかかかっていないのだけれど)「タクシーに乗ろうか?」と言い出したところで、

「じゃ、私が先導するのでついてきて。地図は分かるし」

と発言して、彼女たちを連れて歩く。

一応、右往左往している時に地図で道路の名前と方角を確認しておいたので、目的地にたどり着く自信はあったのです。

ただ、こういうやる気のある女性たちの機嫌を削ぐような真似はしてはいけないと思っていたので、とりあえず納得するまで(うまくいけばもうけものだし)放任しておいたのです。

こういうときは、「分からないから、お願い!」と任される方が気楽でいいのだけれど。(それで間違えれば、キツーイ詰問が待っているのも確かなのですが)

そういうわけで、たぶん彼女たちも不安に思っているだろうから、ということで、今いる場所と辿っているルートと目印になる建物を逐一報告しながら歩くこと15分。無事に目的地のbuildingまでたどり着きました。

はい、おかげさまで随分と感謝していただきました。

registrationをする場所は、想像していたよりもかなり小さな建物で、しかも立て看板のようなものもなく、どうにかすると見つけられないのではないか?と思われるような小さな小さな張り紙がぽつんと貼ってあるだけだったのです。

日本の言語学会だとか英語学会なんかだと親切なので、改めてこういう細かい所に気づいてくれる日本人の気配りなんかのありがたさを思い出したりしてしまう。

conference packをもらったのだけれど、内容は日本のそれとたいして変わらないですね。abstract bookのファイルがちょっとおしゃれかな?というぐらい。

そこで、まず、一発目のトラブル。

な、なんとあっしのabstractだけが白紙になっているではありませんか!

な、なぁぬぃ!!??( ̄▽ ̄;凸

なんだか、名前とタイトルしか書いていなかったのだけれど、後日あっしのファイルが開けなかったという報告を受ける。それならそうと、さっさと連絡してくれればいいのに・・・( ̄~ ̄;)

というわけで、学会で用意してくれた(とは言え、お金払っているのだけれど)lunchを食べてから、自分の滞在するcollege accommodationまで移動する。会場からは徒歩10分といったところ。ただ、場所は随分と分かりにくい所にあります。

発表がぼちぼち始まりだした頃合いを見て、1つだけ発表を最初から見る。

出席者の事前に登録した人たちのリストは連絡先も付けて配布してもらえるのだけれど、人数は英語学会だとか言語学会と比べると随分と少ないです。ちょうど、数だけだと関西言語学会ぐらいと言えば、この業界の人たちは想像がつくのではないでしょうか。

ただ、アメリカやカナダなどからも数人、ヨーロッパ