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2009年5月

2009年5月30日 (土)

ちょっと気になったので調べてみた

最近、忙しい。

朝、6時に起床してからずっと働き詰めで、晩ご飯を食べてから意識を失い、夜中の2時か3時に目が覚めてから寝るという生活サイクルを繰り返している。

来週もやること目白押し。にゃう。

ところで。

ちょっと今朝は朝日新聞(ネットニュースだけれど)を読んでいて、ちょっと気になったことがあったので調べてみた。

『元教え子と交際、中学校講師を懲戒処分 福岡

福岡市教委は29日、市内の中学校講師(27)が教え子だった女子高校生と交際し、 18歳未満と知りながら性的行為をしたとして、懲戒免職処分にしたと発表した。 また、内申書のコピーや連絡網などの個人情報のべ2500人分を自宅で家庭ゴミとして出した 西区の中学校の前教頭(47)は、3カ月間減給10分の1の処分とした。

市教委によると、中学講師は以前勤務していた学校で授業を担当した女子生徒と、卒業後に数カ月間交際し、性的関係を持ったという。生徒の携帯メールを見た保護者から、5月上旬に現在勤務している学校の校長に申し出があり、調査したところ事実を認めたという。 講師は「恋愛感情を持っていたが、大人として正しい行動を取るべきだった」と話したという。

朝日新聞 2009年5月29日 』
元教え子と交際、中学校講師を懲戒処分 福岡

えーっと。
確か、日本では親の同意が必要とされるものの女性は16歳で結婚できたはずである。

となると、16歳か17歳の妻を娶れば、旦那は問答無用で条例違反に問われるのだろうか?

素朴でバカらしいが、この手の法律ってやつはめんどっちいなぁとつくづく思う。科学のように美しい世界であればいいのだけれど。

まず、ずぶの素人が専門知識を振りかざすと、結婚に対する規定は民法で、条例はあくまで条例であるはずである。

となれば、法律上は民法が優先される(はず)なので、婚姻ないしは婚約関係にある男女の場合、条例は無視することができるはずである。

とりあえず、自己解決。

しかし。

民法と条例の関係をネットで調べてみると、前者を裁判で争う場合には民事、後者では刑事裁判ということになるらしい。

となると。

16歳や17歳の妻を娶ると、民法上は無罪だが、刑法上は有罪ということになりかねないのでは?

うーん、難しい。

ところで、私の経験に則れば、男が大学生で女が高校生という組み合わせのカップルはそこそこいたという記憶がある。(別に珍しいことではないと思うけれど)

ということは、私の知り合いも相当数条例違反に問われなければならないはずなのだが、これはどうなのであろうか?というしょーもない疑問が頭をかすめる。(時々、私はしょうもないことに頭を悩ませている。まぁ、言語学自体、しょーもないではないかと言われるとこちらも立つ瀬がないのだけれど)

またしてもGoogle先生に聞いてみると(このお方はなんでもご存知である)、条例は当然の事ながら都道府県によって大きく異なるようである。

大阪をひもといてみると。

大阪では、大阪府青少年健全育成条例23条にこの規定があって、

(1) 青少年に金品その他の財産上の利益、役務若しくは職務を供与し、又はこれらを供与する約束で、当該青少年に対し性行為又はわいせつな行為を行うこと。

(2) 専ら性的欲望を満足させる目的で、青少年を威迫し、欺き、又は困惑させて、当該青少年に対し性行為又はわいせつな行為を行うこと。

(3) 性行為又はわいせつな行為を行うことの周旋を受け、青少年に対し当該周旋に係る性行為又はわいせつな行為を行うこと。

(4) 青少年に売春若しくは刑罰法令に触れる行為を行わせる目的又は青少年にこれらの行為を行わせるおそれのある者に引き渡す目的で、当該青少年に対し性行為又はわいせつな行為を行うこと。

の4つが禁止されてあって、違反者は6ヶ月以下の懲役、もしくは50万円以下の罰金に問われるのだそうである。

ふむ。

条例内容を見る限り、純粋に青少年を保護しようという意図が見られるし、バランスが取れているように思える。それにこの条例に則れば、私の知り合いも罪に問われることはなさそうである。

一方で。

今回、逮捕されちゃった人は、福岡県青少年健全育成条例第31条にひっかかっちゃったみたいですね。ここのは厳しくて、18歳未満の人と関係を持っちゃうと、問答無用で2年以下の懲役、ないしは100万円以下の罰金に問われるみたいである。しっかし、同じ日本でもここまで変わるものなのか。

まぁ、人が人を裁くということはとことんアンバランスですね。社保庁の人たちや大分県の教育委員会関係者(他の教育委員会が白だとはとうてい思えないけど)なんかはもっとあくどいことをやっているのに、結局無罪放免なんだから。

せめて、科学の世界だけでもきれいな所がないと人生やっていけない。

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2009年5月26日 (火)

村上春樹の新刊

えと、今月末発売予定の村上春樹さんのIQ84が既に予約だけで重版決定。上巻で25万冊、下巻で23万冊出るらしい。

ひえぇ。

出版不況だとか、小説はメディアとして終わったとか何とか言われているけれど、それでも力のある作品は人を惹き付ける魅力があるようですね。私個人としては、中身も何も見ないでいきなり買うとかいうことはできなので、また本屋さんに出た後で立ち読みしてから、文章に引き込まれるかどうかで購入を決めようと思いますけど。

でも、ケチるわけじゃないけど、ハードカバーってかさばるから好きじゃないんですよね。文庫版が出るまで待つか。

村上春樹さんは、初めてアメリカに行った時に凄く人気があることにけっこうびっくりしてしまったことがあったり、イギリスでも普通にヨーロッパの人たちが読んでいたり、その売り上げたるや恐ろしいものがあるのだけれど、でも、この人程、好き嫌いが激しい作家もいないですよね。

日本人でも他に人気作家と呼ばれる人はいるのだけれど、でも、悪口を言われるという点に関しては村上春樹さんの右に出る者はいないのではあるまいか。

アクの強さという点では、同じ村上さんでも龍さんの方が癖が強くてアンチが多そうな印象があるのだけれど、でも、「よくもここまで」と端から見ていて関心するくらいねちっこい悪口を言われているのは春樹さんの方であって、龍さんの方ではない。

なんだか気の毒な話ではある。

私自身、村上春樹さんの人となりはエッセイなんかから推し量る以外には他にないのだけれど、でも取り立ててこの人が悪い人であるとはとうてい思えない。

というか、特に悪気はないのに特定の人たちを意味もなく怒らせてしまう件なんかを読んでいると、自分と共通する点なんかもあったりして、共感する事も多い。多分、私も村上春樹さんもどっか変わり者ってことで共通しているんじゃないかと思う。

まぁ、一種、世の中を斜に見ているところがあって、それでいて周囲から一歩引いたような生き方をしている部分はなんか一緒だなと思ったりする。違いは向こうには物語を書く才能があり、私にはないというだけのことなのだけれど。(って、ちゃんと物語を書いたことがないので、後者については断言できませんけど)

それで、またまたちょっとgoogle先生で村上春樹さんのことを検索していたのだけれど、まーた上野千鶴子ちゃんの発言に行き当たってしまいました。

なんか座談会みたいな感じので、これでもかっていうくらい陰湿な村上春樹さんの悪口が述べられていたのだけれど、この上野千鶴子さんという人の陰惨さと口の悪さだけはある意味感心してしまう。

よくもこれだけ面識のない人の人格をまるごと全否定して、罵ることができるものだと思う。まぁ、この人は悪口を言うのが仕事みたいなもんだから仕方がないのかもしれないけれど。

涼しい所で静かにちょっとのんびり本を読んでみたいなぁと思う今日この頃。

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2009年5月25日 (月)

高校生カップルについて

高校生にもなると、付き合いだす男女がそれなりにいるわけだけれど。

なんとなく、高校生カップルっていいですよね。中学生カップルだと、「子供のくせにいきがりおって。」という気分にならないでもないけど(「よりを戻す」etcだとか、自分たちも使っていたけれど、中学生が使うとなんだか「はぁ?」って気分になる感覚があるのは否定できない)、高校生だとまぁ、16歳にもなれば女性は結婚できるわけだし、男性でも18歳で結婚できるわけだし、外見的には「男女」という言い方がしっくりくるようにもなるし、それでいて初々しさみたいなのもあって、なんだか「絵になる」という感じがある。

メールだとか、電話をしてるだけでも楽しいんでしょうね。なんとなく羨ましいものです。最近、たとえかわいい女の子からでも、メールの返信すらめんどくさいと思うようになってきた私からすればなおさらのことです。

そんなこんなで、高校生の男女が手をつないで歩く姿はけっこう絵になります。

まぁ、例えば私のようないい大人が女子高生と手をつないで歩いていると、どこに出しても恥ずかしい立派な変態教師のできあがりなのですが(逆もしかり、でっせ。いい大人の女性教師が男子高校生に甘える姿は奇妙である。まぁ、高校生が若かりし頃の滝沢秀明くんで、女性教師が松嶋菜々子なら考えないでもないですけど。そんな組み合わせ、現実にはありませんわな)。

って、今日もたいした内容のないエッセイでしたね。ま、気楽に読んでもらえれば。

ピース。

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2009年5月18日 (月)

やっぱわからん

えと、大阪府全域の多くの教育機関が1週間閉鎖となりました。原因は、例のトンフル。

今回のインフルエンザは調べれば調べる程、何がおっかないのかよく分からない上に、そもそも1週間学校を閉鎖したところでどーにもならないだろ?という気がして仕方がないのだけれど、お上の身上としてはマスコミさんたちに叩かれないように

「最善を尽くしましたぜ」

という努力の跡でも見せておく必要があったのであろうと邪推できる。

それで、問題はこの1週間の閉鎖分の遅れをどうするかという問題だが、「国民の健康を第一に配慮したため、超法規的措置を取る」などといった形にすることはないでしょうね。「安全対策もやりーの、単位認定の基準も満たしーの、の両立をしたい。現場で適宜工夫すること」という強権発動がなされるだけのことであろう。

なんてことはない、単に夏休みを1週間前借りしただけのことになるんちゃいますやろか。

やれやれ。

それにしても、付和雷同的性質に関しては、日本人の右に出る者はいないというか、さすがというか、どこを見てもみんながみんなマスクをつけている姿を見るのはとっても奇異に写りますね。あんなもののどこに効力があるのか、私には皆目検討もつかないですけれど。

しっかし、海外にいると日本人という人たちの優秀さがいろいろと見えてきて、時に誇らしく思えることもあったような気がするのだけれど、日本にいると「もしかして、日本人ってバカばっかりなのではないだろうか?」という懸念もけっこう膨らんでくる。テレビ(今の家にはないけど)を見ても、バカがばか騒ぎしているだけのことしかやっていないし。

もちろん、失望しない程度に優秀な人に会うこともあって、そういう時にはちょっとほっとするのだけれど。

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2009年5月16日 (土)

もうやめて

やたらとやかましいテレビがこういう時に家にないのはせいせいするのだが、世間では豚インフルエンザに関してヒステリックに騒ぎ立てるニュースが多くてやってられない。

カナダに研修に行っていた寝屋川の高校生が感染したというニュースが流れるや否や、高校や教育委員会が猛烈にバッシングを受けたり、しまいには感染した高校生たちが何か犯罪でも犯したかのように叩きまくるメディアやらインターネットやらには気持ち悪い程の違和感を感じる。

とうとう感染源の不明な、日本国内の感染者が兵庫から出たそうだが、これに関しても正直、「騒ぎ過ぎ」という印象が否めない。

あぁ、もう、やんなっちゃう。

そりゃ、豚インフルエンザはそれなりに恐ろしい病気なんでしょうよ。

一番「酷い」とされている地域のメキシコでは20人、ないしはひょっとすれば60人が豚インフルエンザで亡くなっているとされている。

インフルエンザ自体、感染力の強い伝染病なんだし、そもそも死人が出るのは毎度の事なのである。

悪名高いスペイン風邪に至っては、世界中で5000万人近い人が亡くなったというのだから、油断は禁物である。

しかしながら、ですね。

手洗い、うがい、予防接種以外に予防方法もないわけですし、そもそも人間が生きるにリスクってのはつきものなんだから、「あれもダメ、これもダメ」とか、何かとやたら騒ぎ立てる様子を見ていると、生きていくのがつくづく窮屈になっていくもんだと思わないでもない。

私は、BBCをiPhoneのpodcastで毎日聞いているし(イギリス国内とworld newsの2つを聞いている)、ロイターなんかもちょこちょこ見ているけれど、こんなに大騒ぎしているのは日本くらいなのではないの?

挙げ句、今月に予定していた某言語学の国際学会も延期にするそうですし、なんだかなぁという気がして仕方がない。

リスク、リスクって、別に回避しなきゃいけないほど危機的なリスクのように私には思えないのだけれど。

それよりは、新型インフルエンザと騒ぎ立てることによって社会不安を煽り、不況に拍車をかけ、くらーいニュースばっかり流して、挙げ句、感染者を犯罪加害者のように責め立てるという社会構造の方が深刻な病にかかっているんじゃないか?と私なんかは思ってしまう。

もうちょっと冷静になれないもんかなぁ。

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2009年5月 6日 (水)

まぁ、楽しいのだが

えと、正直、今の生活はなかなか楽しいです。

定期的にバトミントンができるのもいい。まぁ、たまには野球とか球遊びもしたいのだけれど。

バトミントンはとかく素人に近かったので、1日単位で自分が技術を身につけたりうまくなっていく様子が実感できるのがいいです。野球なんかだと、それこそ全盛期は過ぎ去っているので、下手になっていく自分を実感して、ちょっとずつ絶望するのがいやーな感じだったのだけど。

しかし、いろんな面でやたらと自分が持ち上げられているのがなんだか違和感があって、ちょっと「嫌」な感覚もあり、自分が本来いるべき場所にいないのではないか?という感覚がどうも拭えません。まぁ、1年で終わるといいのだけれど。

それと、イギリスの大家さんとコンタクトを取って自分の郵便物の扱いについての話をまとめる。実は先月に、ずっと同居人だったイギリス人のスティーブとブレットが引っ越しちゃったので、スティーブに頼んでいた事後処理をそのままお願いしちゃったのです。

お金にならないのに、めんどっちいこと頼んでごめんなさい。まぁ、相手は若い中国系の女性なので、次に訪問する時に日本のお菓子でも持参して行きます。

研究者モードのお仕事と、仕事探しや学会関係の書類作りは専ら夜中にやっているのだけれど、疲れているせいか、「沈んで」いることが多いです。気がつかないまま机にうっつぷしていたり、椅子の下で寝込んでいたりetc etc

たまに酒を断って集中すると、朝の4時までやっていたりして、アドレナリンの放出量がコントロールできないような感じになっております。無理をしようとすれば、できんこともないって感じなんだけど、その後がしんどい。

若いんだか、年を取っているんだか。

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2009年5月 3日 (日)

無駄はいらないのか?

現在の大阪府知事は橋下さんで、まぁ、報道されているように意外とちゃんと仕事している感じだし、前任者のぶさえさんと比べれば、かなりマシな知事さんだと個人的には思う。

財政状況を黒字に変えたという部分は、確かに「目に見える」功績だし、まぁ、それなりに評価してもいいのかなと思う。

この人の知事としての方針はけっこう一貫していて、「お金」というのが常にキーワードになっている。

そもそも政治の基本は税として徴収した富の再分配にあるのだから、それはもっともである。

しかしながら、ことは大阪だけの話でもないと思うのだが、「無駄を省く」ということが徹頭徹尾追求されている昨今の日本の風潮は「なんだかな」と思う。

アメリカ人は遊ぶ為に働き、

ヨーロッパ人は休む為に働き、

途上国の人は生きる為に働き、

日本人は働く為に生きる。

とかなんとかいうブラックジョークを思い出してしまうのだが、どうも日本では無駄を行うとか、遊ぶとか、休むという行為に対して罪悪感を抱かなければならない義務感のようなものを押し付けられているような気がして仕方がない。

有給を取れば、「社会人としての自覚がない」と周りから白眼視され、産休を取れば「会社の負担になる」と言われて退職を要求され、昼にビールを飲むと、「昼間からどういうことだ?」と蔑まれ、旅行に行こうとすればその旅行先やら計画やらを上司に報告し、etc etc

人生を楽しもうという行為をしようとすれば、周りから足を引っ張り合うプレッシャーをお互いに押し付け合って、息苦しい社会にみんなでしていこうという雰囲気になんだかどうも馴染めない。

こういう国民性のせいか、「みんなで一緒に休む」という手段を取ることにより、なんとかプレッシャーを軽減して楽しもうという方向性があるにはあるのだが、いかんせん、みんなが同時期に行楽地に行くので、あちこちがごった返してなかなか楽しめる状況にはならない。

休みも適当に分担して、平日の昼間に行けばいいのに、と切実に私は思う。

そんなこんなで、政府が頭ごなしになのか、「みんな」によるプレッシャーによるものなのか、「連休を楽しめ」とかいう風潮を押し付けられると、どうも私のようなひねくれ者は「へんっ」という気分になってしまう。

というわけで、ここ最近も、わりと普通に仕事してます。とは言っても、午前か午後に若い子たちとバトミントンをして、空いた時間にパソコンを打って、論文を読んでいるけっこう気楽な生活なのだけれど。

話を戻して。

それで、「無駄を省く」という政策の中には、大阪センチュリー交響楽団への援助の廃止だとか、市民体育館の廃止なんかも含まれているのだそうだ。

かろうじて、後者は首の皮一枚繋がって、前者は今後の状況次第なのだそうだが。

正直、一部、政治団体や利権団体への援助は、公共機関である大阪府が行うべきなのかどうかということに対して、私も疑念を抱かざるを得なかったのだけれど、体育館だとか芸術活動の援助くらいは行ってもいいのではないかと切実に思う。

この種の「無駄」という言葉に込められている意味は、私の解釈が間違っていなければ、生存に必要か否かということである。

徹底して無駄を省いた人間の生き方を追求すれば、行き着く先は、寝る場所があって、食べ物と飲み物が確保されてあって、繁殖に必要なパートナーがいればそれでいいとかいうことになるのだけれど、でも、それは人間的活動としてはいかがなものかという疑念が拭えない。

どうせ寝るのなら、快適でお洒落な場所にしたいという遊び心も、どうせならおいしくて見た目が奇麗な食べ物や飲み物を口に入れたいという欲求も、どうせなら一緒にいて快適で好きだという感情が抱けるパートナーと一緒にいたい欲求も、換言すれば、「無駄」ということに他ならない。

無駄なく効率的な繁殖を求めるのであれば、利便性だけを追求した寮のような住環境に人間を押し込めるべきだし、食物は栄養価のみを求めるべきだし、晩婚化・非婚化の叫ばれている昨今、それこそ統一教会の合同結婚式のように無理矢理「つがい」を作ってしまうべきであると思う。

しかしながら、かようなブロイラー的生活スタイルを求める人間など、皆無であろう。

人間に無駄は必要なものなのである。

見た目のいい建造物を建て、音楽を奏で、絵や彫刻を書き、文字や絵、映像で物語を作り、知的好奇心を追求し、スポーツに勤しむということは全て生存に不可欠ではない「無駄」であるが、かような無駄にこそ人間生活を人間的に彩る働きがあるのだと私は信じて疑わない。

仕事や生存に無駄があって、何が悪いのかと私なんぞは強く思う。

「無駄を省く」という思想も考えものだと思うのだけれど。

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