モダリティの可視性ガイドライン
幼児が第一言語を習得するに当たって、当面、言語能力というものを仮定してみましょう。
要するに視覚能力や聴覚能力みたいなもんだと思っていただいて、けっこうです。
それで、英語圏に生まれた幼児は当然、英語の言語刺激を元に英語を習得し、日本語圏に生まれた話者は日本語刺激を元に日本語を習得することになります。
語彙の差ももちろん大きい(というか、具体的なレベルでは共通点がないほどですが)わけですが、文法体系ももちろん異なります。
英語はSVO言語だし、日本語はSOV言語。
英語では、「What did John buy?」と、wh要素を用いる疑問文ではwh要素を文頭に持って来るという規則がありますが、原則、日本語ではそういう制約はありません。
「ジョンが何を買ったの?」
でも、
「何をジョンが買ったの?」
でも、どちらでもオーケー。
日本語は元々、語順が緩やかな言語なので、どちらの語順も幼児は耳にするのでしょうし、それより何より、SOVという語順なので、wh要素が動いているという根拠が見つけづらいわけです。
英語だと、SVOという語順なので、Vが言わば参照点みたいな感じになっているので、「お、wh要素はいっつも動いているな」という規則性を幼児が見つけることができるわけです。
それに助動詞を動かして疑問文を形成するという部分も大きい。
こういう習得プロセスを、言語学で「+whのスイッチが入る」というような言い方をすることがあります。
つまり、人間言語としてはwh要素を動かすか動かさないかという2つのオプションがあって、言語刺激を元に、どちらのオプションを選択するのか幼児が判断し、身につける。
ということを仮定しているわけです。
人間言語ならありえる規則群、つまり原理のようなものがあり、それぞれの原理はパラメータのセッティングがあって、融通が利くようになっていると考えているわけですね。
それで、日本語と英語を比較して、より抽象的で一般的な規則郡の性質の解明をしようとしている言語学者の多くは、よく日本語の文法規則の「貧弱さ」のようなものを仮定しています。
さきほどのwhのパラメータでいけば、当然、「マイナス」になるわけですし、英語と比べると、冠詞のようなものもないですし、時制を表すような文法要素もちょっと貧弱。
凄くクレバーな人なのですが、N・F(業界の人はすぐ分かると思いますけど)という日本人言語学者がこの手の差異に特に注目し、所謂、機能範疇と呼ばれるような、時制、冠詞のような要素は幼児が習得するに当って、言語刺激として与えられなければ発現できないという話を展開されています。
要するに、これら機能範疇の発芽には、言語刺激が必要であり、そういった刺激がなければ発現しないので、各言語間に見られる文法の差異の源は機能範疇に還元できるという話です。(もちろん、単純化して喋っています。詳しくは、大修館から出ている「自然科学としての言語学」をご覧下さい。たぶん、どっかの図書館にあるはず)
しかしながら、一方で。
日本語では刺激が強いのに、英語ではあまりないという部分もあってしかるべきです。
そういった日本語での「豊かさ」の一つの指標に、モダリティ表現というものがあるのではないかと思います。
モダリティというのは、文の内容に対する話し手の判断や心理を表現するもののことを言います。
例えば、「今日はいいことがあるだろう」という下線部表現がそれに当たります。話し手の予測を表現しているわけですね。
人の心理を表現する場合、日本語では、主観的な感情の場合、特別なモダリティ表現を必要としませんが、客観的な感情の場合、何か特殊な表現が必要です。
例えば
(1) 私は悲しい。
(2) ??あなたは悲しい。
(3) ??彼(女)は悲しい。
という例が挙げられます。一人称主語の場合、「悲しい」という感情を表す形容詞だけがあって、それだけでオーケーですが、二人称、三人称の場合、「悲しそうだ」のような表現でなければすわりの悪い文章になってしまいます。
この手のモダリティ表現がけっこう日本語では豊富ですが、英語にはあまりないですよね。
先日、日本語を学んでいるイギリス人学生と喋りましたが、
(4) 女の子は悲しい。
という文章を見て、そのすわりの悪さを説明するのにけっこう苦労しました。(ちゃんと説明したわけですが)
英語では、そのまま
(5) The girl is sad.
と言い切ってしまって問題はありません。法助動詞などを使用することによって、モダリティを表現することはできますが、主観性・客観性を区別するマーカーが特別英語にあるわけではなさそうです。
主体性や客観性が言語表現として現れると言えば、ちょっとおかしく思われるかもしれません。
しかしですね。
日本語では「自分」という代名詞の指示性がけっこう特殊で、いろいろな場面で使えるわけですが(英語のselfに対応する、だけでは全然間に合いません)、その機能を記述するのに、「視点投射」なる文法構造を仮定する研究者もいるほどなので、この方向性自体は間違っていると一概には言えないのではないかとも思います。
日本語を第二言語とする人たちと接していると、いろいろなことに気がつく機会があるのはなかなかに楽しい。
なお、理論的な観点から言えば、音形のある要素で直接、モダリティを表現するようなオプションがある場合には、純粋に文法操作(agree/feature checking)を喚起させるスイッチが入るわけではないとされています。(e.g. Fukui & Sakai, 2000)
多少小難しいことを申しますと、英語では抽象的なコンピュテーションで処理する操作を、日本語ではPFやLFで処理する傾向があるのではないか、という立場です。今回の話ですと、モダリティを語彙的に表現するオプションが豊富なので、文法操作の貧弱性を語彙で賄い、一つの文法システムとしてのバランスを取っているということでしょうか。
最後に専門的な話になってしまってすまない。
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