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2009年7月

2009年7月18日 (土)

また巡り来る夏の日に

えと、暑いですけど、高校野球観てきます。

ちなみにこれは先週撮ってきた写真。高校野球の雰囲気、懐かしい。


Img_0086

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2009年7月 9日 (木)

クラシックを聴く

若い頃はクラシックなんて特に興味もなくて、まぁ、ドラゴンクエストの呪文ラリホーよろしく人を眠らせるための音楽なのではないか、なんていう幻想もなんとなく信じていた程なのだけれど。

ただ、年を取るに従って、時間と空間を越えて生き残っているその普遍的価値みたいなものが分かるようになってくると、魂に「じん」とくる感覚のようなものが芽生えてくるのがよく分かってくるようにもなるのです。

さらにヨーロッパにずっと住んでいると、やっぱり教会音楽なんかを通して直にクラシックを耳にする機会が増えてきたり、ロンドンでめぼしいミュージカルのプログラムが見当たらなかった時にLondon Symphony Orchestra(ロンドン交響楽団)なんかの音楽を聴いてみたりすると(安い場所だと10ポンドくらいでチケットが買える)、やっぱりクラシックに対する興味も出てくるのです。

のだめカンタービレなんてのもそれに拍車をかけちゃったし。

音楽を直に奏でる演者の高揚感みたいなものは、それこそ想像するしかないのだけれど、スポーツをやっている時の高揚感なんかから想像すると、やっぱりそれなりに身体的に「じわ」っとくるものがあるのだろうなということは想像に難くない。

私はもちろん、オケに参加するような力量なんて全然ないし、楽器なんてそもそもまともには弾けないのだけれど、それでも耳で楽しむくらいのことはできる。

今日はちょっとしたイベントで、日本の若手有望株の指揮者の海老原光さんが指揮する音楽をアリーナの特等席で聴くことができたのだけれど、なかなか楽しかったです。

序盤のG線上のアリアだとか、ベートーベンの交響曲の7番なんかはなんだか「おとなしくて」、ちょっと教科書通りに過ぎるんじゃないかと素人ながらに思ってしまったのだけれど、後半のグリーグのペール・ギュントやチャイコフスキーのくるみ割り人形なんかは力強く、そして飽きさせないテンポを持った構成にしてあってとてもよかった。身体が音楽に「乗せられる」という感覚が感じられた。

それとさすがに指揮者だけあって、人をまとめて、のせるのが上手いですね。こういう「リズム」を作り出すという技術は所謂「教育職」に就いている人にも必要なのではあるまいか。

まぁ、それはそれとして今日は音楽を聴き、ちょっと食べ歩いたりもして、楽しい時間を過ごすことができました。

オケのみなさんもありがとうございました。また時間が出来れば日本でもクラシックを聴きに行ってみたいものです。

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2009年7月 4日 (土)

教師が仕事をしすぎるということについて

今日はいい天気ですけど、ずっと雨で大変でしたね。

家の近くには大和川という昔は氾濫しまくっていた川があるのだけれど、やっぱり水かさが増えていて大変でした。河川敷なんかも川の底に沈んでいたりするし。

川の氾濫というと、やっぱりヨークのウース川を思い出しますね。有名なウース橋からの風景はこんな感じなんですけど。(york 360から)

Riverousefromousebridge

このサイトでも何度か紹介しましたが、左手に見える建物はパブで、よく川の底に沈みます。治水対策とかやらないのだろうかと疑問に思うのだけれど、マスターはいっつも「この前はここまで沈んじゃった♪」と楽しそうに話をしてくれます。ま、いっか。この種のいい加減さがイギリスのいい所でもあり、悪い所でもある。

ところで、昨日は実に久しぶりに肉を食べながら(恐らく3年ぶりくらいだと思う。焼き肉とかいう料理になると、4年ぐらいのブランクはある)「教師」と呼ばれる人たちと飲んでいたのだけれど、しっかし、教師という人種は(i)よく喋る、(ii)人の話を聞かない、(iii)いい意味でも悪い意味でも子供っぽいという特徴が顕著ですね。まぁ、職業病みたいなもんだと思うので別にそのことは(iiを除いて)悪いことではないと思うのだけれど。

ある程度仕事ができる人たちになると、自分なりの教育論なるものを強く持っているのだけれど、話を聞いていて、「それはなんだかな?」と思う気分になることはけっこうある。

教師は生徒にコミットしてなんぼだ、だとかいう信念は確かに立派だと思うのだけれど、でも1から10まで手取り足取りとかいうのは、なんだか1対1で人間相手に向き合っていないのではないかとかいう感覚があるし、「あれもしてやる、これもしてやる」とかいう態度は、確かに生徒の側からすると「これだけのことをしてくれた」とかいう事実に対して感謝するという気持ちが芽生えることもあるのだろうけど、でも、なんだかある種の押し付けがましさみたいなものが見えて、個人的に好きではない。

私が金八先生があまり好きではないというのもこの理由による。

生徒さんの側から何かの要請があれば、それに応えるということは確かに義務だと思うのだけれど、次から次へと教師の側から手を差し伸べるという態度には、個人的には妙な気持ち悪さを感じてしまう。

一つには、バランス感覚のようなものがあるからだと思う。例えば、教師と言えど、一人間である以上は自分のプライベートを持っているわけだし、友人や大事にするパートナー、ないしは家族がいるわけだから、それはそれでそっちを大事にするという必要が私にはあるように思える。

自分にも周りにも自己犠牲を強いる人たちが教師という人たちには時に見られるのだけれど、そのことが善であると私にはとても思えない。

仕事、特にクラブ活動にコミットしすぎて結婚できない、ないしは離婚してしまうという人たちを指して「クラブ未亡人」、「クラブやもめ」なる言葉もあるみたいなのだけれど、いかなクラブ活動にコミットしている生徒といえど、自分の家庭を破壊してまで尽くして欲しいと考える学生はいないのではないかと思う。

教師が生徒に思いやりを持つということは大事なことだと思うのだけれど、生徒に思いやりを持ってもらうということも大事な事なのではないかと思う。むしろ、生徒を一段落下に見るのではなく、対等な相手として見るのであれば、そういう態度を見せることも大人としての責務なのではあるまいか。

「生徒にこれだけのことをしたのだから、彼らはetc」という言及に、ある種の押し付けがましさが垣間見られるのはこのことによるのではないかと思う。

それと、「無駄な時間」を省き、etcという発想にもちょっと納得がいかない。

10代の後半、ないしは20歳前後という年齢は、モラトリアムな時間が一定数必要で、あれやこれやと考え、悩むことも重要だと思うし、うまくいこうがいくまいがそれなりに恋愛もして、たまにはちょっと背伸びをして街中に遊びに行って、という回り道をすることは、私は成長過程において必要なことなのではないかと思う。

ちょっと一息ついて、何もしない時間を作ること。

それはきっと、ある種の「はしか」みたいなもので、必要なプロセスの一つなのではないかと私は思うのである。

言い方が悪いのは百も承知だが、それこそ動物園の中の動物のように「しつけ」をする必要があり、少しでも社会生物にする義務があるような生徒を相手にするのは別として、ある程度成熟した高校生や大学生になれば、教師の側も相手をリスペクトする気持ちを持ち、1対1の人間として対応することも必要なことなのではないかと思う。

自分の思うように動き、管理することのできる生徒を持つことは確かに楽しいことで、またそういった人たちの成長に役立つことができるという事実が教師としてのアイデンティティを高めるという側面があることは否定できないように思うのだが、「教師と生徒」というある種のカーストを成立させるのは、あくまで学校という場所での学校営業時間のみと割り切って、それ以外は自分の思うようにいかないのが普通であると考える方が健全なように私は思う。

大きく打てば大きく響き、小さく打てば小さく響く。

教師と呼ばれる人たちは、これくらいのさじ加減でいいのではないかと思う。

まぁ、これも意見の一つであると言ってしまえば、それまでのことなのだけれど。

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